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マニュファクチュアの始動

毎日更新しているのにストックゼロという荒技を続けています

【授命暦843年 4/1 朝】


 井戸端の石版に、空欄が並んでいた。


 家ごとの壺の数だけは数えた。けれど、仕込んだ日付は、どの家のものも、はっきり書けていない。見張り役の欄も、半分は埋まっていない。


 このままでは、およそ十五日後にセイへ渡す八壺のうち、どれが売れる壺なのかも分からない。


 月の頭の朝、井戸端に集まったのは六人だった。アンナ、村人が二人、婆さん、ローザ、それから僕。男衆のうち何人かは少し離れた畑で、賦役の前の支度をしている。婆さんは藁束に腰を下ろして、桶のへりを指で撫でているだけで、まだ何も言わない。


 僕は石版を膝の上に置いた。書き付けてあるのは、家ごとの壺の数と、誰がその壺の見張り役か、という程度。全ての家を回って、進捗を書き記すなんてことは不可能だった。


「アンナさん、この壺、仕込んだのは何日でしたっけ」


 アンナは桶のそばでしゃがんでいた手を止めて、しばらく口を開けたままだった。


「えっと……婆さんが来た日の次の日、です」


「婆さんが来た日が、何日か分からないんです」


「……えっ」


 その横で、もう一人の村人が鼻先をかいた。


「それ、途中で水を足したやつじゃなかったか」


「足したかもしれないです」


 アンナは即答した。それから、はっとして、ちょっと泣きそうな顔をした。


 ローザが一歩前に出た。


「これ、何も書けてないじゃない。あんた、把握してる気でいただけでしょ」


「……うん。管理しきれないよ」


「結局、セイにどれだけ渡せるのかもよくわかんない。これどうすんの?」


 ローザは僕の顔と石版を順に見た。それから、もういちど石版を見た。


 空欄が増えていた。仕込み日が書けない壺、見張り役がぼんやりしている壺、途中で水を足したかもしれない壺。


 僕は壺の数だけは数えてきた。家ごとに合計いくつ。中の壺と外の壺。腐ったやつ、酢になってしまったもの。それはどうにか把握できた。


 アンナが、桶のへりを両手で握り直した。


 大切なのは、飲んで大丈夫なのか、売れるのかどうかだ。


 仕込んでいる酒はあるのに、どれがもう酒になっているのかが、誰にも分からない。そういう状態。


 これは家内制手工業段階における工程管理の典型的な崩壊だ。生産単位が各家の土間に分散している以上、仕込み日も見張り役も追跡不能で、品質の標準化は成立しない。これを克服する手筋は集中作業場への移行、すなわちマニュファクチュア前段の合理化——要するに——とまで頭の中だけで走らせて、そこで思考を止めた。今いるのは前世の研究室ではない。要するにを言っても、目の前の梨酒の壺の仕込み日は揃わないし、誰が責任を持っているのかすらも不明瞭だ。


 婆さんは藁束に座ったままだった。


 鍋の灰汁を取りに通り抜けたイェニーが、井戸端の縁を撫でて言った。


「春になっちゃったねえ。このまま続けるなら畑はどうしましょうかねぇ」


 確かに重大だ。みんな酒だけを作っているわけではなく、賦役や自分の畑の世話もしなければいけない。


 僕は次の壺に進もうとして、また止まった。アンナの隣の家の壺の見張り役が、誰なのかが分からず、誰に聞けばいいか分からない。


 村人の一人が、僕の顔を覗き込んでため息を吐いた。


「兄ちゃん、これ、どうすんだ?まともにすすまねぇぞ」


「……えーと、僕ももうわかんないですね」


 分散管理を切るしかない。壺を家から切り離して、一箇所に集める。所詮僕は、単なる教師、学者であって、発言力があるわけでもない。集約して工場化だ!と口に出しかけて、やめた。そんな言い方をしても、みんなは頭に疑問を浮かべるだけだろう。


 その村人は僕の方を見ずに、井戸の縁の石を指で叩いた。



【授命暦843年 4/1 昼】


 太陽が高くなった。井戸端の同じ場所に、同じ六人がまだいる。


 壺の見張り役を全部書こうとして、日の影が井戸の縁を半分ほど横切っていた。書ける欄より書けない欄の方が多い。アンナはもう自分の家の壺を二回数え直して、そのたびに数が違ってくる、と小声で言った。


「兄ちゃん、これ、一つの家に集めるのはどうだい」


 鍬を担いだ村人だった。鍬を肩から下ろして、井戸の縁に立てかけながら、こちらを見ている。


「……集める?」


「家ごとに見てるから、日が分からなくなるんだろう。一箇所に並べたら、見た人も分かる」


 最高だ。最高のタイミングで素晴らしい提案をしてくれた。自発的に言い出してくれるのが一番良い。


「あそこの小屋、空いてるよ」


 婆さんだった。藁束から立ち上がった様子もないのに、声だけ低く出した。


「……あそこ、というと」


「去年の冬に爺さんが死んでから、ずっとな。鍵はあたしが預かってる」


 婆さんは腰の紐の結び目を、指で撫でた。藁の屑が一本、紐から落ちた。


「藁も残ってるし、土間も広い。誰も住んでないから酒を置いても困らない」


 もう一人の村人が、頷いた。


「ああ、あの家か」


 婆さんの家の隣だった。屋根が一段低くなっているところ。前を通ったことはあるが、入ったことはない。


 ——家から、外へ。生産の場所が、家の中から共同の小屋へ動こうとしている。興奮を隠しきれない。


 頭の隅には、土間の壁に立てかけた別の石版の三行があった。「夏まで」「樽は手配」「木枠は木工」。鉄輪も樽も搾り器も、まだ何ひとつ届かない。けれど、それ以前に、目の前の壺を一箇所で管理できなければ話にならない。


「そうしましょう。納品に出す壺だけ、小屋に集めます。家に残す壺とは分けます」


 口に出してから、僕は危うく「集中作業場」と言いかけた舌を止めた。まだ早い。生産単位を家から切り離す、マニュファクチュア前段の第一歩——などと説明しても、壺は一つも動かない。


「運ぶのは男衆。布と蓋は、アンナさんたちにお願いします。売れるかどうかは、婆さんに見てもらいます」


 僕がそう言ったところで、ローザが横から口を挟んだ。


「小屋でいい?」


「うん」


「次の市までに何日ある?」


「一五日くらいかな」


「渡せるかどうかは婆さんが決めるの。あんたじゃないよ」


「……うん。僕じゃ無理だ」


「見張る人は」


「……婆さんと、女の人たちに頼むしかない」


「ほんとに?」


「ほんとに」


 ローザは僕の答えを順に、頷きで受けた。最後の「ほんとに」には、強く頷き返した。それから、それ以上は何も言わずに、井戸の縁にもたれかかった。


 村人が、肩から外した鍬を担ぎ直した。


「じゃ、午後からみんなで運ぶか」


 婆さんは藁束に座り直した。腰の紐の鍵が、結び目のところで、低い音を立てた。何かが噛み合った気がした。



【授命暦843年 4/3 昼】


 二日後、藁を運び込み始めた。


 婆さんの家の隣の小屋は、扉を開けると湿った土の匂いがした。典型的な人の住まない小屋の匂いだ。婆さんが土間の真ん中に座って、女衆がそのまわりに座る形になった。アンナは布を抱えて入ってきて、置き場を聞き、婆さんが「暖かくなりすぎてもいけないから、場所は私が決めるよ」と短く返した。


 外では、男衆が藁束を運んでいる。井戸から汲んだ水も小屋の脇に並べた。僕は外で、水・藁・布・壺、の順を口の中で繰り返していた。順番を把握しないと何かが事故る。


 やがて、小屋の中から、藁の匂いに重なって、すこし酸っぱい匂いが立ち上った。蓋を開けて、確認が始まったんだろう。


 すると、男衆の動きが、明らかに変わった。


 藁を置きに来た足が、扉のそばで止まる。水を運んできた足が、戸口で止まる。匂いの方を覗き込んで、それから、誰かが言った。


「いやー婆さん、見るだけっすよ。飲むとは言ってないっす」


 ハインリヒだった。


「腐ってないか、確かめるだけだ」


 鍬の村人がそう続けた。


「見る必要なんかないよ、指突っ込んだらそもそも腐っちまうよ。あと、腐ってるかどうかは匂いで分かる。帰んな」


 戸口の脇に立っていた、別の村人がそう続けた。指を一本立てて、自分のこめかみを軽く叩いた。


「一口くらいなら、減らねえよ」


 その時、イェニーが灰汁取りの椀を抱えて、小屋の前を通り抜けようとしていた。男衆の方を、ちらりと見た。


「前も、それで三つなくなったねえ」


 イェニーの声は、棚に物を置くような調子だった。男衆の手が、戸口の前で止まった。


 ローザが、戸口の内側からそれを聞いていた。


「畑仕事があるでしょ。さっさと行ってよ」


「……藁は運んだっすよ」


 ハインリヒが、顔だけ覗き込んだ。


「じゃあ次、畑。走って」


 ローザは戸口の枠を、手で押した。それで決まりだった。


 男衆は藁を置いて、水を置いて、それから、なんとなく、畑の方へ歩き始めた。


「兄ちゃん、畑まで言われてるぞ」


 鍬の村人が振り返って、僕に向けて笑った。


「僕もですか」


「それが終わったらね」


 イェニーがそう答えた。僕は外で、水・藁・布・壺、の順を口の中で繰り返した。三つ目で、また詰まった。


 小屋の中では、婆さんが布の端をつまんで、置き直していた。アンナが布を並べていく動きを、横から黙って見ていた。


 アンナが、また婆さんに聞いた。


「布、これ、どこに置きますか」


「そこに並べて」


 婆さんは、同じ言葉だけを返した。


 その奥で、イェニーが壺の脇に手を当てて、しばらく動かなかった。何をしているのかは、外からは分からなかった。すぐに手を離して、また鍋の方に戻っていった。


 僕は男衆と一緒に、畑の方へ向かった。歩きながら、振り返ると、戸口は閉じていた。鍵が下りた音は聞こえなかったから、まだ閉じきってはいないのだろう。婆さんの腰の紐に下がった鍵の重さが、なぜか僕の頭の中に残っていた。


 その日から、仕込みは小屋で動いた。家ごとの壺はそのまま家にも残ったが、納品に出す壺は小屋に集まる流れになった。壺の脇には、仕込んだ日と見張り役を書いた小さな札が置かれた。日付が怪しいものは端に寄せられ、婆さんが匂いを嗅いで、黙って首を振ったものはさらに奥へ下げられた。


 アンナは布を畳み直して壺の口ごとに並べ、ローザは戸口に立つ男衆の足を見ていた。僕は中をあまり見ていない。畑にも行ったし、他にも仕事があった。けれど、土間ごとに散っていた仕込み日と見張り役が、小屋の一箇所に寄っていくのだけは分かった。


 井戸端で空欄を並べた石版を見てから、二週間が過ぎた。



【授命暦843年 4/15 昼】


 約束の日になった。


 どうにか六壺揃った。八壺には届かなかった。あの状態から見れば上出来だ。宴会が無ければ九壺だったと考えると少しムカついた。


 昼前、村の入り口のほうから、荷馬車の車輪の音が近づいてきた。一頭引きで、荷台はまだ空いている。御者台にセイが座っていた。買い付けに来たのだ、と分かった。


 婆さんの家近くの小屋の前まで、セイは荷馬車を寄せた。御者台から降りると、馬の首を撫でて、それから戸口のほうへ歩いてきた。


 村人二人が、小屋の戸口まで壺を一つずつ運び出して、藁束に挟んで並べた。婆さんは戸口の脇に立って、壺の口の数を目で追っていた。腰の紐の鍵が、布の合間から見えていた。


「お疲れさまです。……あれ、六つですか?」


 セイは笑顔のまま、目だけ戸口の壺の列を確認した。


「すみません、六つで」


 僕は素直に頭を下げた。


「まあ、初めてですからね。次は八つで、お願いしますね」


 セイの笑顔は変わらなかった。けれど、声の最後の「ね」が、僕の背骨に何か小さな重しを掛けた。


「はい」


「壺一つ、銀貨三枚で。六つ。十八枚」


 セイは、布の袋を懐から出して、戸口の脇の縁石に並べた。十八回、音がした。


「銀貨なんて、見たの久しぶりだねえ」


 婆さんが、戸口の脇から、それだけ言った。


「前にお渡しした前払い、二壺分の差し引きは、来月の納品で。八つ揃えれば、そこで清算します」


「分かりました」


 僕は袋を受け取った。重さは、十八枚分だった。それだけ。前にセイから受け取った前払いは二壺分残っている。今回は六壺しか出せなかったから、その差し引きは来月に回る、ということだ。


 ハインリヒと村人二人が、壺を一つずつ荷馬車の荷台に載せていった。藁で挟みながら、互いにぶつからないように固定する。セイは荷台の脇に立って、壺の口の布と札を確かめながら、手元の小さな帳面に何かを書きつけていた。札に書かれた仕込み日と見張り役の名を、横線の強い字で帳面に写していくのが、戸口の向こうから見えた。


 六つ目の壺を載せ終えると、セイは御者台に上がった。


「では、また来月」


 短く、それだけ言って、手綱を引いた。荷馬車は道へ戻り、車輪の音が、村の出口のほうへ遠ざかっていった。


 婆さんは小屋の戸口に、まだ立ったままだった。


 その場で分ける話にはならなかった。誰にどれだけ渡すか、まだ誰も決められなかったからだ。ローザだけが、僕が袋を抱える手元を見て、「今ここで決めるなよ」という顔で、首を小さく横に振った。


 僕は袋を抱えて家に戻った。土間の壺の脇に、袋を下ろした。袋の口は紐で締めてある。手のひらに残った重さは、十八枚分、それ以上でも以下でもない。——梨酒の壺六つが、貨幣形態に化けた重さだ。商品の価値が等価物として圧縮されて、僕の手のひらに収まっている。前世なら板書の一行で済ませた価値形態論が、いまは十八枚分の重さで腕にきている。僕の金ではない。けれど、誰の金かもまだ決まっていない。だから一番困る。そもそもこの金をどうするかも考えないといけない。



【授命暦843年 4/20 昼】


 あれから五日が経った。


 銀貨袋は、家の土間の壺の脇に置いたままだった。重さも形も、セイから受け取った時と同じに見えた。誰かが触ったようには見えない。少なくとも、僕はそう思っていた。


 分け方が決まるまでは、誰のものでもない。誰のものでもない金に先に触れば、それだけで疑われる。先に触った者が盗ったと言われる。そういう金だった。だから、この五日、袋は誰からも見える土間の壺の脇に、置かれたままだった。


 その日の昼、井戸端でまた村人の二人に捕まった。


「兄ちゃん、これ、どう分けるんだ」


「……来月までに」


「半分か、四分の一か、分けないままか」


「……半分は仕込みの女衆で、残りで畑と道具」


 その時、家の戸口が開いた。ローザが布を片手に出てきていた。


「決めるなって言ったの、誰だっけ」


「……ちょっと、考えます」


 もう一人の村人が、笑った。冗談まじりに、けれど本気もまじっていた。


 その時、畑の方から戻ってきた村の老人が、井戸端を通り過ぎようとした。背中を丸めて、片足を引きずるように歩いていた。


 ——いつか、畑の縁で石の筋を指でなぞっていた、あの老人だ。石の割れ目が走る方向を黙って見定めていた、あの背中だ。


「ふん。……畑の人でが足りんな」


 それだけ言って、僕の方を見もせずに、家の方へ歩いていった。


 僕は、何も言えなかった。


 先に話しかけた村人が、肩の鍬を担ぎ直した。


「ま、考えとけよ」


 二人は井戸端を離れていった。


 ローザは井戸の水を汲んで、手の布を絞っていた。それから、僕の隣に立ち直って、言った。


「で、畑はどうするの。仕込みと両方は無理でしょ。決めないと、来月もこのままだよ」


「……うん。来月までに、両方、考える」


「両方って言うときの、あんた、いちばん何も決めてないやつだよ」


 反論できなかった。


 頭の中では、いま、いろんな欄が増えていた。仕込み日、見張り役、納品数、銀貨、分配、畑、それから来月の八壺。一枚の石版に並べるには、もう、行が足りないし、覚えるにも限界がある。


 ローザが、僕の手から石版を取り上げた。空欄の下に、新しい行を縦線で引き足してから、こちらに突き返した。


「そろそろ限界ね」


「……うん」


 原始的な石版で工程管理をすること自体がそもそも無理筋なんだ。これはこれでどうにかしないといけない。


 ローザは布を絞り直した。布から落ちた水滴が、井戸の縁の石を濡らした。


 家に戻った。土間の壺の脇に、銀貨袋がそのまま置かれていた。袋の口の紐の結び目の形も、五日前と同じだった。重さも、たぶん、十八枚分。手に取らなくても、分かった。


 ふと、紐の結び目の裏側に、白いものが薄く覗いているのに気がついた。袋の口はほどけていない。結び目の折り返しと布のあいだに、薄い紙が差し込まれていた。結び目はそのままだ。だが、紙だけなら、ほどかなくても差し込める。


 指で抜き出すと、四つ折りの紙片だった。広げると、墨で「八つ」とだけ書いてある。前に小屋の戸口で見た、壺の札に写されていったのと同じ、横線の強い字だった。セイの字だ。


 受け取った時、袋の口は見た。紐も見た。銀貨の重さばかり気にしていたから、結び目の裏までは見ていない。それでも、白い紙が覗いていれば気づいたはずだ、と思いたかった。


 受け取ってから袋に触れた人間を、僕はちゃんと見ていない。


 なぜそこで小屋の鍵のことを思い出したのか、自分でも分からなかった。紙片は銀貨袋に挟まれていた。小屋ではない。けれど、納品の壺を選び、戸口を閉め、鍵を持っていたのは婆さんだった。


 小屋の鍵は、婆さんの腰の紐に下がったままだ。


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