*23* 好きの形と熱量と。
焦がれた赤銅色の走り去った先は、来客が多く出入りする表通路に通じない使用人達が使う裏通路だった。式典が執り行われている会場からの灯りが届かなくなると、若干照明が落とされている裏通路は心細く感じる。
会場内では人の熱で感じなかったのに、この通路では季節通りの寒さだ。ヒールを脱いだ足の裏から床の冷たさが凍みてきたので、手にしていたヒールをはきなおし、外気にさらされる肩口を掌で包んで寒さに震えながら「……ウルリックさん?」と、名前を呼んでみる。
もしかしたら会いたい気持ちが見間違えさせたのかもしれない。灯りもどんどん薄暗くなっているところから考えても、今までいくつか通り過ぎたドアまでしか今夜の準備に必要なものを片付けていないのだろう。
あと一度呼んで返事がなかったら帰ろうかと弱気なことを考えていたら、いきなり何かに背後から腰を抱えるように引き寄せられ、声をあげる間もなく通り過ぎた部屋に連れ込まれた。
びっくりしすぎると暴れる前に硬直してしまうとは、我ながら本能がお粗末すぎる。けれど慌てて暴れようと腕を振り上げようとした直後、耳許で「オマエな……人がせっかく遠目から見て帰ろうとしたってのに、何で追いかけてくるんだよ」と、聞き馴染んだ声が鼓膜を震わせた。
瞬間振り上げかけていた腕は力をなくし、だらんと力なく落ちる。ただ使われていない室内は真っ暗で、頼りになる灯りと言えば、窓枠に積もった雪に月が照り返す淡い雪明かりだけだ。
当然ドアを背にした入口付近では顔が見えない。耳だけが頼りな空間でおずおず「ウルリック、さん」と間の抜けた声で名を呼べば。
「おう。ちょっと痩せたんじゃねぇのかオマエ。あとこんな薄着で彷徨くな。身体冷たくなってんだろ」
耳許で呆れたように返事をする声。言葉にするときに少しだけ喉に留める癖があるのか、いつも一拍置いてから出てくるような声。背中からじんわりと伝わってくる体温に鼻の奥がツンとする。
「ウルリックさんだ」
「だから返事しただろ。こっちの質問にも答えろよ。ちゃんと食ってないのか? それにその髪飾り。せっかく綺麗に着飾ってても見映えが半減するだろ」
「痩せたかどうかは、自分じゃ分からないです。髪飾りはお気に入りなのと、こんな場違いなところで不安だったから、お守り代わりで……う、ウルリックさんだって、なんか、手首とか、細くなってますよ。それに、どうして今夜ここにいるんですか」
髪飾りをつけていることに気づいてくれたことが嬉しくて、返事をしながら腰に回されたままの腕をなぞるように撫でた。するとくすぐったかったのかピクリと腕がはね、けれどさっきより心持ち強く腰を抱きかかえられた。
「訊き癖の強いガキかよ。今夜ここにいるのは、ガーランド達の手引きだ。オマエが一生に一度あるかどうかの変身するって話だったから、見に来たんだよ。ま、なかなかの変身ぶりだな」
「じゃあ、もう見たから、行っちゃうんですか?」
「ああ、まだやり残したことがある。今の俺じゃここからオマエを連れ出せない」
今度ははっきりと分かるくらいグッと腰に回されていた腕に力が籠もる。低く絞り出すようなかすれた声に涙を堪えていた眦からポタリと一滴、雫が落ちた。
「嫌だ、嫌です……お願いだから、私も、連れて行って……またご飯、一緒に食べましょうよ」
困らせるだけだと分かっているし、元はと言えば自分で選んでここへ来たはずなのに。近くにウルリックさんの存在を感じた途端に、ギリギリを保ち続けていた心が雪の重みにしなった小枝のようにポッキリ折れた。
「こら、腹の虫以外で泣くな。化粧が落ちるだろ。それに心配しなくてもちゃんと迎えにくるから、それまで待ってろ」
こんな子供みたいなことを言ったら呆れられると思ったのに、身勝手な私の言い分に腹を立てる様子もなく、そう言って宥めてくれる。
そんな彼の一拍遅れの不器用な声に、前世で長女だった頃の面影もなく「本当の、本当にですか?」と問えば、ウルリックさんは「絶対にだ。今度こそ前回みたいな勝手な真似はさせねぇからな」と答えてくれた。
「あの日のこと、怒ってます?」
「当たり前だろ。ただオマエに怒ってるんじゃない。暢気なオマエにそう思わせるほど、頼りなかった自分に腹が立ってる」
それまでよりも一段低くなった声に「違います、私が暢気すぎるのが駄目なんです」と唇を噛んで俯けば、頭上でウルリックさんが笑ったのか、空気が揺れる気配がした。
「良いだろ、別にそのままで。オマエは暢気なままでいてくれよ……と、そういや少し訊きたいんだが、アカネ。オマエ俺のことは嫌いか?」
「それって……今この状況で聞くことです?」
そもそも嫌いだったら、いくら野生の本能が死んでる私でもとっくに暴れている。腰に腕を回した状況で尋ねること自体間違っていると思う。
「馬鹿。明るい場所で聞けるか、んなこと。それより答えはどうなんだ」
不整脈、なう。
――じゃなかった。でも何故だろうか。ウルリックさんの質問の聞き方が、私の心臓にすごい攻撃をしかけてきた。心臓がレモン搾り器にかけられているみたいにギュウッとする。
「えぇと、好きか、嫌いかで言うなら――……ですね」
「他にどんな選択肢があるのか知りたいとこだが、できれば二択で頼む」
うやむやに濁そうと思ったのに先回りが早いな。だいたい何でこの私の中にウルリックさんを嫌う要素があると思うのだろう?
今までだってこれからだって、むしろ今世をまっとうするときまで、絶対に嫌うはずなんてありえないのに。
「好き、です、よ? 拾ってもらってお世話になってますし、ウルリックさんは面倒見がよくて優しいですし」
何とか謎の痛みを訴える心臓を押さえて答えたものの、ウルリックさんは「そうか、オマエの中では今のところその程度の“好き”か。成程な」と、やや考え込むような声音で言った。
回答を間違えたのかと思い「どの程度の“好き”なら良いですか?」と訊ねたけれど、彼は「いや、別に。こっちの話だ。ならまだ今夜は何もできねぇな」とぼそりと漏らす。
「何もできないって……ウルリックさんができないで、私ができることなら何でもしますよ?」
「……あのな、あんまりそういうことは簡単に口に出すな。せめて五秒くらい脳みそに留めてから言え」
次に頭上から降ってきたのは不機嫌とは言わないまでも、若干呆れを含んだ声音だった。それでもめげずに「でも、何かウルリックさんが迎えに来てくれる願掛けがしたいです」と言えば、彼は「分かったよ。じゃあ、ちょっとその姿勢でこっち向け」と諦めたように言う。
要求を聞き入れられたことが嬉しくて、暗闇の中、慣れないヒールで彼の爪先を踏んづけてしまわないように注意して後ろを振り返る。
暗くて表情の読めない相手と対峙するのに、恐怖心なんてものは全くなくて。顔の見えないウルリックさんを相手に「向きましたよ。さ、次はどうしましょうか」とドヤ顔をしたのだけれど……。
いきなり上からのしかかられるように抱きすくめられ、すぐ近くで「このまま少しじっとしてろ」と、ウルリックさんの声がした。彼の三つ編みだろうか、首筋にくすぐったいものが触れて思わず「ひぇっ」と声が出る。
「あんな発言したあとに抱きしめただけで変な声出すな。嫌なら止めるぞ」
「い、嫌とか言ってないですよ。ちょっと、びっくり……いや、えっと、むしろ何か……安心します、ね」
半分は嘘で、半分は本当だった。シュテンの毛皮の匂いだろうか。若干懐かしい獣臭さの中に、ウルリックさんの匂いがする。ただいつもはもっと強く香るはずの土と緑の匂いはなりを潜め、消毒液の香りがした。
「それはそれで何か微妙なとこだな」
「いえ、あの、上手く伝わらないかもですけど、ドキドキはしてますよ。でもそれ以上にホッとするというか」
「なら紛らわしい言い方するな。俺だけかと思っただろうが」
その言葉に思わず自分の心音と、ウルリックさんの心音を別々に意識してみようとしたのに、ウルリックさんは「おい、今更意識すんな」とバツが悪そうに身じろぎした。隙間が空きそうになったことに気づいて慌てて身体を押しつけたら、久々にデコピンをお見舞いされてしまう。
「馬鹿やってないで、そろそろ会場に戻れ。きっと今頃ガーランド達かウィルバートがオマエを探してるだろ」
離れた隙間から滑り込んできた冷たい空気に、咄嗟に「やだ」と声が出てしまった。するとウルリックさんがまた身じろいで、細く長い溜息をつく。
「ちゃんと迎えに来るって言っただろ。そんな離れにくくなる声出すな」
苦笑混じりにもう一度あやすように抱きしめられた耳許で、不意に「随分化けたな。髪飾りがなけりゃ、オマエだって分からなかった」と。空耳のような言葉を聞いたかと思ったとき、ウルリックさんの手でドアが開いて、身体をクルリと反転させられる形で廊下に出された。
放心状態でドアの前に立っていると、ドア越しに『早く行け』と声がかけられたので仕方なく廊下を会場の方へと歩くけれど、追いかけてきたときよりも足取りは幾分軽い。
だけどまだ夢見心地のまま会場に戻った私を待っていたのは、数人の険しい表情をした警備兵と、こちらを見て「ああ、良かった。貴女を探していたのですよアカネさん」とホッとしたように微笑むウィルバートさん。
そして私が味がしないと感じて給仕係の人に預けた、あのケーキの載ったお皿を手に難しい表情をして佇むアルフォンス陛下の姿だった。




