一、待てど来ぬ人
ちりりんと澄んだ鈴の音が響く。真夏の太陽はギラギラと照りつけて、埃っぽい坂道で逃げ水が嘲笑う。カナコは黒いノメリの下駄を白い裸足に突っかけて、紺地に薄鼠の撫子を散らした絽の単で歩いてゆく。帯は風鈴に戯れる黒猫を描いた白地の染め帯だ。若竹色の三分紐には、小鳥を模る硝子の帯留が通してあった。日傘は水色、絵の中を泳ぐ赤い金魚はヒラヒラと尾鰭を揺らす。飴色に焼けた竹の柄を握る指には、鈴付きの指輪が見える。眼にも涼しい銀色で、月の光を思わせる。
民家の庭から、柿の木が枝を道に差し出していた。肉厚の葉がザワザワと音をたてている。枝の付け根に寝そべって、若い男がカナコを見下ろしていた。焼きの入った杉下駄は、濃紺の鼻緒を足指に引っ掛けてぶらぶらと揺らしている。白地のカスリを着崩した着流しである。帯に蝋燭柄が並んでいた。先と元とで太さが違う和蝋燭である。女物ではないようだが、一風変わった出立ちであった。
「何奴」
カナコは立ち止まって、鋭い声を投げつけた。振り向かず、日傘も傾けず。男の位置からは、おかっぱ頭は見えないだろう。
「そう怖い顔しなさんな」
男はどうしてカナコの表情が解ったのか?カナコはゆっくりと柿の木を見上げた。
「や、別嬪さん」
軽薄ではあるが、不埒な感じはしなかった。
「何用か?」
カナコの語気は、相変わらず荒い。
「いや、何処に行くのかと思って観てただけなんだけど」
若い男はやや畝った散切り頭を軽く振った。切れ長だが糸目で、腹の中は読めない。
「一本道だ。行き着くところはひとつだろう」
カナコは硬い表情で言った。
「いずれそこには行くだろうけど?」
糸目の男はニタリと笑った。
「ふん、何が目的かは知らないが、観て面白いことなぞありゃせんよ」
カナコは突き放すように言って、再び歩き始めた。指輪の小鈴がチリンチリンと鳴っていた。
「何かを連れてる訳じゃないのに、案内人の鈴なんぞ鳴らして、一体何をしてるんだ?」
冷淡な背中に若者が好奇心を投げ掛けた。カナコは無視して先を急ぐ。男は身軽に起き上がり、枝や塀の上を伝ってカナコを追いかけた。尻端折りもしない着流し姿で、着崩れもせずひょいひょいと足場を踏んで跳ぶ。
絵傘の金魚が音もなく泳ぎ、絵に添えられた水草が揺れた。カナコはつとたおやかな手を延べる。和洋折衷の立派な門に、金属レリーフで飾られた呼び鈴があった。桜貝を思わせるカナコの爪が、真夏の太陽をキラキラと反射した。呼び鈴は押され、待つことしばし。
「どなたです」
ピンと襟先が尖った真っ白いお仕着せを着た下男が顔を出す。
「お迎えにあがりました」
事務的な口調でカナコは告げた。
「お迎え?」
下男が怪訝な顔つきを向ける。
「やあ、気づいてない奴を呼びに来たのか」
門の上まで着いてきた男が、ぽんと手を打って得心した。カナコは聞こえぬフリをした。下男は本当に聞こえていない。
「家長にお取次を願います」
温度のない声に気圧されて、下男が奥へと引っ込んだ。糸目の男は門の上で横になり、欠伸までし始めた。カナコはじっと取次ぎを待っている。しばらくすると、下男が戻ってきた。
「お引き取りを」
「伝えたならば、それでいい」
下男に無碍にされたカナコは、丁寧な言葉を捨てて通告した。
「案内しないのなら、こちらから行く」
「よ、こりゃまた強引な」
門の上にいる男が茶化してくるが、カナコは一向に動じない。下男が慌ててカナコを押し留めようとする。しかし流れる水を相手にしているようで、スルスルとすり抜けられてしまった。糸目の男は面白そうに笑っている。庭木を器用に渡りつつ、口笛などを吹いていた。足をかける枝は撓み、葉擦れの音が涼やかに響く。確かに質量のある身の上らしい。
カナコは書斎に到着した。西洋式の立派なデスクに向かって、カイゼル髭の壮年紳士が革表紙の本を手に座っていた。
「何だね君は?」
詰問してきた壮年紳士が、厳つい眉の下で豆粒みたいな瞳を光らせる。カナコは掛け値なしの美人だが、そんなことには興味がないご様子だ。
「因果を辿って参りました」
カナコの言葉が、また丁寧になっている。若い男は素知らぬ顔で、カナコの後ろに立っていた。追いかけてきた下男は、更に後ろであたふたしていた。
「下らない。摘み出せ」
「家長にご挨拶をしたまでです」
「出ていけ」
「ご挨拶は済みましたので、これで失礼致します」
「さっさと消えろ」
カナコは閉じた絵傘を両手で抱え、おかっぱを揺らして腰を折る。壮年紳士が革表紙の本をバタンと閉じた。カナコはしゃなしゃなと廊下に出てゆく。若い男もついてゆく。下男は叩き出すつもりで後を追う。しかし、カナコが向かう先は外へと開く門ではなかった。
「ああっ、何処へ行くつもりだ!」
下男の怒声をものともせずに、カナコは淑やかに下駄を鳴らす。畝り髪の男は、もう木の枝に上がることなく、飄然としてついてゆく。庭内の枝折り戸をいくつか開け閉てし、まるで邸内を知り尽くしているかのように進んで行った。
「ほう、立派な楓だねぇ」
細目の男が青々と繁る古木を見上げた。打ち捨てられた離れの窓を隠すように生えている。百年前に流行ったような、モザイク壁とステンドグラスの窓を持つ二階建てだ。一応の手入れはされているのか、壊れたところはなかった。玄関も頑丈な造りで、ぴたりと閉まっている。
再び差していた絵傘の下で、カナコが片手をつと挙げた。
「ああっ?」
下男が叫ぶ。玄関が音もなく開いたのだ。黒い鉄をモダンに曲げた手摺が、大理石の階段を飾っている。階段には上等な青い絨毯が敷かれていた。建物の中は、隅々まで掃除が行き届いていた。カナコは迷わず二階へ上がった。下男は慌てて母屋へと知らせに走った。人手を頼んで不審者を捕まえるつもりなのだろう。
カナコと男は、可愛らしい小花が浮き彫りされた木製の扉に辿り着く。扉も磨き上げられて、埃ひとつ見えない。
「や、また別嬪さん」
糸目の男が部屋を覗いて言った。二人は中へと足を踏み入れる。
「まあ、どなた?」
華やかな乱菊模様の振袖を着た少女が、出窓の前で振り向いた。古風な庇髪に赤紫の大きなリボンを付けている。長い睫毛はくるりとカールして、ぱっちりとした眼は少し潤んでいた。細く形の良い眉、すっきりとした小さな鼻、ふっくらと珊瑚色に艶めく唇。姿を見せればそれだけで、場をさらってしまうような艶姿であった。
「お迎えにあがりました」
カナコが事務的に告げた。男は黙って成り行きを伺っていた。
「まあ!やっといらしたのね?」
少女はぱっと顔を輝かせた。だが、すぐに不機嫌そうに眉を寄せた。
「あなた、新しいひと?こんなに待たせるなんて、随分気が利かないのね」
「待たせた訳ではありませんよ」
「まあ!口ごたえするの?」
少女がゆったりとした口調で咎めた。
「あんた、偉そうだねえ。怒鳴られるより気分が悪いや」
男が不躾に言い放つ。
「お前、何様のつもり?」
少女の眼は冷たく光った。
「さあ、行きますよ」
カナコは二人のやりとりには関与せず、片手を振って鈴を鳴らした。
「何?」
少女がカナコの指輪に視線を向けた。
「旭国西門府楓町倉地美鈴さん」
「何よ?」
「そろそろ旅立って下さらないと、この国全体に災厄を呼び寄せてしまいますよ」
「なあに?無礼なのね」
不機嫌な少女が、傲慢な視線をカナコの顔にぶつけた。
「百年も居座って、よくこの程度の霊障ですんでるな」
糸目の男が、窓の外を眺めて言った。楓の大木が視界を遮っている。美鈴がじろりと男を睨む。
「霊障?」
「この邸宅で生まれる女性は、みな若くしてこの世を去るでしょう?」
「戯言を」
「へぇ?」
男が何か言おうとして、一歩美鈴に近づく。カナコは片手で男を制し、ひたと美鈴の眼を見た。美鈴はたじろいだ。
「何、よ?」
ふわりとカナコのおかっぱが持ち上がる。指輪の鈴が喧しく鳴り続けた。窓の外では、楓の大枝がごうごうと音を出し始めた。まるで嵐の日のようだ。出窓に置かれたランプの火が激しく揺れた。今にも消えそうである。
「雅勝さまが黙っていないんだから」
美鈴は胸を逸らして威嚇した。
「ほほう?」
男が写真立てを手に取った。丸眼鏡の洋装青年が写っている。
「触らないでっ!」
美鈴は急に声を荒げた。
「んん?」
カナコは鋭い眼差しを美鈴に向けた。美鈴の眼が血走っている。
「雅勝さまに触れていいのは、私だけよ!」
「とうに居なくなった人を待ち続けて何になる」
カナコの声は厳かに響いた。
「出鱈目言わないでよ。毎日迎えを寄越してくださるのよ」
「毎日!」
糸目の男が驚いて少し眼を開く。僅かに黒目が覗いた。灰色がかっているようにも見えた。
「ふっ」
カナコは男をチラリと見て、いいから!というかのように息を吐き出した。
「今日だってもうすぐお迎えがくるわ」
美鈴の血走った眼が段々と見開いてゆく。
「まって、あなた、そうでしょ?お迎えよね?さ、早く案内なさい?」
荒げた声が突然静かなトーンに戻る。眼は据わったままである。
「迎えではあるよな?」
男がカナコに同意を求める。
「お黙り」
「へい、ボス」
ピシャリと言われて、男は軽く頭を下げた。
「ボス?」
カナコは気に食わないようだ。
「姐御」
「姐御ぉ?」
聞き咎められた男は、最後に二ヘラと笑って口を閉じた。その間に、窓が盛大に鳴り出した。部屋の中の家具も地震のように揺れている。壁に掛かっていた鏡が落ちた。楕円形の鏡面を金色の唐草模様が縁取っている。
「よくご覧」
カナコは鏡を拭うような仕草をした。鏡面が淡い光に包まれる。糸目の男は腰を屈めて覗き込む。美鈴も不服そうに鏡を眺めた。鏡の中に何かが写し出されている。部屋の中ではない。山路のようだ。土砂降りの雨と恐ろしく吠える風が、荒れ狂っているようだ。
「雅勝さま!危ない!」
崖沿いの路を走る黒い車は、写真の男が運転しているようだった。二人乗りの小さな車で、助手席には綺麗に包装された小箱が見える。車は風に煽られ、雨に流され、傾きながら走っていた。
「駄目よ!ご無理なさらないで!」
美鈴は青くなって鏡の中に呼びかける。
「お誕生日なんて、来年もあるわよ!それに、一日くらい遅れたって!きゃあああっ!」
車がついに転倒した。大きな水飛沫が鏡面を覆う。
「嫌あああ!」
次に見えたのは、豪雨に叩かれて潰れた小さな箱と、破れた包紙、千切れたリボン、そして、泥水の中にキラリと光るダイヤモンドの指輪。
「嘘よ」
美鈴はまた静かになって言った。
「そうよ。今日は雅勝さまご自身でいらっしゃる筈だったわ」
美鈴は小引き出しから櫛を取り出して身嗜みを整えた。
「お前たち、誘拐犯ね?騙されるところだったわ」
「ご覧、哀れな美鈴」
カナコはもう一度、鏡を拭う仕草をした。違う場面が現れる。喪服の美鈴が虚な顔で座っていた。窓の外には青い楓が揺れている。楓はやがて色づき、落葉し、また青い葉が繁った。美鈴は食事を拒否し、小間使いや父母兄弟の呼びかけにも答えなかった。鏡の中の少女が痩せてゆく。やがて館は悲しみに包まれた。
「違うわ。やめて?」
美鈴はカナコに手を伸ばした。
「いらっしゃるって、仰ったもの」
カナコは美鈴の手首を掴んだ。
「や、手荒だね?」
糸目の男がヤジを飛ばすが、カナコも美鈴も聞いていなかった。
「ご覧!」
カナコは、これで三度、鏡を拭う仕草をした。今度は目まぐるしく場面が変わる。服装や調度品が変化してゆく。写し出されるのは、どこか美鈴と似たところのある少女達だ。皆、美鈴くらいの歳である。そして皆、遺影になっていた。
「何?私と何か関係があるのかしら?」
「ご兄弟のお子さんやお孫さん達だ」
カナコの口調が厳しくなった。
「それで?それが何だって言うのよ?」
部屋の灯りが消えた。美鈴の顔が青白く浮かび上がる。
「美鈴さんが命を吸い取ったのさ」
糸目の男が軽い調子で告げた。
「酷いこと言わないで!」
「この家で生まれて同じ年頃になったお嬢さんがたに、美鈴さんは無意識に同調しちゃうみたいだねぇ」
「同調した時に、陽が陰に流れてしまう。命が貴女に渡される。悪気はなくとも、それが事実だ」
美鈴は耳を両手で塞ぎ、鏡を凝視する。血走った眼が見返して来た。
「あなた、誰?」
鏡の中へ問いかける美鈴を、カナコはじっと見つめた。
「もうこの世のものではないのだから、いつまでもこちらに居座っていると、予想外の障害が起きるのだ」
「そんな?そんな筈、そんな、悪霊みたいなこと」
カナコが首を横に振る。美鈴は泣きそうな顔になった。
「もういい加減、次の人生に進む時だ」
「若い命をかなり沢山吸い取ってしまったから、あの世での償いに時間がかかるだろうけどね」
美鈴はガックリと肩を落とした。
「悪かったわ」
ぽつりとそう言うと、美鈴は写真立てを抱きしめた。
「雅勝さまは、あちらで待っていてくださるかしら?」
「それは私には解らない」
「俺も管轄外だねぇ」
「そう」
美しい黒曜石の瞳から、涙がぽつりと写真に落ちた。項垂れたまま、美鈴はカナコについてゆく。三人で離れを出ると、棒やら箒やらを構えた男達が走って来た。
「えっ?」
「な、なんだぁ?」
不審者カナコを捕まえようと駆けつけた人々は、呆気に取られて足を止めた。離れがみるみる老朽化していったのだ。屋根から瓦の欠片が降ってくる。ステンドグラスの破片が落ちてくる。壁が割れて、ドアにもヒビが入った。楓の大枝は二階の窓を突き破り、鳥も虫も自由に出入りする。
「ひいいい」
崩れ落ちる瀟洒な建物に腰を抜かし、屋敷の男達はカナコから注意を逸らした。カナコは金魚の泳ぐ絵傘を開き、美鈴はしおしおと従った。糸目の男は門の外に出ると、ひらりと向かいの屋根に飛び乗った。
「道中ご無事で!姐さん」
飛び去り際に、男は二人に手を振った。
「カナコだ!多分だが、歳下だ!」
傘を傾げて降り仰ぎ、カナコが男の背中に叫ぶ。
「ハヤセだ!多分だが、たいして変わんねぇ!」
男はカナコの調子を真似て名乗った。




