差引
雨垂れの音がこんなにも気をせかすのか。冷雨の寒さで身震いを起こすのか。
男はどちらもなく、ただ焦燥に駆られる。
雨音すら聞こえなくなる程の気の焦り――
前方の闇より殺気が感じられた。冗談ではなく、本当に殺されるらしい。
男はすみませんと言おうと口を開くが、言葉が喉に突っかかって出ない。
すの形に窄められた唇が次第に痙攣した。
言葉を無理矢理吐き出そうとするが、緊迫がそれを嗚咽に変える。そして、その嗚咽も窒息したように吐くことができない。
闇の向こうで彼の女が語りかけてきた。
「ひゃい。何でしょう?」
男ははっと我を返すが、急に緊縛が解けたせいで返事が裏返る。
「それより、本題に入るわ。あなたにちょっとした御使いを頼みたいの」
静かな声だった。只ならぬ殺気もひしと消えていたのに男は驚きを隠せない。
彼女は話を続けた。
「ちょっとした薬物なんだけど国外に運んでほしいの。ボーナスをつけてあげるわ」
「空港ですか?」
「ええ」
「まさか腹に隠すんじゃないですよね?」
「そう、腹の中に。まあ、見つかることを気にする必要はないでしょうけど」
「破れたら危険だって聞いています」
男は狼狽した素振りを見せるが彼女の方はなんとも思わないぐらいの静かさで闇の中を動く気配すらない。
「みんなやってるわ。あなたは怠け者でいいの?」
男はいやと漏らしたが何を否定したのか自分でもわからなかった。言葉はどこに向うことなく膝小僧のあたりで落ちたようだ。
「拒否はさせないわ。あなたは私のしもべなのだから。あなたはやるしかないでしょう」
彼女は独りごちてそう言い切ると、立ち上がったようだ。暗々とした闇の向こうで蠢く影があった。
「ちょっと待ちなさい」
影はそう催促すると、闇の更なる深くへと消えていった。足を擦る音は聞こえるが、それも忽ち小さくなって、闇の奥へ吸い込まれるように途絶えてしまう。
後に残るのは静寂であった。
ボトボトと、ボトボトと、降りしきる雨。それが無音の闇を静寂の風情へと彩らせる唯一の色だった。
雨に己を重ねながら男は思う。
――一体何処を目指して流れていくつもりなのだろうか?