ゴブリンの先行者
話は春休みが明けて間もない4月初旬にさかのぼる。
ひととおり朝の清掃を終えて、宅間氏は用務員室へと戻ってきた。ひと休みしようと、マグカップにインスタントコーヒー粉末と電気ポットのお湯を注ぎ、熱いコーヒーを口に入れ一息つくと、椅子に腰をおろした。
用務員室の片隅にあるラジオに手を伸ばしかけ、ためらってから、手を引っ込めた。最近はコンプライアンスが煩くなって就業時間中にラジオを聴くと、それを誰かが見咎めて苦情が入るのだ。
「かたぐるしい時代になったもんや。昔はもっと鷹揚やったのに」
ひとりごちて、コーヒーをもうひとくち口に運んだ。
ふと、視界のすみで何かが動いたような気がした。
立ち上がって清掃用具を入れてあるロッカーの裏をみてみると、薄暗がりのなかに裸の子供がうずくまって宅間氏を見上げていた。
宅間氏は我が目を疑ったが、どうみても子供がひとり、用務員室の隅に隠れていた。
近寄って見ると、子供の眼はやけに大きく、薄い黄色をしていた。
(気味の悪い眼だ)
と宅間氏は思った。
肌の色もおかしかった。緑色の皮膚の人間がいるなんて聞いたことがなかった。身につけているものも腰に巻いた布切れ1枚だけだった。
これはもしかしたら、最近噂で聞く魔物なのではないだろうか?
宅間氏が管理部に連絡しようとスマホを取り出した時、子供が宅間氏の作業ズボンを強く引いた。
宅間氏の眼と子供の眼があい、宅間氏の手の動きが止まった。
トゥクン
宅間氏の瞳孔が大きく開いた。スマホを持った手がだらりと下がった。
事実はそのままに、認識が変化し始めた。
よく見ると、琥珀色の大きな眼が可愛らしい子供であった。裸同然の格好であることからを考えると、もしかしたら親から虐待を受けた子どもなのかも知れないことに連想が至った。
そう考えると哀れであった。
肌の色も栄養失調か内臓の病気のせいではないだろうか。管理部に連絡すると親のもとに連れ戻されてしまうだろう。もう少し、ここで様子をみて、それから管理部に連絡しても大きな問題にはならないだろう。
いつのまにか、宅間氏は緑色のゴブリンの頭を愛おしそうに撫でていた。
こうして、せとうち青雲高校においてもっとも最初に発生したゴブリンである「先行者」は高校内部に安全な隠れ家と協力者を得たのであった。
もしもこの時、愛や紗良が鑑定眼のスキルがあって宅間氏のステータスを見ることができていたとしたら、後の戦いは随分違ったものになっていたかも知れない。
【ステータス】
名前:宅間 宏
種族:人間
職業:せとうち青雲高校の用務員
称号:先行者ゴブリンの使役獣
レベル:1
体力:10 / 10
魔力:2 / 2
力:5
俊敏:5
装備:なし
スキル:清掃、隠蔽工作
*****
宅間氏がゴブリンを用務員室で飼い始めてから早くも1ヶ月が過ぎた。
宅間氏もこの頃には子供ではなく魔物であると理性では分かっていたが、もはやどうでも良いとおもえるくらいには愛着が湧いていた。
発覚したら、その時はその時だった。
宅間氏の両親は既に他界しており、妻子もおらず、天涯孤独の身であった。
胸の中にはいつ辞めたっていいんだ、という中年の独身男性特有のなげやりな気持ちが、こころのどこかに常にあった。
ゴブリンにはエサは必要なく、糞もせず、意外にも無臭であった。
ゴブリンは宅間氏に大層なついていた。動物が好きらしく、どこからか手に入れた虫かごや段ボール箱に昆虫や蛇などを飼っていた。時折、用務員室の床に座っては入れ物から出して遊んでいた。
奇妙なことに昆虫も蛇も逃げ出すことはなく、おとなしく、ゴブリンに飼われているようであった。ゴブリンは時折、宅間氏に昆虫や蛇を見せたり、持たせたりした。宅間氏も子供の頃に昆虫を飼っていたこともあり、ゴブリンと過ごす時間は楽しいものだった。
その日、休憩時間中の宅間氏がゴブリンと飼っている昆虫で遊んでいたところに魔物警報が発報された。ゴブリンも何かが起きていると察したらしく、宅間氏を見た。
「ちょっとグラウンド行ってくるわ。すぐ戻るけん、大人しゅうしとるんぞ」
そういい置くと用務員室から出ていった。
しばらくして、廊下から人の気配がなくなったことを確認し、ゴブリンの先行者は用務員室から外に出た。
ゴブリンは蛇の入った段ボール箱を抱えていた。
用務員室は旧館の1階にあったので、先行者としての目的のためには魔物と人間の戦いがある新館に移動しなければならなかった。
先行者は身を低くして新館の東階段を3階へと上がった。するとちょうど発生したばかりゴブリンの一団が職員室になだれ込むところであった。
先行者は気づかれないように、2つある職員室の扉のうち、騒がしくないほうから職員室へと侵入した。職員室では人間とゴブリン達が戦闘を繰り広げている途中であった。
ゴブリン達は人間に敗北すると、黒い瘴気と化していった。
先行者は早速、段ボール箱にいれた蛇たちに瘴気を吸収させ始めた。その間も、先行者は小柄な人間の女性とゴブリン達の戦いをじっと観察していた。
特に、先行者は人間が使用している武器に興味があるようであった。途中、ゴブリン達が人間の女性を捕らえたが、人間側に援軍が到着し、形勢が逆転され、ゴブリンロードもついに瘴気へと還元されてしまった。
先行者は人間に気づかれないうちに職員室を後にした。
魔物警報が解除され、宅間氏が用務員室に戻ると、いつものようにゴブリンがいた。宅間氏は心から安堵した。
*****
ある日、宅間氏がいつものように用務員室に入ると、
「オハヨ、ゴザマス」
という片言の声が聞こえた。
宅間氏が驚いてゴブリンを見ると、ゴブリンはラジオを指さした。どうやらラジオの朝の番組で「おはようございます」という言葉を覚えたらしい。
宅間氏はその日の夜、漫画の絵が描かれたひらがなの練習教材をネットからダウンロードして印刷し、翌日、鉛筆とともにゴブリンに与えた。
「コレハ?」
「かぶとむし」
「コレハ?」
「すこっぷ」
宅間氏とゴブリンは時間を見つけては、漫画絵を指さしながら日本語の勉強を行うのが日課となった。




