第三通「件名:忘れてないよ」
やがて、朝のホームルーム終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
張り詰めていた空気が、音に押し流されるようにわずかに揺れる。
けれど、誰一人として本当の意味で気持ちを切り替えられてはいなかった。
「とりあえず、みんな授業の準備してくれ」
慎司の声は、いつもより低く、どこか疲れて聞こえた。
生徒たちは黙ったまま教科書を取り出す。
ページをめくる音だけが、静かな教室に小さく積み重なっていく。
そのまま授業は始まり――
何事もなかったかのように時間だけが過ぎていった。
黒板に書かれる文字。
淡々と進む説明。
ノートを取る手。
すべてが普段通りのはずなのに、どこか遠い。
誰もが同じことを考えているのに、口に出さないまま一日が終わった。
そして、終礼。
椅子のきしむ音が止み、教室が静まり返る。
「で?次は誰が開示する?」
沈黙を破ったのは、碧だった。
何気ない調子。
けれどその一言は、教室の奥に沈んでいた緊張を再び引き上げる。
視線が、ゆっくりと彷徨い始めた。
誰も目を合わせようとしない。
「まさか、全員終わるまでやる気?」
佐々木 陽向が、半ば呆れたように言う。
その声には戸惑いと、わずかな拒絶が混じっていた。
「うん。何か問題でも?」
碧は首を小さく傾げる。
無邪気にも見える仕草。
だがその瞳の奥には、冷たい光が揺れていた。
教室の空気が、じわりと冷える。
「じゃあ、君が行く?」
軽く放たれた言葉。
けれど陽向は、すぐには返せなかった。
短い沈黙を割ったのは、志島 修一郎だった。
「それならここは、学級委員長である俺が」
落ち着いた声。
自分の役目を引き受けるような、静かな決意がにじんでいる。
碧は何も言わず、慎司へ視線を送った。
その視線の意味を測るように、慎司は一瞬だけ目を細め――
「あぁ、好きにしろ」
力の抜けた声でそう言った。
修一郎はスマートフォンを取り出し、画面を見つめる。
小さく息を整え、ゆっくりと読み上げた。
『件名:忘れてないよ
高校の入学式で「俺のこと覚えてる?」って話しかけてくれたよね。あの時、うまく答えられなくてごめんね。
ちゃんと全部覚えてるよ。
小学校の頃と変わってなさそうで安心した。
話しかけてくれてありがとう。』
「これが内容」
読み終えたあと、教室に静けさが落ちる。
「小学生の頃って、どういうことだ?」
成弘が眉をひそめる。
「まあ……小学校、同じ学校だったんだよ。あんま接点はなかったけど……」
修一郎は苦笑いを浮かべた。
どこか照れくさそうで、けれどなにか隠しているような表情だった。
その後も、開示は続いた。
伊藤 美久。
山田 俊介。
それぞれがスマートフォンを手に、美久、俊介の順に短い言葉を読み上げる。
『件名:保健室に連れて行ってくれてありがとう
私が部活で足を挫いた時、保健室まで連れて行ってくれたよね。すごく嬉しかった。ありがとう。』
『件名:ノート見せてくれてありがとう
私が体調不良で学校を休んでしまった時、ノート見せてくれたよね。本当に助かった。』
どれも、ただの感謝の言葉。
優しくて、温かくて――そして、どこか空虚だった。
*
放課後。
今日もまた、何事もなかったかのように下校の時間が訪れる。
昇降口へ向かう人の流れの中で、珠紀は足を止めた。
少し迷ってから、前を歩く沙希に声をかける。
「一緒に帰らない?」
沙希は一瞬だけ目を丸くし――
すぐに、やわらかく微笑んだ。
「いいですよ」
二人は並んで歩き出す。
夕方の光が、長い影を足元に伸ばしていた。
「一体何が起こってるんだろうね」
珠紀の呟きは、風に溶けるほど小さい。
「わかりません。でも……何か、これだけでは終わらない気がします」
沙希の声は静かだった。
けれど、その言葉だけが妙にはっきりと胸に残る。
終わっていない。
むしろ――
何かが、これから始まろうとしている。
沈みかけた夕日が、校舎の窓を赤く染めていた。




