第十六通「件名:告白」
自室の天井を、ただ静かに見つめていた。
白いはずの天井はどこか灰色がかって見えて、まるで現実そのものが色を失ってしまったようだった。
手の中のスマートフォンは沈黙したまま、黒い画面に自分のぼやけた顔だけを映している。
指先に力が入らない。けれど離すこともできない。
この小さな機械が、すべての始まりであり、そして終わりの引き金でもあると知っているからだ。
――今日で、終わる
胸の奥で何度も繰り返してきた言葉。
決意のはずなのに、その周囲には形にならない恐怖がまとわりついている。
逃げたい気持ちは、まだ消えていない。
それでも。
――よし、行くか
小さく息を吐き、珠紀はゆっくりと体を起こした。
足の裏が床に触れた瞬間、現実の冷たさが一気に押し寄せる。
もう戻れない。
もう隠せない。
制服に袖を通し、家を出る。
朝の空気は冷たく澄み切っていて、肺の奥を静かに刺した。
通学路の景色は昨日までと何も変わらない。
なのに、自分だけがまったく別の世界を歩いているような感覚があった。
前方に、見慣れた後ろ姿がある。
山下 沙希。
その存在だけが、かろうじて日常と自分をつなぎ止めていた。
「山下さん、おはよう」
声をかけると、沙希は少し驚いたように振り返り、すぐに穏やかな表情で頭を下げた。
「おはようございます」
たったそれだけの会話。
それなのに、胸の奥がわずかに痛む。
これが壊れてしまうかもしれない未来を、想像してしまうからだ。
「一応、メッセージは佐久間さんので終わりますね……」
遠慮がちな声。
その意味を、珠紀は誰よりも理解している。
「……そうだね」
それ以上の言葉は出てこなかった。
二人の間に落ちた沈黙は静かで、けれど確実に重かった。
校門をくぐる。
その瞬間、心のどこかで最後の逃げ道が閉ざされた気がした。
*
朝のホームルーム。
教室は不自然なほど静まり返っている。
ざわめきはあるのに、どこか表面だけを滑っている薄い音。
苅間 慎司が、ゆっくりと口を開く。
「今日で一応メッセージは終わるが……佐久間、いけるか……?」
一斉に視線が集まる。
光ではなく、重さを持った何かのようだった。
「はい。でも……帰りのホームルームでいいですか?」
数秒の沈黙。
慎司は静かに頷く。
「分かった」
それだけで十分だった。
教室中が理解してしまう。
今日、何かが決定的に変わると。
*
授業は進む。
黒板に走るチョークの音。
教師の声。
ページをめくる音。
すべてが遠い。
珠紀の意識は、ずっと机の中のスマートフォンに縛られていた。
――ここから先は、俺の役目だ
昼休み。
笑い声はある。
けれど長続きしない。
誰もが無意識に、同じ話題を避けている。
珠紀は弁当を開いたまま、ほとんど手をつけなかった。
味が分からない。
食べる意味すら、感じられない。
視線を上げる。
クラスメイトたちの顔。
泣いた者。
怒った者。
壊れかけた者。
それでも前を向こうとしている者。
――美月。
お前の願いは、ここに届いてるのか
答えはまだ、どこにもない。
*
そして帰りのホームルーム。
空気が張り詰めている。
静かなのに、重い。
全員がこの瞬間を待っている。
珠紀は席を立つ。
一歩。
また一歩。
足音が、やけに大きく響く。
まるで自分だけが別の時間を歩いているようだった。
教卓の前に立つ。
すべての視線を、正面から受け止める。
短く呼吸を整える。
心臓の音が、胸の内側から世界を叩いている。
「まずは、すみません」
予想外の言葉。
教室にざわめきが広がる。
それでも、目は逸らさない。
逃げないと決めた。
背負うと決めた。
「俺と瀬戸さん……いや、美月は――」
喉が焼ける。
それでも止まらない。
「グルです」
音が消えた。
完全な静寂。
誰も理解できないまま、時間だけが止まっている。
それでも珠紀は前を向く。
ここからが、本当の始まりだからだ。
これは終わりじゃない。
全部を変えるための告白だ。
次回、最終回。




