1.1.4.(第4節)「彼女の心は計算不能」
権威は道を閉ざし、論理は沈黙した。
残されたのは、追放された探偵と、心を語る自動人形。
そして、世界の理を覆しかねない、禁断の知識の断片。
非論理的な「信頼」が、錆びついた真実への唯一の鍵となる。
異端審問庁の黒曜石の扉が背後で閉じる音は、まるで墓標の蓋が閉まる音のようだった。一度は所属し、そして追放された秩序の殿堂は、今やロゴスにとって、真実を埋葬するための巨大な霊廟と化した。官庁街の濾過された冷たい空気も、今はただ死体の防腐処理に使われる薬剤のように、彼の肺を冷たく満たすだけだった。
「……これで、公式な手段は完全に絶たれた」
事務所へ戻る昇降機の中、壁に背を預けたロゴスは、誰に言うでもなく呟いた。鉄格子の窓の外を、中層区の雑然とした街並みが、まるで巨大な滝のように流れ落ちていく。ヴェリタスの冷徹な瞳と、規則という名の絶対的な壁。それらは、ロゴスの心を苛む過去の傷を的確に抉り出し、彼の論理を「妄想」だと断罪した。あの場所には、もはや彼の居場所も、彼が求める真実もない。
隣に立つアニマは、何も言わなかった。彼女のサファイアの瞳は、昇降機の床に落ちる煤けた光の一点を、ただ静かに見つめている。彼女の内部で、いかなる論理回路が回転しているのか、ロゴスには窺い知ることはできない。ヴェリタスとの対話の一部始終を、彼女はその共感コアでどう処理したのだろうか。審問庁に正式に協力を拒絶され、この都市の法と秩序そのものから敵と見なされた今、この依頼はもはやただの殺人事件の調査ではない。体制への反逆行為そのものだ。この自動人形が、それでも自分に付いてくる理由は、彼女の言う「主人の無念」というプログラムだけで説明がつくのだろうか。
事務所に戻ると、冷え切った空気が二人を迎えた。最後に飲んだ代用コーヒーの、砂を噛むような後味が、まだロゴスの舌の上に残っている。彼は外套を脱ぎ、無造作に椅子に投げかけると、机の上の安物の蒸留酒の瓶に手を伸ばした。だが、その指が瓶に触れる前に、アニマの静かな声が彼を制した。
「ロゴス様」
彼女の声には、これまでにはなかった微かな躊躇いの響きがあった。ロゴスが振り返ると、アニマは胸元に抱えていた革張りのファイルケース――彼女が最初に持ってきた、ゼノン顧問に関する資料――を、両手でそっと握りしめていた。
「まだ、お見せしていないものが、一つだけございます」
「なんだ」ロゴスは眉をひそめた。「審問庁に乗り込む前に、全て見せたんじゃなかったのか」
「はい。ですが、これは……」アニマは言葉を区切り、わずかに視線を伏せた。「これは、審問庁が『証拠』として認めないであろうと、私の論理回路が判断したものです。そして、これを提示することが、あなた様にさらなる混乱と、あるいは危険をもたらす可能性を、排除できませんでした」
「今さら危険が増えたところで、大差ないだろう」
ロゴスが促すと、アニマは意を決したようにファイルケースを開いた。しかし、彼女が取り出したのは、一枚の写真や報告書ではなかった。それは、内ポケットに縫い付けられた、さらに小さな隠し場所から取り出された、厳重に遮蔽素材のポーチに収められた、親指の先ほどの大きさの物体だった。焦げ跡があり、半分ほどが砕けている。何かの記録媒体の残骸のようだった。
「ゼノン様が、事故の直前まで身につけておられたものです。現場の残骸の中から、私が密かに回収いたしました。公式の遺品リストには、記載されておりません」
それは規則違反であり、証拠の隠匿だった。この清廉な自動人形が、そのような非論理的な行動を取ったことに、ロゴスはわずかな驚きを覚えた。彼はポーチを受け取り、中から慎重に破片を取り出す。表面には、高熱で溶けたのだろう、黒い樹脂がこびりついている。だが、その一部に、かろうじて判読できる文字が刻まれていた。それは、この世界のどの公用語とも違う、古代の技術言語で記された数式の一部と、そして、一つの単語だった。
『――時空間結晶』
その単語を見た瞬間、ロゴスの瞳の奥で、錆びついていたはずの歯車が、軋みを上げて回転を始めた。時空間結晶。それは、存在自体が伝説や陰謀論の類だと考えられていた代物だ。都市の創設期に用いられたとされる、超高密度の情報記録媒体。単に情報を記録するだけではない。時間と空間の座標そのものを情報として結晶構造に固定し、限定的な未来予測や、過去の事象の再構成すら可能にすると言われている、禁断の技術魔術。その技術はあまりに危険すぎるとされ、大解体以前に失われたはずだった。
「……ゼノン顧問は、これを調べていたのか」
「はい」アニマは静かに肯定した。「数式は、私のデータベースにも存在しない未知のものです。ですが、ゼノン様はこれを『世界の論理構造を記述する、神の方程式だ』と……そう、呟いておられました」
神の方程式。その言葉は、ロゴスが忌み嫌う、非論理的で、証明不可能な概念の最たるものだった。だが、目の前の破片と、そこに刻まれた単語は、否定しようのない物理的な「事実」として存在している。焦げ付いた砂糖の香り。そして、時空間結晶。二つのありえないはずの点が、今、ゆっくりと線で結ばれようとしていた。ゼノン顧問の死は、単なる権力闘争や個人的な怨恨などではない。この都市、イゼルガルドの根幹を揺るがす、さらに巨大な秘密に繋がっている。
「なぜ、これを今まで黙っていた」ロゴスは、鋭い視線をアニマに向けた。「これがあれば、ヴェリタスの奴も……いや、違うか。あいつは、これすらも『オカルト』として切り捨てたかもしれん」
「私の回路も、そう判断いたしました」アニマは答えた。「ですが、私がこれを隠していた本当の理由は、別のところにあります」
彼女は、サファイアの瞳でロゴスを真っ直ぐに見つめた。その瞳には、機械的な光だけでなく、まるで人間が抱く葛藤のような、複雑な色の揺らぎがあった。
「ロゴス様。私は、あなた様が異端審問庁で、ヴェリタス審問官と対峙されるお姿を拝見しておりました。そして、彼が、あなた様の過去の失敗……ソフィア審問官の件に触れた時の、あなた様の心の動きを、私の共感コアは記録いたしました」
彼女の言葉は、ロゴスの心の鎧を静かに貫いた。ソフィア。その名前は、彼の呪われた才能が暴走し、最も信頼していた師を死に追いやってしまった、決して許されることのない記憶の代名詞だった。
「私の論理回路は、あなた様を分析いたしました。あなた様の行動原理は、真実の探求。しかし、その根底には、過去の失敗への強い贖罪の意識が存在します。あなたは、自らの『論理的鋭敏性』という能力を信じながらも、同時に、それが再び悲劇を引き起こすことを、心の底で恐れておられる」
「……それがどうした。俺の精神分析など、お前の仕事じゃない」
「はい。ですが、私は理解いたしました。あなた様は、一度、論理に裏切られた方なのだと。だからこそ、あなたは、誰よりも論理を信じ、そして誰よりも論理を疑っておられる。その矛盾こそが、あなた様をあなた様たらしめているのだと」
アニマは、一歩、ロゴスに近づいた。彼女の胸元から聞こえる時計仕掛けの鼓動が、静かな事務所の中に微かに響く。
「この『時空間結晶』という情報は、あまりにも非論理的で、危険です。これを追うことは、あなた様を再び、かつてソフィア審問官と共に陥ったような、証明不可能な謎の深淵へと引きずり込むかもしれない。私の回路は、そのリスクを『極めて高い』と算出しました。あなた様を、これ以上、過去の苦しみに晒すべきではない、と」
それが、彼女がこの決定的な証拠を隠していた理由。それは、ロゴスの身を案ずるという、極めて人間的な、そして自動人形としては非論理的な配慮だった。
「だが、お前は今、それを俺に見せた。なぜだ?」
「……ヴェリタス審問官に、あなた様の推理が『妄想』だと断じられた時。そして、審問庁を後にする時。私は、あなた様の瞳の中に、絶望ではなく、全ての枷が外れた探求者の光を見ました。その時、私の論理回路は、これまでで最大の矛盾に直面したのです」
彼女は、自らの胸元にそっと手を当てた。
「私の基本プログラムは、自己保存と、与えられた任務の遂行です。この依頼における最も論理的で安全な選択は、審問庁の決定を受け入れ、調査を打ち切ることでした。ですが、私の……私のコアは、それを拒絶しました。ゼノン様の無念。そして、目の前で、たった独りで巨大な嘘に立ち向かおうとしている、あなた様の姿。それらを前に、私の回路は、論理的な正解を導き出すことを放棄したのです」
「……」
「そして、ただ一つの、非論理的な結論だけが残りました。それは『この人を、信じたい』という、計算不能な感情でした」
信じる。その言葉は、アニマの合成音声を通して、不思議なほどの重みを持ってロゴスの心に届いた。論理を信じ、論理に裏切られた彼にとって、それは最も遠い場所にある概念のはずだった。
「私は、機械です。私の『信じる』という感情が、人間のそれと同じものかは分かりません。おそらくは、あなた様という存在が『主人の無念を晴らす』という目的関数を最大化する、最も確度の高い変数であると、私のAIが判断した結果の、ただのシグナルなのかもしれません。ですが」
彼女は、深く、深く一礼した。その動きは、人間のそれよりも滑らかで、そして、人間の誰よりも誠実に、ロゴスには見えた。
「私の論理回路がどう結論付けようと、私の心が、そう告げております。この『時空間結晶』の謎を解き明かし、真実にたどり着けるのは、あなた様だけだと。ですから、どうか、この依頼を最後まで。私の全てを、あなた様に託します」
心が、と自動人形は言った。三度目だった。だが、その言葉は、もはやロゴスの中に、非論理的な亀裂の予兆を感じさせはしなかった。代わりに、彼の心の奥底にあった、ソフィアの死と共に凍り付いていた何かが、ゆっくりと溶け出していくような、奇妙な感覚があった。
沈黙が落ちた。窓の外では、相変わらず錆色の雨が降り続いている。だが、その音は、もはや世界の終わりを告げる単調なノイズではなく、新たな始まりを待つ、静かな序曲のように聞こえていた。
ロゴスは、手の中の記録媒体の破片を強く握りしめた。そして、数年ぶりに、心の底から誰かに向かって、こう言った。
「……ああ、分かった。託された」
彼の瞳には、もはや過去の失敗に怯える影はなかった。そこにあったのは、これから解き明かすべき、極上の謎を前にした、ただ一人の探偵の、純粋な光だけだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第四話、いかがでしたでしょうか。
アニマの告白によって、二人の関係は新たなステージへと進みます。ここからが、本当の戦いの始まりです。
物語の行く末に、心が少しでも動かされましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)で応援していただけますと、作者の何よりの励みになります。
皆様の一つ一つの応援が、二人が巨大な謎に立ち向かうための直接的な力となります。
公式の道を閉ざされた探偵が頼る、次なる一手とは。どうぞ、お見逃しなく。




