1.1.3.(第3節)「錆びついたアリバイ」
公式の記録は、嘘をつくためにある。
規則の壁は、真実を隠すためにある。
社会から追放された探偵は、ただ独り、巨大な偽りの論理に反旗を翻す。
彼の武器は、呪われた才能と、決して折れない鋼の意志。
思考機関施設の残骸を後にしてから、ロゴスとアニマは一言も言葉を交わさなかった。降りしきる錆色の雨が、外套の襟と、少女の精密に編み込まれた銀色の髪を濡らしていく。第四区画の工業地帯から中層区の官庁街へ向かう昇降機の中ですら、沈黙は続いた。ロゴスは鉄格子の窓の外を流れる都市の断面を、アニマはその主人の瞳に宿る、数年ぶりに再点火された探求の光を、それぞれ静かに見つめていた。
「密室殺人……」
沈黙を破ったのはアニマだった。彼女の合成音声は、普段の落ち着きの中に、処理しきれない疑問符の色を滲ませていた。
「私の論理回路も、あなた様の結論を支持しています。第二安全弁への外部からの破壊エネルギー、そして緊急停止回路の異常な切断。これらは、内部の暴走だけでは説明不可能な、明確な人為的介入の痕跡です。ですが、ロゴス様。一つ、解せない点が」
「犯人がいないことか」
ロゴスは、アニマの方を振り返らずに言った。
「はい。あの施設は、思考機関の暴走が始まる直前から、審問庁の記録では完全に封鎖されていました。定期メンテナンスのための標準的な手順です。暴走が始まった瞬間、内部にいたのはゼノン様ただ一人。外部から侵入した形跡も、退出した形跡も、公式記録には一切存在しません。これでは、まるで……」
「幽霊が、壁を通り抜けて弁を壊し、回路を焼き切って、また壁を抜けて消えた、とでも言うようだな」ロゴスは自嘲気味に呟いた。「審問庁の連中なら、そう結論付けるかもしれん。俺の『論理的鋭敏性』を、疲弊した精神が見せる幻覚だと断じた時のようにな」
彼の言葉には、過去の苦渋が錆のようにこびりついていた。昇降機が官庁街のプラットフォームに到着し、重い音を立てて扉が開く。そこは、煤とオイルの匂いが支配する下層や中層とは別世界だった。空気は濾過され、冷たく澄んでいる。床は大理石で磨き上げられ、壁にはイゼルガルドの歴史を刻んだ巨大な歯車のレリーフが整然と並んでいた。人々は皆、糊のきいた制服や高価な外套を身にまとい、感情を押し殺した無表情で足早に行き交っている。秩序と論理が支配する、巨大な時計仕掛けの内部。ロゴスがかつて所属し、そして追われた場所、異端審問庁はその一角に、ひときわ高く、威圧的にそびえ立っていた。
黒曜石のような光沢を持つ巨大な扉を抜けると、広大なホールが二人を迎えた。天井は教会のドームのように高く、ステンドグラスの代わりに、都市の法と秩序を象徴する幾何学模様のガラスが嵌め込まれている。そこから差し込む光は、床に複雑な光の格子を描き出していた。空気は静寂そのもので、響くのは規則的な足音と、どこか遠くでタイプライターが情報を刻む微かな音だけだ。すべてが完璧に計算され、配置されている。ロゴスにとって、そこはかつての職場であると同時に、自らの論理が否定された場所でもあった。
受付で身分を告げると、担当官は色褪せたロゴスの身分証と、彼の顔を何度も見比べ、上司に確認を取った後、不承不承といった態度で入館を許可した。元・星付き異端審問官。その肩書は、尊敬と侮蔑という、矛盾した感情を周囲の人間から引き出した。
「ヴェリタス審問官に会いたい。第四区画の事故の件で、新たな証拠と、それに基づく再調査の要求をしに来た」
ロゴスの言葉に、受付の男はあからさまに眉をひそめた。
「ヴェリタス様は多忙です。それに、あの件はすでに事故として最終報告が上がっているはずですが」
「だからこそ、その報告書が間違っていると言いに来たんだ。俺の名前を伝えれば、あいつも会わないとは言わんだろう」
ロゴスの自信に満ちた、あるいは傲慢とも取れる態度に、受付はしばらく逡巡したが、結局は内線通信機のスイッチを入れた。数分の後、ホールの奥から一人の男が姿を現した。
男の名はヴェリタス。現役の星付き異端審問官。一分の隙もなく着こなした純白の制服は、彼の潔癖な性格を象徴していた。銀縁の眼鏡の奥の瞳は、まるで磨き上げられたレンズのように、あらゆる感情を排して、ただ対象を分析するためだけに光を宿している。彼は、ロゴスとは正反対のやり方で、同じ地位にまで上り詰めた男だった。規則と証拠を絶対の正義とし、そこに少しでも論理的でないものが混じることを許さない。ロゴスのかつての同僚であり、そして最大のライバルだった。
「何の用だ、ロゴス。ここは、お前のような失職者が感傷に浸るために訪れる場所ではないはずだが」
ヴェリタスの声は、彼の佇まいと同じく、冷たく、正確無比だった。
「感傷だと?生憎、俺は過去を振り返る趣味はない」ロゴスは、ヴェリタスの前に歩み寄り、声を潜めた。「第四区画の件だ。あれは事故じゃない。巧妙に偽装された、密室殺人だ」
その言葉に、ヴェリタスの眉が僅かに動いた。だが、それは驚きではなく、呆れの感情に近いものだった。
「……また、それか。君のその、呪われた『才能』が見せた幻覚の話か?最終報告書は読んだ。原因は経年劣化による論理的ショート。物的証拠、状況証拠、全てがその結論を指し示している。完璧な報告書だ。そこに、君の妄想が入り込む余地はない」
「証拠ならある」ロゴスは懐から、現場で撮影した写真のコピーを取り出した。アニマが持ってきたものとは別に、彼が独自に記憶していた映像を紙に定着させたものだ。「第二安全弁。報告書では内部からの圧力で破壊されたとある。だが、破壊のエネルギーベクトルは外から内だ。そして緊急停止用の制御回路。熱で焼き切れたのではない、コンマ0.03秒、暴走検知信号が送られる、その刹那に、外部から指向性エネルギーで『切断』されている」
「ほう。そのエネルギーベクトルとやらは、君のその『鋭敏性』とやらにしか見えない代物だろう?」ヴェリタスは写真を一瞥しただけで、興味なさそうに押し返した。「我々が信じるのは、測定機器が示す客観的なデータだけだ。君のその、詩的な表現ではない」
「ならば、焦げ付いた砂糖の香りはどう説明する?」ロゴスは畳みかけた。「被害者のゼノン顧問は極度の糖分アレルギーで、執務室に砂糖を含むものを一切置かなかった。これは、アニマの証言とも一致する。公式記録では、この事実をどう処理している?」
「『AIの記録エラー』、もしくは『外部から風に乗って紛れ込んだ微粒子による嗅覚の誤認』。いずれにせよ、事件の根幹を揺るがす証拠とは到底言えん。そんな不確定な情報より、我々は残骸の飛散角度から算出された、物理法則という名の絶対的な証拠を優先する」
ヴェリタスは、まるで出来の悪い生徒に言い聞かせるように、淡々と、しかし有無を言わせぬ口調で続けた。
「君がなぜ失脚したか、忘れたわけではあるまい、ロゴス。君は、その証明不能な主観的『観測』を、客観的な証拠よりも優先した。その結果、我々の師であるソフィア審問官を死なせ、被疑者を真犯人だと断定し、結果的に無関係な市民を混乱に陥れた。君のその才能は、真実を暴く力ではない。秩序を乱すための、危険なノイズだ」
その言葉は、ロゴスの心の最も深い場所にある、決して癒えることのない傷口に、塩を塗り込むようなものだった。師、ソフィアの死。それは、彼の能力が暴走し、彼が信じた「論理」が、最悪の結末を導いてしまった事件。彼の異端審問官としてのキャリアと、自信と、誇りのすべてを粉々に打ち砕いた、忌まわしい記憶。
ロゴスの瞳から、一瞬だけ光が消えた。だが、それはすぐに、より硬質な、決意の光に変わった。彼は、ヴェリタスが抉った痛みを、怒りではなく、燃料として燃やした。
「……そうか。ならば、審問庁は、この明確な矛盾に蓋をして、完璧な嘘を真実として記録する、というわけだ」
「矛盾ではない。君がそう思い込んでいるだけだ」ヴェリタスは冷たく言い放った。「我々の仕事は、謎を解き明かすことではない。秩序を維持することだ。そして、今回の件は、既に『事故』という形で、完璧に秩序の中に組み込まれている。それを、君一人の妄想で、再び混沌に戻すことは許さん」
彼は背を向け、踵を返した。「これ以上、業務の邪魔をするなら、不法侵入及び公務執行妨害で拘束する。警告はしたぞ、元・同僚」
ヴェリタスの背中が、ホールの奥へと消えていく。その背中は、どこまでも真っ直ぐで、揺るぎない。規則という名の鎧に守られた、完璧な正義の体現。
「ロゴス様……」
アニマが、心配そうに彼の顔を覗き込んだ。彼の表情は、数年前の失脚した日と同じ、深い絶望に染まっているように彼女には見えた。
だが、ロゴスはゆっくりと顔を上げると、にやり、と口の端を吊り上げた。その瞳には、絶望の色など微塵もなかった。そこにあったのは、全ての退路を断たれ、解き明かすべき巨大な謎だけを前にした、純粋な探求者の歓喜の光だった。
「……ああ、そうだったな」彼は、誰に言うでもなく呟いた。「あいつは、昔からそういう男だった。完璧な論理で構築された盤面の上でしか戦えない。盤の外に真実があっても、決してそれを認めようとはしない」
彼は、異端審問庁の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込むと、それをため息と共に全て吐き出した。過去の栄光も、苦い記憶も、全て一緒に。
「公式な手段は、これで完全に絶たれた。審問庁は敵だ。これから俺たちがやることは、法を逸脱した、ただの不法調査になる。それでも、付いてくるか、アニマ?」
その問いに、アニマは一瞬の逡巡も見せなかった。彼女は、そのサファイアの瞳でロゴスを真っ直ぐに見つめると、静かに、しかし、これまでで最も力強い声で言った。
「はい。私の主の無念を晴らせるのは、あなた様だけだと、私の心が、そう告げておりますから」
心が、と自動人形は再び言った。
「そうか」
ロゴスは短く応えると、もはや何の未練もないといった様子で、権威と秩序の殿堂に背を向けた。
公式のアリバイは完璧だ。だが、その完璧さこそが、錆びついている。
彼は、その錆の下に隠された、真実という名の歯車を、独力で、こじ開けることを決意した。
<あとがき>
最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第三話、主人公の過去とライバルとの対立が描かれました。
ここから、彼の孤独な戦いが本格的に始まります。
物語の行く末を共に見届けたいと感じていただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の声援が、探偵の思考をより鋭くします。
公式の道を閉ざされた探偵が、次なる一手のために誰を頼るのか。どうぞ、お見逃しなく。




