1.1.2.(第2節)「論理の亀裂」
完璧な事故現場に残された、ただ一つの不協和音。 論理の亀裂が、偽りの平穏を打ち砕く。 真実は、目に見えるものの中にはない。 世界が認めた結論に、探偵は静かに反逆の狼煙を上げる。
「現場へ行く」
ロゴスが事務所のコート掛けから、年季の入った黒の外套を掴みながら言うと、アニマのサファイアの瞳がわずかに瞬いた。彼女の共感コアが、彼の声に含まれる錆びついていたはずの熱量を正確に検知していた。
「ですが、第四区画の事故現場は、すでに異端審問庁の管轄下にあり、封鎖されているはずです。元審問官であるあなた様でも、立ち入りは……」
「元、だからいい」ロゴスは、外套の埃を手で払いながら、にやりと口の端を吊り上げた。「現役の連中が縛られている規則の多くは、失職した人間には適用されん。それに、管轄官でなければ気づかない『抜け道』というものも存在する」
それは半分が強がりで、もう半分が事実だった。彼が失ったのは地位と信頼であり、脳に刻み込まれた都市の構造知識ではない。
二人は事務所を出た。錆色の雨は相変わらず降り続いている。真鍮と煤で汚れた石畳を叩く雨音だけが、絶えず稼働し続ける都市の巨大な歯車の唸りに混じり、単調なリズムを刻んでいた。上層と下層を結ぶ昇降機に乗り込むと、鉄の檻は悲鳴のような軋みを上げて降下を始める。窓の外を、何層にも重なった都市の断面が滝のように流れ落ちていった。エーテルランプの青白い光が照らし出すのは、ひしめき合う居住区、複雑に絡み合った蒸気管、そして、それらの構造物の合間に垣間見える、遥か下の暗闇だけだった。この都市、イゼルガルドは、巨大な墓標だ。大解体で滅びた過去の文明の残骸の上に、懲りない人間たちが築き上げた、壮麗で、そして救いようのないほどに病んだ墓標なのだ。
「ロゴス様」静寂を破ったのはアニマだった。「なぜ、私の話を信じてくださったのですか?審問庁は、私の証言を『AIの記録エラー』として棄却しました。焦げ付いた砂糖の香りなど、存在しないと」
「連中はそう判断するだろうな」ロゴスは、窓の外の闇に視線を向けたまま答えた。「秩序を守るのが奴らの仕事だ。そして、秩序を守る最も簡単な方法は、理解できないものを『エラー』として切り捨てることだ。だが、俺の仕事は違う」
彼はゆっくりとアニマの方へ向き直った。その瞳は、過去の失敗と現在の無気力で濁っているはずなのに、今は剃刀のような鋭い光を宿していた。
「俺は誰も信じん。アニマ、君のこともだ。俺が信じるのは、ただ一つ。世界の骨格を成す『論理』だけだ。そして、君がもたらした情報は、その完璧なはずの骨格に、無視できないほどの瑕疵を生じさせた。ただそれだけのことだ。俺は、その瑕疵の正体を確かめたいに過ぎん」
彼の言葉は突き放すように冷たかったが、アニマの胸元で時を刻む時計仕掛けの心臓は、その鼓動をわずかに速めていた。彼の言葉の奥底にある、真実への渇望。それは、彼女のAIコアが「信頼」という非論理的な概念に最も近いものとしてタグ付けした感情だった。
第四区画は、中層区の中でも特に古い工業地帯だった。空気はオイルと金属の匂いで満ち、巨大な工場の壁面を、正体不明の液体が絶えず伝い落ちている。目的の思考機関施設は、その一角に巨大な機械仕掛けの心臓のように鎮座していた。その心臓は、今は見るも無残に破壊され、その機能を完全に停止させている。
施設の周囲には、異端審問庁の紋章が刻まれた封鎖テープが張り巡らされ、武装した衛兵が二人、雨の中で気怠そうに立っていた。
「止まれ。ここは立ち入り禁止区域だ」
衛兵の一人が、ロゴスたちの前に機械的にライフルを突き出す。
ロゴスは臆することなく歩み寄り、懐から色褪せた身分証を提示した。そこには、彼の名前と共に、『星付き異端審問官』という、今は剥奪されたはずの肩書が刻まれている。
「元、だがな」ロゴスは言った。「昨日の事故の再調査だ。現場の初期記録と、現状の間に齟齬がないか確認するよう、上から命令があった。お前たちの名前は?」
その横柄な態度と、澱みない物言いに、若い衛兵たちは顔を見合わせた。「上」という曖昧な言葉が、彼らの思考を縛る。元審問官とはいえ、腐っても審問官。下手に逆らって、この先のキャリアに傷がつくのはごめんだった。
「……我々は、何も聞いておりませんが」
「だろうな。極秘の再調査だ。お前たちにまで情報が降りてくるはずがない。時間を無駄にさせるな。それとも、ヴェリタス審問官に、現場の衛兵が非協力的だったと報告書を上げるか?」
ライバルであるヴェリタスの名前を出したのが決定打だった。あの規則の権化のような男に睨まれれば、どうなるか。衛兵たちは、ごくりと喉を鳴らし、不承不承といった体でライフルを下げた。
「……15分だけです」
「5分でいい」
ロゴスは短く言うと、アニマを伴って封鎖テープの下をくぐった。彼の背中に、衛兵たちの訝しむような視線が突き刺さる。嘘は、論理の亀裂を生む。だが、今はその小さな亀裂には目をつぶるしかなかった。
施設の内部は、混沌の極みだった。暴走した思考機関が撒き散らしたのだろう、大小様々な歯車やシリンダーが床に散乱し、壁には巨大な爪で引き裂いたような亀裂が走っている。天井からは切断された真鍮のパイプが垂れ下がり、そこから漏れ出す高純度のエーテル蒸気が、雨水と混じり合って霧となり、視界を不明瞭にしていた。空気中には、金属の焼ける匂いと、微かなオゾンの匂いが満ちている。そして、その中心。直径10メートルはあろうかという巨大な球状の機構――思考機関の残骸が、巨大な生物の骸のように横たわっていた。
「アニマ、周辺環境のデータを記録。エーテル濃度、温度、残留魔力反応。すべてだ」
「はい、ロゴス様」
アニマは静かに頷くと、その青い瞳を微かに発光させた。彼女の視覚センサーが、人間の目には見えない情報を次々とスキャンし、内部記録へと保存していく。
ロゴスは、アニマが作業している間、ゆっくりと現場を歩き回った。彼は、ひしゃげた鉄骨の一片を拾い上げ、その断面を入念に調べる。散乱した歯車の噛み合った跡を指でなぞり、その破壊のベクトルを脳内で再構築する。審問庁がまとめた公式報告書の内容は、彼の頭の中に完璧にインプットされていた。
『――原因は、中央演算部の経年劣化による大規模な論理的ショート。それにより、冷却システムが機能不全に陥り、内部圧力が臨界点を突破。結果として、大規模な物理的爆縮を引き起こした。ゼノン顧問は、その爆縮に巻き込まれたものと断定される』
報告書に書かれた内容は、目の前の光景と何ら矛盾しない。緻密で、論理的で、非の打ち所のない結論だ。あまりにも、完璧すぎる。
「ロゴス様、記録を完了しました」アニマが報告する。「特異な点は、やはり公式記録にもあった、あの地点の炭化残留物です。私のセンサーも、極微量の糖質由来の有機物を検出しました」
彼女が指し示したのは、思考機関の残骸のすぐ傍、床が黒く焼け焦げた一点だった。
「そうか」
ロゴスは短く応えると、その場所へ歩み寄り、屈み込んだ。彼はポケットからチョークを取り出し、床にいくつかの数式と幾何学模様を描き始める。それは、思考機関の設計図と、エネルギー力学の基礎方程式だった。彼の思考を整理するための、長年の癖だった。
そして、彼は目を閉じた。
意識を、深く、深く沈めていく。
世界の表層――目に見える瓦礫や、鼻につく匂い、肌を撫でる湿った空気――が、一枚、また一枚と剥がれていく。やがて、彼の精神の前には、世界の真の姿が露わになる。
すべてが、青白い光の線で構成された、無限の論理格子。
天井も、床も、壁も、散乱する残骸さえも、すべてが設計図通りの寸分違わぬ線で描かれている。思考機関の暴走が描いた破壊の軌跡もまた、物理法則という名のプログラムに従った、完璧で美しい曲線として彼の網膜に映し出されていた。事故とは、論理が導き出した一つの必然的な結末に過ぎない。
だが。
アニマがもたらした、たった一つの非論理的な変数。「焦げ付いた砂糖の香り」。
その変数を、脳内の論理格子に入力した、瞬間。
ピシッ。
完璧だったはずの世界に、亀裂が走った。
それは、思考機関の残骸の、ちょうど中央部。公式報告では「爆縮の起点」とされた場所だ。そこに、髪の毛よりも細く、しかし、決して見過ごすことのできない、黄金色の光を放つ一本の亀裂が、明確に視えていた。
ロゴスは、息を詰めてその亀裂を凝視する。それは、物理的な亀裂ではない。論理の亀裂。因果律の断層。
「……これか」
彼は立ち上がると、なおも目を閉じたまま、まるで夢遊病者のようにゆっくりと歩き出した。彼の足は、物理的な瓦礫ではなく、論理の格子上を正確に進んでいく。そして、亀裂の目の前でぴたりと止まった。
彼は、何もない空間に手を伸ばし、何かを掴むように指を動かす。
「ここだ。冷却システムの第二安全弁。報告書では、内部圧力の上昇によって、内側から破壊されたとある。だが、この亀裂は示している。破壊のエネルギーベクトルが、内から外ではなく、外から内に向かっている。つまり、誰かが、外部からこの弁を『意図的に』破壊した」
彼はさらに数歩、横に移動した。そこには、先程よりも微細な、しかし同じ黄金色の亀裂が、複数、平行に走っていた。
「そして、ここだ。緊急停止用の制御回路。これも、暴走の熱で焼き切れたとされている。だが、論理の骨格は違うと告げている。焼き切れたのではない。もっと高圧の、指向性を持ったエネルギーによって、『切断』された。しかも、回路が暴走を検知し、信号を送る、コンマ0.03秒前にだ」
ロゴスの額に、汗が滲む。彼の能力は、真実を暴くが、同時に彼の精神を著しく消耗させる。
「……何者かが、思考機関の内部構造を完全に把握した上で、暴走が起きるまさにその瞬間に、外部から複数の破壊工作を同時に行った。そして、その目的は、暴走をより大規模に見せかけ、自らの介入の痕跡を、その破壊の中に隠蔽すること……」
彼は、ふらつきながら後ずさり、壁に背中をもたせかけた。そして、ゆっくりと目を開ける。目の前には、相変わらず混沌とした残骸が広がっているだけだ。だが、彼の目には、もはやそれは単なる事故現場には見えなかった。
「密室……」ロゴスは、喘ぐように呟いた。「これは、巧妙に偽装された、密室殺人だ」
「……!」
アニマが息を呑む。彼女の論理回路が、彼の言葉の意味を処理しきれずに、激しく回転していた。
「そして犯人は、この部屋のどこにもいない。痕跡も残さずに消えた。違うか?」
ロゴスは、ゆっくりと顔をアニマに向けた。彼の瞳には、狂気と紙一重の、歓喜の光が宿っていた。錆びついていた探偵の魂が、数年ぶりに、解き明かすべき極上の謎を前に、歓喜の産声を上げていた。
この都市を覆う巨大な矛盾の、最初の糸口。彼は、確かにそれを掴んだのだ。
<あとがき>
最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第二話、いかがでしたでしょうか。
ロゴスの持つ特異な能力が、事件の様相を少しずつ変えていきます。
もし、この先の展開に少しでもご期待いただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)で応援していただけますと、作者が最高のコーヒーを飲むための励みになります。
皆様の一つ一つの応援が、この物語をより遠くへ届けるための翼となります。
偽装された現場の裏で、誰が、何を画策していたのか。どうぞ、お見逃しなく。




