黒のプロローグ:Ⅲ
「ヴァイス・ミュオソティス……それが、イブリスさんの本当の名前」
「『白黒物語』の元となった、"勇者"ですか……」
私の中で、たくさんの霧が晴れたような感覚がした。
イブリスさんが黒属性の魔法を使えたのは、彼の中に統率者の力があったから。
銀の弾丸で身体を撃ち抜かないと魔法を使えなかったのも、退魔の力を持つ銀の力を使って自分の身体から悪魔の力を追い出していたんだ。
記憶が消えていくのは、その力が生み出す瘴気がイブリスさんを蝕んでいるから。
アヴェント防衛戦の時にイブリスさんの身体から発せられた大量の瘴気。あれはイブリスさんの中に居る統率者の力から蓄積されたものが爆発したんだ。あれほどの瘴気を身体の中に蓄えていたなんて、影響が出て当たり前……むしろ、少しの間でも記憶を保てているのが不思議なくらいだ。
そして、悪魔たちがイブリスさんを狙うのは……統率者を取り戻すため。
これは間違いないだろう。あの防衛戦の時に現れた統率者と名乗る何か。あの存在こそが、イブリスさんの身体の中に居た統率者本人に違いない。
イブリスさん……もとい、ヴァイスさんの身体に封印されていた統率者の魂が、彼の身体を乗っ取って現れていたんだ。今はイブリスさんの意識を取り戻しているようだけれど、きっとこのままでは……
……ううん、ダメ。私はふとよぎった不安をすぐに頭から追い出した。
そうならないために私たちはこうしてあの人を追っているんだ。最初から失敗することを考えたって何にもならない。
「主様……いえ、今はあえてコハク様と呼ばせていただきます。コハク様、ひとつお聞きしたいことが」
「ああ、なんでも聞いてくれ」
「今のお話が真実であるのならば、貴方やイブリス様……いえ、ヴァイス様がこの時代に生きている理由がわかりません。統率者がヴァイス様の身体に封印されたのは今から遠い昔のことのはず。コハク様、貴方がたは……何故今も生きられているのですか?」
私はフロワちゃんの言葉に続いて深く頷く。
フロワちゃんの言う通りだ。コハクさんが話したのは大昔の、今やおとぎ話としてしか伝わっていないお話。誰も知らない、"世界に色が無かった頃"のお話。
ヴァイスさんもコハクさんも、そんな時代の登場人物だ。普通に考えればとっくの昔におじいさんになって……もう、死んでしまっているはず。
でも、コハクさんは今ここに居る。
この人がコハク・シラサギその人であることは今更疑うつもりもない。きっとこの時代まで生きている理由があるはずだ。
「当然の疑問だね。勿論この話はここで終わりじゃない。続きを話すことでその質問の答えとしようか」
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統率者を失った悪魔の軍勢は一度この世界から去っていった。
けれど、統率者を取り戻すためにいずれ戻ってくることは明白だった……だから僕たちは名を変え、正体を隠してヴァイスの中の統率者を完全に消し去る方法を探し始めた。"イブリス"と"ラディス"というのも、そのうちのひとつだ。
ヴァイスを助けるための策は、正直言って何もわかっていない。ヴァイスの身体に白の魔力を流しこんでみたり、身体から可能な限り黒の魔力を放出してみせたり……その成果は今の状況を見ればわかるだろう。
話を戻そうか。最初に異変に気が付いたのは僕らが名を変えてから数年後の事だった。いや、薄々感づいてはいたけれどそれが確信に変わったというのが正しい。
僕とヴァイスの年齢に、あからさまに"差"が出てきていたんだ。ヴァイスが年相応に肉体も変化していったのに対して、僕は統率者と戦ったあの時から見た目が一切変わっていなかった。まるで時が止まってしまったみたいに。
原因はすぐに分かった。僕に宿った青の属性だ。
青の魔力は時を操る力を持つ。統率者の魔力を直に受けてしまった僕は……肉体の成長が、止まってしまっているんだ。
最初に感じたのは、ただただ困惑だけ。羨ましがる人だって居るかもしれないが、いくら時を経ても老いることのない身体になっているなんて、どうしたらいいかわからないものだ。
――けどヴァイスは、それが僕らにとって好都合だと気づいた。
どれだけ時間を費やしても解決の糸口が見えない状況。時間はいくらあっても足りなかった。ヴァイスと僕の年齢がどんどんと開いていく現実が、僕らを焦らせていたんだ。
人である限り、老衰からは逃れられない。ヴァイスが旅立ってしまうということは、つまり彼の身体の中に封じられた統率者が解放されることを意味する。
だから彼は、僕と同じになることを望んだ。
青に呪われている僕と同じように、自らの肉体の時を止めることを……そして僕も、その望みに答えた。その選択が、統率者の瘴気に蝕まれる彼の苦しみを長らえさせてしまうとわかっていながら。
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――そして今に至る。
コハクさんは、そこまで話すと一度大きな深呼吸をした。
「大まかだけれど、僕らの話はこの辺りで終わりだ。なにか……他に質問はあるかな?」
聞きたいこと。きっと、考えたら色々あるはずだ。
けど、今の私にはどうしても思い浮かばなかった。今までの話があまりにも大きすぎて……すぐには心を落ち着かせられそうになかったから。
「……では、もう一度私から」
なんと言葉をかければいいのかわからずにまごついている私の方をちらりと見てから、フロワちゃんが話を切り出した。
「ヴァイス様のように肉体の時を止められた人物は、もう一人居ますね?」
「――えっ?」
「ご名答。それがルベイルだ」
「ええっ!?」
心の整理がついていないって言うのに、まだまだ驚きの言葉が続く。あのルベイルさんが、まさかコハクさんたちと同じ時代に生きた人だなんて、考えもつかなかったことだ。
でも、そう考えてみればしっくりくる気もする。あの人はアヴェントの街中から除け者にされていたイブリスさんをずっと気遣っていた、数少ない人だ。それは昔からずっと付き合いのあった仲だったからこそだったんだ。
それに……出発前に見せてもらったあの植物。きっとルベイルさんはイブリスさんのために、ずっと育てつづけているんだろう。何百年も、枯らさないように、絶やさないように、ずっと。
「ずっと引っかかっていたのです。何故サラさんからも記憶を消したカイリ=コウナギが、おふたりの記憶だけ消していかなかったのか。それは、おふたりの何百年と積み重ねた記憶を消し去るには、時間が足りなかったからなのですね」
「そっか。どこかにイブリスさんの記憶が残ってたら意味がないもんね」
コハクさんから、カイリさんは一晩で街中の人の記憶を消して回ったと聞いている。彼と深く関わった人はそう多くないかもしれないけれど、あのアヴェントの街の人々全員の記憶を消していくのにどれだけの時間がかかったのか……私には想像もできない。
「ルベイルはずっと昔……僕らが統率者を倒すための旅をしている頃から、ずっと世話になってるんだ。自由気ままだけど、僕らの保護者みたいな存在さ」
私はふと、イブリスさんの事を"小僧"と呼んでからかうルベイルさんを思い出した。イブリスさんは邪険な顔をしていたけれど、ルベイルさんからすればあの人は本当に"小僧"だったのかな。
「……コハクさん」
「なんだい?」
「ありがとうございます。私たちに……話してくれて」
しばしの沈黙の後、私はようやく感謝の言葉を絞り出した。
「必ず……必ず取り戻しましょう。コハクさんの、私たちの大切な人を」
コハクさんは、私たちに知る義務があると言った。なら、絶対に……もう一度、あの人を連れ戻さなければ。
私は胸に手を置き、決意を再び固くする。
「出発しましょう。ヴァイスさんの……イブリスさんの元へ」
* * *
――一方、アヴェントの街。"機関"、戦闘部主任室。
「よぉルっちん。これからお堅い会議の時間?」
「ルっち……はぁ、ああそうだ。お前は大人しくしておけよ」
ラディスが座を引いたことで戦闘部主任となったルツァリがカイリをあしらいながら、書類に目を通していた。この後にルツァリ主催の臨時の議会が控えているため、その資料の最終確認だ。
ルツァリが忙しそうにしている一方でカイリは来客用のソファにどかっと腰かけ、暇そうに欠伸をしている。そしてしばらく落ち着きなく身体を揺らした後、立ち上がってルツァリの机に近づいたかと思うと、何部か用意されていた資料をひとつ手に取った。
「……なるほど、"機関"内の内通者が見つかったわけ」
「! お前、勝手に……!」
ルツァリの言葉も意に介さず、へらへらとしながら資料を一枚めくって中を覗くカイリ。しかしその表情は、その資料の内容を見た途端に深刻なものに変化した。
「……これマジ?」
「残念ながら間違いない。悪魔への内通者はセレナ・ロリエス。窓口担当の受付嬢で……サラの友人だ」
盗み聞きを警戒しているのか、ルツァリが少し小声になりながらカイリから資料を奪い返す。
セレナ・ロリエス。直接話したことは無いが、サラが楽しそうにお喋りをしているところを何度か見たことがある。……師匠に続き、友人もか。
「気の毒で仕方ねぇな、全く」
「……私もそう思う。サラには言うなよ」
ルツァリはそう言うと資料をまとめ、凛とした歩き姿で議会へと向かっていく。
――残されたカイリはひとり、どこかから漂う異質な空気に目を光らせていた。





