(29)『ヘカテーの由縁』
……さん。
……レイさん。
暗闇の中、途切れ途切れの割にやけに響くその声は、見知った人のものだった。
(この声……、ヘカテー……?)
……ヴァレイさんっ。
(もしかして、呼んでる……のか?)
靄のようなモノに包まれた世界が、少しずつ晴れていく。
「アルヴァレイさんっ!」
その声が急に近付いてきたと思った瞬間、視界がさっと開けた。
「……ッ!?」
「大丈夫ですか?」
気がつくと、至近距離に心配気な表情のヘカテーの顔があった。心拍数が急激に上昇し、頬を燃えるような熱さが襲う。
「だ、大丈夫、ありが――」
ぎくり。
ざらざらとした砂の感覚を手の平に感じながら上半身を起こすと、数メートル離れたちょうど正面、不機嫌そうに腕組みして木にもたれ掛かるように座り込んでいる小柄な少女の姿が視界に入った。
思わず唖然と、絶句する。
燃えるような赤い髪に、ギラギラとした鋭い眼光を放つ血のように紅い瞳。その場にいるだけで圧倒的な存在感を大量放出し、殺戮と暴虐をこよなく愛する(最近は丸くなりつつあったが)倫理観破綻者――ルシフェル=スティルロッテがそこにいた。
しかし目の前にはヘカテーが――ルシフェルと身体を共有するヘカテー=ユ・レヴァンスの姿がある。
――――ひとつしかなかった身体が、二分してる……!?
「驚いてもらえて本当に殺したくなるほど嬉しいわー」
ルシフェルは明からさまに平坦な棒読みで呟くようにそう言うと、それだけで人を殺せそうなほど鋭利な視線を向けて、俺を睨み付けてくる。
「気がついたのね。良かった」
穏やかに響いたその声に右を向くと、ついさっきまでルシフェルと戦っていた仮面の女性、ガダリア=ロード=ブラズが片膝を立ててしゃがみこんでいた。
謎の光剣は既に元の鞘に納めてあり、戦意のようなものは特に感じられない。
しかしそんなことはまったく気にならないほど、俺はまたしても絶句した。
「腕……」
ルシフェルに力任せに引き千切られていた左腕が、完全に復活していた。しかし、同時に損なわれていた鎧の左肩から先の部分は欠けたままで、露出した二の腕が妙に艶かしく感じる。
――なんて思っていたらヘカテーにジト目を向けられた。仕方ないという扱いにはしてくれないのだろうか。
「この腕のことなら大したことじゃないわ。頭を一撃で粉々にでもされない限り、自己修復の複合治癒魔法を知っているから」
そう言いながら、ガダリアはチラッとルシフェルの方に視線を泳がせる。
超速駆動などの人知を超えた身体能力を誇り、現代では廃れてしまった旧時代の高次魔法を自在に操るルシフェルなら、相手がどんな化け物だろうが一撃で処理できるだろう。
それにしても頭が残ってればここまで綺麗に自己修復可能って、結構凄まじいことしてるんじゃないだろうか、この人。
「……それはそれとして、どういうことになってるんだ、これ……?」
苦笑いするヘカテーとつまらなそうな表情のルシフェルを交互に指さしながら、ガダリアにそう訊ねると、
「聞けば言うまでもなく見ての通りよ。ヘカテーちゃんの身体を、旧理から引き離したの」
「引き離し……って、そんなことできるものなのか? っていうか無理矢理分けたのか? ヘカテーの何を知ってるのかは知らないけど、これじゃ横暴じゃないかっ」
思わず声が荒らぐ。
「アルヴァレイさん……これは違うんです……。彼女は……」
ヘカテーが小さな声で何事か呟いた。
しかし俺が振り向くと、ヘカテーはピクッと一瞬震えて固くなり、目を逸らすように俯いてしまう。
そんなヘカテーの様子を見たガダリアはチラッと一瞥の視線を俺の方に送ってきて、穏やかに響く声で、
「――話せば、長くなるわ」
とそう言った。
「ここは戦場だし、時間も場所も見合わないからできるだけ短く話せ」
普段相手が年上になると、どうしても丁寧な口調になってしまうのだが、何故かこの時は違っていた。
俺は、怒ってるのか? だとしたら、何故怒ってるんだ? ヘカテーとルシフェルの問題に、どうして首を突っ込むような――
「短くならないから場所を変えましょう」
思考に割り込むようにガダリアの声が耳に届き、反響する。
「『四天の星の玉座より、我が知る者の知る影の、知りたる地へと引き返せ』」
「何を――」
言葉が、途切れた。
突然視界が歪み、周りの音が遠のいていく。急激に吐き気も襲ってきた。
(なんだ、コレ……気持ち悪……)
頭がぐるぐると回っているような感覚、むしろ振り回される方かもしれない。そして再び意識が飛ぶ寸前、その感覚は消え失せて、驚くほど気分が良くなった。
視界も音も明瞭になり、目の前にさっきとまったく同じ姿勢のガダリアがいる。
視線を泳がせると、ルシフェルがもたれ掛かっていた木は消失し、ルシフェルは立ち上がっている。しかし、ヘカテーの姿は何処にもなかった。
「ここ……って――」
周囲を見回したルシフェルが呟く。
景色がさっきまでとまるで違う、地面の傾斜がかなり大きくなっていた。
「――ティーア」
言われてみると――――と見渡してみてもそうだと確信できる材料はなかった。
空間転移。
シンシアも前に使っていたが、ガダリアのそれは一般的に言われる魔法とは明らかに違っていた。細かい違いを置いといても、隠しきれない大きな違いが残っている。
ガダリアはシャルルのように魔法陣を描くこともなく、シンシアのように展開することもなく、魔法陣を使わずに魔法のような力を行使していた。
ありえない。
そんなことは理論上できないはずだ。
この世界の魔法と言えば、魔法陣によって行使する魔術と、道具によって行使する魔弾の二つに分けられる。
魔術については、魔法陣を描くことで魔術を定義し、魔術は魔法陣を構成式としてこの世界に影響する。複雑な魔法陣もあれば、単純な魔法陣もある。
瞬時に空中に描く、という離れ業をするシンシアに見られるように、どれだけ高速化しても魔法陣を表示しなければいけない以上最低限の時間差は存在する。
それがないということはシャルルの空間転移魔法と同じく、所謂魔弾に分類されるということになる。
しかし空間転移なんて複雑な、しかもこんな長距離移動。魔弾には不可能なはずだ。テオドールからハクアクロアまでですら魔法陣を描かなきゃいけなかったものを、ヴァニパルとは大陸からして違うティーアに飛んだという辺りからもそれは明白だろう。
閑話休題。ガダリアの実力を図るのは後回しだ。
「……ヘカテーちゃんとは何処で?」
ガダリアが、静かに切り出す。
「この“悪魔の山”ティーアです」
「あの子、ラクスレルを出られたのね。よかった……。あのままあの森に幽閉されるなんて可哀想だもの。本当はあの時、私が連れていってあげられれば良かったのだけれど、当時の私には女の子を1人連れて旅をできるほどの余裕がなかったの」
(ラクスレル……?)
名前は聞いたことがある。
確かこの大陸の西端にある原始的な動植物や昆虫が住まう不可侵の神秘の森、『ラクスレルの原生林』だ。
以前、ヘカテーからもその名を聞いた覚えがあるが、まさかあの森に住んでいたことがあるっていうのか……?
『ラクスレルはヘカテーの生まれ故郷だ』
「ッ!?」
ルシフェルの声が、突然頭の中に聞こえてきた。しかし目を向けるが、話には参加しないとばかりに拗ねたような顔でそっぽを向いてしまっている。
「ヘカテーちゃんは、ラクスレルのすぐ近くにある小さな村で産まれたの。彼女の母親は、当時その村を支配下に置いていたヴァルゼ王国の王宮に仕える奴隷だった」
「ヴァルゼ王国……!?」
遥か昔、この大陸の西部にあったという有名な大国の名前だ。
確か典型的な侵略国家で、周囲の国に攻め込んではその国を支配下に治め、敗戦国の国民を尽く奴隷へと貶めていった国で、最後は奴隷たちの革命によって滅びたと習った憶えがある。
耳に入った言葉に反応し、反復し、反芻していた俺に、一拍置いたガダリアは坦々と話し始める。
「彼女の母親の名はメイア。メイアはヴァルゼ王権を倒すために敗戦国の国民を率いて第一次革命を起こした主導者だった。そしてそれこそがヘカテーちゃんの持つ忌まわしき能力『奴隷人形師』の正体なのよ」




