(28)『書き換え‐リライト』
ヘカテーに気づかれることなく森の中から突然姿を現した仮面の女性は、剣を抜くどころかその予備動作すら気取らせず、俺たちを――――主にヘカテーを見詰めていた。
「雑兵……?」
一兵卒とは思えないその佇まいに、訝しげな視線をその女性に返すヘカテー。
その足元はわずかに力が込められ、咄嗟のことにも対応できるように備えられている。
「さっきはああ言ったけれど、雑兵と言うよりは傭兵に近いわね」
「……つまり私の敵、ですよね」
スーッと目を細めて、女性の仮面に向かって鋭い殺気を放つヘカテー。今までとはまた違った、肌がぴりぴりと痺れるような緊迫した空気に包まれた中、
「――殺しはしません」
じゃらっ、と金属の擦れる音を残してヒュッと一陣の風が薙ぎ、一瞬の内にヘカテーの姿が仮面の女性の背後に移る。そしてその次の一瞬には、ヘカテーの手が女性の頸動脈を捉えていた。
――捉えて、いた。
「……ッ!?」
ヘカテーは驚いたように飛び退き、高く跳躍して俺の隣に飛び降りてくる。
「単純な高速駆動……。人の反応速度ギリギリだけれど、避けられてよかったわ」
一瞬の内にヘカテーの手から抜けた仮面の女性は、ふふっと笑みを溢すと腰に差していた長剣の柄に手をかけた。
「っ……!」
ヘカテーが焦ったように口の中で何かを叫んだ。その途端――――ざわっ。
大気が、揺れた。
「――理を逸脱した表裏一体――」
ヘカテーが、ヘカテーのモノではない声を放った瞬間、唐突に喪失感を覚えて咄嗟に後ろを振り返る。
(アリアとルーナがいない……っ)
「獣、少し離れてろ」
ヘカテーの姿をしたソイツは金色の瞳を隠すように目を閉じ、少し乱暴な口調でそう呟く。誰もいないように視える、背後の空間に向かって――。
「私が暴れると、巻き込むぞ」
そして再び瞼が開かれた時、赤い――紅い瞳が仮面の女性を捉えた。
(ルシフェル……!?)
その口元から笑みが消え、限りなく笑みに近い歪みへと変化する。その姿は胸元を中心に波紋が広がるように表面が波打ち、本来の姿へと切り替わっていく。
白銀色の髪は根元から髪先まで流れるように、瞳と同じ鮮血のような紅色に変わっていく。わずかに身長は小柄になり、その華奢な身体にまとわりつく金色の鎖がじゃらじゃらと音を立てる。
「どいてないと間違って殺しちゃうよ、アルヴァレイ=クリスティアース。ついうっかりお前だけ隠し忘れたけど、実際邪魔には違いないし♪」
「お前、それホントにうっかりか……?」
理を逸脱した表裏一体は、対象の全てを包み隠すルシフェルの多用する術式だ。
「“お前”ね。別に私は、お前の嫁になったつもりはないよ、アルヴァレイ=クリスティアース」
もちろん俺もそんなつもりはないし、そんなつもりで使ってない――。
「ッ!?」
――と思った途端、気が付くとルシフェルの手が俺の首に掛かっていた。
「何をっ……」
ルシフェルに強い力で引き寄せられる。至近距離まで顔を近づけるルシフェルの目には嫌悪の色が浮かんでいた。
「そこんとこを勘違いしないで欲しいんだよ。ヘカテーが殺さないでって言ってるから殺さないでおいてやってるんだよ? ヘカテーや他の妹たちみたいに私とも馴れ合えると思わないことだね――」
呼吸が、できない。
「――コロスゾ?」
ルシフェルの声が頭の中でガンガン響き、食い込む爪の痛みすら麻痺してわからなくなってくる。
「わかった?」
屈託のない微笑みを顔に貼り付け、無垢な声色で訊いてくるルシフェル。『ティーアの悪霊』ルシフェル=スティルロッテは最悪の意味で健在だった。
それを再確認した途端、ルシフェルの手から力が抜かれた。途端に首の痛みが甦り、酸欠の肺の中に急激に新鮮な空気が入ってきて噎せる。
「……げほっ! げほ……っ!」
「ま、大人しくしてるんだね♪」
ルシフェルに突き飛ばされ、木か何かに背中を強く打ちつけられる。
痛みに呻きつつ首に手をやると、ぬるっと生温い液体の感触が手の平にまとわりつく。
(っ痛ー……)
何だかんだルシフェルは手加減してくれていたから傷自体は大したことないけど、この血は後で2人にどう説明するか――――とこんな時にどうとでもなることを考えているのは頭を打ったからだろうか。
「今度の羊は何分何秒生き残れるかな~♪」
黒々とした殺気がその森の一画を支配し、対峙した2人を闘争へと駆り立てる。しかし、ルシフェルと仮面の女性の2人の間に互いの隙を狙って緊張が走る、なんてことはまったくなかった。
「あは♪ 右足と左足、どっちから切り落として欲しい? 腕からでもいいから、好きな方から選べ♪」
「私としては足からがいいわね。腕さえあればまだ戦えると思うわ」
「あはは♪ 無謀だね~夢望だね~。いいよいいよ、右と左、どっちからがいいかな? 私って優しいよね~。何でもかんでも選ばせてあげるなんてさすがだよね~」
理不尽な自画自賛で自己満足に浸りながら、女性を挑発し続けるルシフェル。
対して女性は、手にかけていた長剣をゆっくりと抜き放った。
(刃が……!?)
その剣には、刃がなかった。
ついさっきまで高揚していたルシフェルも、さすがにその拭い去れない違和感のある光景に思わず眉を顰める。しかし、すぐに理由に思い当たったというような得心の笑みを浮かべ、1人納得してくすくすと笑い始める。
「久しぶりに見たよ、光影剣。ってことは、お前……あはっ♪ 久しく姿を見なかったくせにこんなところで会うなんて思わなかったよ、ガダリア=ロード=ブラズッ!」
「あら? 私、貴女と会ったことなんてあったかしら?」
女性は素顔を隠していた仮面に手をかけると、それを取って足元の下草の上に放り投げ、目深に被っていたフードを背中側にストンと落とした。
茶色の長髪に、赤い瞳。凛とした表情の割にその目つきには、穏やかさと芯の強さを秘めた体現したかのような想いを表出しているようだった。
「ヘカテーちゃんには会ったことがあるけれど、貴女と会った憶えはないわよ?」
「私はルシフェル=スティルロッテ。ちょうど良かった、次会ったら――――殺そうと思ってた♪」
ルシフェルの目が、凶悪な眼光を帯びる。しかし、一般人なら震え上がりそうな殺気に満ちた視線にも動じない、ガダリアと呼ばれた女性は刃のない剣の柄を構えてルシフェルに楽しげな視線を送っている。
自分本位にとっては、間違いなく気に入らない部類に入る態度だろう。
「ヘカテーちゃんもちょっと危なっかしい子を招き入れてしまったようね」
「お前が余計なことをしたせいで今のヘカテーはあんなにも弱くなった。私がこんなヤツと一緒にいなきゃいけなくなったのもそのせいだ」
どうやら、このガダリアという女性はヘカテーの知り合いで、ルシフェルは直接会ったことはないものの、昔ヘカテーとガダリアの間にあったことを知っている、という構図のようだ。
「話はよくわからないけれど、とにかく貴女はヘカテーちゃんにあまりいい影響を与えそうにないわね、スティルロッテさん?」
そう言ってルシフェルに向けられたガダリアの手元が目映い光を放った――――かと思うとその光は手元から伸び、まるで見えない剣の刃を包み込むように変化していく。
「さぁ、始めましょうか」
光が消えると、ガダリアの手には、手頃な大きさで華美な装飾のない細身の両手剣が収まっていた。
「世界を司るは理――」
ルシフェルが動くより早く、ガダリアは何かの文言を呟き始めた。
「理を司るは知性――」
言葉を紡ぐにつれ、ガダリアの身体をともすると気付かないような光の膜が覆い始める。
ルシフェルは首を傾げて眉を顰め、威嚇するようにコキリと右手首を鳴らした。しかし、ガダリアは構わずその言葉を続ける。
「知性を司るは理性――」
瞬間――――ルシフェルの姿が文字通り、霞む。
ゴゥッ! と暴風が吹き荒れ、一瞬の交錯と共にぶちぶちっと嫌な音が響き渡った。
「ッ……理性を司るは恐れ――」
一瞬だけガダリアの声が途切れる――――と、次の瞬間、ぶしゃあああああああああッ!!!
激しい噴出音と共に突然、視界の中心から右方向に向かって赤い柱が出現した。そして同時に視界の左端から地面を抉りながら走りこんできたルシフェルが停止する。
「ごめん、こっちから抉っちゃった♪」
その左手には――――ガダリアの左腕。
一瞬の間にガダリアとの間合いを詰めて、すれ違いざまにその左腕を千切り取り、ガダリアの背後を円状に左回りに回って駆け戻り、元の場所で急停止したのだ。
左肩から鮮血を周囲に撒き散らしたガダリアは剣を取り落とし、その左肩を右手押さえて痛みを堪えるように俯く。どくどくと既に絶望的なくらい溢れ出している鮮血は、ガダリアの足元の地面に凶々しい血溜まりを作る。
(ル、ルシフェルのヤツ、本気で殺す気かっ……!?)
『当たり前じゃん♪ 殺気もさっき、ついさっき、私は殺すと言ったから』
やっぱりコイツ、人が死ぬことなんてこれっぽっちも何とも思ってない。
このままじゃ、ガダリアという名のこの女性、本気で死ぬぞ――――と思ったその時、目の前のルシフェルが不機嫌そうな顔でこっちを見ていることに気がついた。
「何の真似? アルヴァレイ=クリスティアース」
ルシフェルの言葉がまるで槍のように俺を貫き、その一瞬で俺の身体は強張った。足が微かに震え、広げる腕からも思わず力が抜けそうになる。
ガダリアを庇うように、俺はルシフェルと対峙していた。するつもりなんてなかったのに、まるで何かに突き動かされるかのようにガダリアを守っていた。
否、ルシフェルを止めていた。
「……もうやめろ、ルシフェル」
「やめておいた方がいいと思うけどね、アルヴァレイ=クリスティアース♪ お前は善人でも聖人じゃない。戦争中にまで他人の命を心配できるの~?」
――コイツ、あの時俺が思ってたことを視てたのか。
だけど、どうしてだろう。確かにそう思うし、今でもそう思っている。じゃあ、ついさっき何故ルシフェルを止めようと思ったのか。
「人なんて殺せば、ヘカテーがまた悲しむぞ」
「それはお前がヘカテーをわかってないだけだよ、アルヴァレイ=クリスティアース。ヘカテーは、人の命なんて、何とも、思ってない」
ルシフェルは、嘲笑うように、笑う。
「恐れを司るは影――」
その時、背後からガダリアの声が響いた。
ピクリ――とルシフェルの髪が揺れ、その目つきが急激に鋭く変わる。
「影を司るは闇――」
「その怪我でまだやる気か!? 無茶するな、バカっ」
思わず顔だけ振り向いて、少し強めに警告する。
しかし、左腕を失ったままのガダリアは少し青ざめた表情のまま、言葉を紡ぎ続ける。
「闇を崩すは真理――」
ピクリと再び髪が揺れ、ルシフェルは目を見開いた。
「どけ、アルヴァレイ=クリスティアース」
殺気が、変わった。
まるで、それまでの殺気などお遊びだったかのような膨大な殺意をガダリアに向けて発していた。
「お、おいルシフェル……」
「黙れ、お前は後回しだ」
最早危険すぎて、本能的に今のルシフェルに強く言うことは不可能だった。俺は肩に手をかけられ簡単に地面に転がされてしまう。
そしてルシフェルが、ガダリアに迫った。
「――無意識に潜む殺戮者――」
ルシフェルが何事か呟き、右手が赤紫色の魔力炎に包まれる。
そして今にもルシフェルの手でガダリアの身体が引き裂かれそうに思えた――――その時だった。
「――――“書き換え”」
ガダリアがそう言った途端、カチリと鍵が外れるような音が聞こえた。
それに伴うように突然ルシフェルの右手の魔力炎が掻き消え、身体がいくつもの立方体のパーツに分かれて組み変わり始めた。
そして唐突に、強烈な光と音に視界を遮られる。
当然のごとく許容量を超えた膨大な外部刺激に耐えられず意識が飛ぶのだが、完全に消失した感覚の中で――――何故かルシフェルが俺の名前を呼んだ気がした。




