(19)『発覚』(改稿済み)
「……ル……」
誰かが身体をゆすってくる。俺の聞き覚えのある声の気がする。でも、誰だっただろう。
「……なさい……ル」
眠い。なんだかとてつもなく眠い。身体が動いてくれようとしない。まるで、体重が数倍になったかのように重く感じる。
「今すぐ起きないと、下から最新作の下剤を持ってくるわよ」
「お、おはようございます。お母様」
起き抜けで、まだ寝ぼけてるような息子になんて恐ろしいことをする気なんだ、この母親は。おかげさまで眠気は吹っ飛んだけど、代わりに身体の震えが止まらない。
「早く起きて、店の準備手伝ってよ」
そんなことで、息子をトイレに引きこもらせるつもりだったのか……。
いつも父さんがいない時すら一人で全部片付けてるくせに。今日はどんな気まぐれだ?
母さんは言いたいことだけ言うと、ドアを開けてさっさと部屋の外に出た。
そこで突然違和感に気づいた。そして、その疑問をすぐに口に出す。
「母さん。シャルルは? 下にいるの?」
「今日は見てないわよ。そういえばどうしたのかしらねぇ」
あまり興味なさげな声でそう言うと、階段を下りていってしまった。
――明日も絶対に来ます――
シャルルの昨日の別れ際の言葉が脳裏にちらつく。朝来なかったことなんか今までにも何回かあっただろ。今回もたぶん都合が悪くなっただけさ。そもそも毎朝来るっていういつもの方がおかしいんだ。
「どうしたんだ……?」
妙に胸騒ぎがするというか、なんとなく嫌な予感がした。
いつもなら開け放されている窓。シャルルの出入り口の窓は――ぴったりと閉じられた昨晩のままだった。
お昼を過ぎて、俺が店の仕事から解放されても、シャルルは姿を現さなかった。
「体調でも……崩したのかな?」
悪い考えを振り払うように、そう口に出しては見たものの、やはり心配なことに変わりはなかった。
「……鍛錬やってれば、そのうちひょっこり顔出すよな」
壁に引っかけてある鉤爪と片手剣の入った袋を手に取り、部屋を出る。
そう言えば、前にシャルルが来てたのに気づかなかったことがあったっけ。
そんな淡い期待を覚えつつ、裏通りに通じている扉を開く。
「やっぱりいない、か」
扉を開いた目の前にも、近くの壁際にも、何処にもシャルルの姿は無かった。
「こんにちは……」
いつものように裏通りの一画で集まって世間話に興じる主婦たちに軽く声をかけると、俺は鍛練の準備を始める。
鉤爪を革のベルトで左手に固定し、短剣を静かに鞘から抜く。
そして準備運動もそこそこに戦技鍛練を始めたわけだが、普段通りの無心を保てない。集中できないのだ。
「ウチの人。昨日酒場に行くって家を出ていってからまだ帰ってきてないのよ? そのせいで今日は店を開けてないの。私は店のことは全然わからないのに……。まったくっ、今度はどこほっつき歩いてるのかしら」
「そうなの? 私のトコなんか酔って帰ってきてすぐにまた酒場に行っちゃったわ」
「あなたの旦那って女癖悪いんだってねぇ。やーね、男って」
近所の主婦たちの話。いつもなら気にせずに済むような話も、どうも耳に残ってしまう。シャルルがいないってだけで、こんなに心乱されるなんて。いるならいるで別の意味で心乱されることも多いけれど。
「そういえば知ってる?」
「何を?」
「ほら、黒き森の話……」
黒き森!?
短剣を低く構えた体勢のまま、身体の動きをピタリと止める。
今、確かに黒き森って言っていた。黒き森がなんだ? 黒き森がどうかしたのか?
主婦の二の句を待つわずかな時間で、消えかけていた嫌な予感とも言うべきものが、再びふつふつと膨らんでくる。
「聞いてないわよ……何か出たの?」
周りの主婦たちの声音が急激に下がる。当然だ。テオドールで出る黒き森の話なんて良かった試しは全くないのだから。
「あんまり憶えてないけど、あの森の飛獣に討伐令が出たらしいわ。エルクレスの王立騎士団から専門の討伐隊が出たそうよ」
ゾクンと背すじが凍りつくのを感じた。
心臓を握られているような痛みと共に、喉を絞められるような息苦しさに襲われる。心臓の鼓動も激しく高鳴り、立っているのもやっとだった。
「……それって大丈夫なの? もし『黒き森の魔女』を怒らせたらまずいんじゃ……」
「知らないわよっ。この街がとばっちり受けなきゃいいけど……」
周りから聞こえていた声が、していた音がだんだんと小さくなり、全てが遠ざかっていくような気がした。
あの森の飛獣に討伐令?
王立騎士団?
魔女?
シャルルは今日、来なかった。いや、来れなかった……?
「討伐隊はいつ出たんですか!?」
俺は思わず主婦たちに向かって叫んでいた。突然の大声にビクッとして、後ずさる主婦たち。しかしその時の俺はよほど普通じゃない様子に見えたのか、逡巡迷ってその内の一人、さっき討伐令の話をしていた主婦がおもむろに口を開いた。
「確か、今朝早くよ……」
今朝早くだって!?
「まさかシャルル……っくそっ!」
すぐにとって返し、通りから袋と鞘を拾い上げると、主婦たちを押し退けるように大通りに飛び出した。
珍しく人通りが少ないテオドールの街道を走る。テオドール北側通用門、黒き森に最も近い街の出入り口に向かって。
迷っている暇は無かった。
ただシャルルが心配だったのだ。
冷静さを取り戻してから立ち返れば、他にもいくらか手段はあっただろう。そんな余裕もなかったのだから、どれだけ慌てていたかは察してほしい。
「討伐令? 王立騎士団!? くそっ……なんでそんないきなりっ……」
王立騎士団は戦技や魔術に長け、実践経験も豊富なエリート集団。あんな奴らが出るなんて、高位の魔獣か魔物ぐらいだ。そんなのがたかが飛獣一匹のために出るなんてこれまで聞いたことが無い。
「ちょっと待てよ……?」
飛獣一匹?
たかが飛獣一匹のために出るなんてありえないとしたら……一匹じゃない……? 一匹じゃないとすれば――。
「アルペガか!」
三頭もいるんだ。
安全性と確実性のことを考えれば、王立騎士団が出てきてもおかしくはない。
シャルルが自分の家族が殺されそうになって何もしないわけがなく、アルペガを連れて逃げているか、何らかの抵抗をしているだろう。
――でも、なんで発覚した?
アルペガは一頭だけでも危険視されるような飛獣だ。
獰猛で肉食、罠にかからないほど警戒心が高く賢くて、巨体に似合わない機動性を誇る飛行能力を持っている。その毛皮は下級魔術・魔弾を弾き、なかなか物理剣刃を通さない。つまり一般人にどうにかできる代物じゃない。
それ故に一度でも目撃されれば、それは周りの町や村に通達が行き、そこの全住民に伝えられる。皆皆が護身用の魔術で身を固め、討伐完了の通達が来るまで絶対に単独行動をしない。シャルルの楽しそうな空気と異常続きによる感覚麻痺で気がつかなかったが、元来アルペガという飛獣はそれほどのものなのだ。
少し前まで、俺は黒き森にアルペガがいるという情報を知らなかった。つまり、今まで見つかっていなかったってことだ。エルクレスの王立騎士団が出たのなら複数、少なくとも二頭が目撃されたことになる。
なにか事件があったのだろう。特に人命に関わる事件が。
「走っていくには遠すぎるか……」
ただでさえ馬鹿みたいに広いテオド-ル。北側通用門までだけでも、十キロ以上距離がある。今から休まず走っても、門に着くのは日暮れ前だ。それでも走るしかなかった。できることがそれしかなかったからだ。
もちろん俺が行ったって何かが変わるわけじゃない。
討伐令を撤回させるだけの権限も、王立騎士団を退けるだけの力もない。もしシャルルに会えたって、戦うにしても逃げるにしても足手まといにしかならないだろう。
でも後のことをあれこれと考えるより、まずはシャルルの安否が知りたかった。シャルルは世間とのあらゆるつながりを絶っている。
その安否を確認するには、直接会うしか方法はないのだから、俺が今やれることはただ走ることだけだった――。




