(13)『紙縒の無茶』
アルヴァレイ一行が慌ただしくも何とか朝一番の船に乗り込んで、出航までのわずかな時間で一息ついていた頃――――。
少し遅れて、一組の男女――もとい少年少女がヴァニパル港の石畳の上を全速力で走っていた。
「早く早く、船出ちゃうでしょ! もっと急ぎなさいよ!」
「早く、ったってもう……!」
衣笠紙縒と狗坂康平だ。紙縒は先に立って、遅れて走っている康平を何度も何度も急かしている。
未来、というより時間軸上この世界より後に存在する三番目の世界――所謂第三世界で幾つかの運動部を兼部していた紙縒に比べ、康平は典型的な帰宅部だった。
その違いはこんな時に顕著に表れる。
「はぁ……はぁっ……はぁ……」
「何で少し走ったぐらいで息切れしてるのよッ!」
康平は既に、走っているというより何かに引き寄せられて歩くゾンビの挙動を少し早回しで見ているかのようになっていた。
このヴァニパルにある唯一の民営ギルド、『パラダイスミスト』。
紙縒と康平は、訳アリながら、そのギルドのメンバーだった。
彼女らを引き受けたそこのギルドマスターもどうやら過去に何かあったようで深くは追求されなかったが、本来紙縒と康平はこの世界に存在するはずのない人間。
第三世界に戻れなくなっているという状況だが、今現在の二人にとって一番の問題はそんなことじゃなかった。
「でも、あの船が危ないなんて言っても誰も信じないと思うけど!」
今朝早くギルドに突然舞い込んできた匿名者からの依頼で、今まさに出港しようとしている船の中でブラズヘルの残党が何かをしようとしている可能性が高いため、それを未然に阻止せよ、といった内容だった。
本来ならこの程度の、しかも胡散臭い情報で動いたりはしないのだが、その船には運悪くギルドの後援をしている商家の関係者が乗っていて、急遽警戒のために二人が(主に紙縒が)回されたのだ。
これまた運悪く偶然ギルドマスターに見つかったせいで。
ボォォォォォ――。
四度目の汽笛が鳴り響いた途端、紙縒の顔が青ざめる。
「もう船出ちゃうじゃない!」
「ごめん、紙縒……! 先に行って! もう……ダメ」
紙縒が振り返ると、康平は立ち止まって手を膝につき肩で息をしていた。
「もう……!」
紙縒は取って返すと、康平の腕を掴んで無理矢理引きずるように引っ張る。
「早く行かないと、乗れなくなっちゃうってば! 急いでッ!」
「ごめん紙縒……限界。先に――」
「私だけ先に行って、康平が追い付けるわけないでしょ! だからちゃんと魔法を勉強しておけばって言ったじゃない!」
「いや……僕が魔法を知ってから1ヶ月も経ってないんだけど」
「私でも3日でできるようになったんだから、康平だってできるわ。間違いなく」
「ちょっと待って、おかしいおかしい。僕より紙縒の方が何でも上手にやるのに、その言い方は絶対におかしい」
「細かいこと気にしてる暇があったら足動かしなさいよ!」
「はいはい、はぁ……」
紙縒は康平の手を掴んだまま走り出す。
そして二人の目の前に船着き場が見えた――――その瞬間だった。
ボォォォォォ――。
再び汽笛が鳴り響いた。
「あ」
康平が間の抜けた声をあげる。
船体の長さが50メートルほどの白い船が、徐々に桟橋を離れていく光景が映った。
「康平がモタモタしてるから間に合わなかったじゃない!」
「……ごめん」
「今ならまだ飛び乗れるから、走って!」
2人が船着き場の桟橋に着いた時には、船は15メートルほど前にいた。
飛び乗れる距離じゃないと判断した紙縒は、懐から取り出した紙の束から一枚引き抜き、康平の手に押しつけた。
「――『軟式』式動!」
「え、ちょっと待った、紙縒。それ確か衝撃を和らげる式紙術式――」
紙縒は突然慌て始める康平を無視して、その手に巨大なメイスを出現させる。
「康平、舌噛まないように気を付けて! それと少し痛いかもしれないけど我慢してね! 先にごめんって言っとくから!」
康平の悲鳴のような『ちょっと待った』を聞き流し、メイス先端の平たい面で康平の足を掬い上げる。
紙縒の用いる武器――重量980キロのメイス“鋼の枢機卿”にかけられた魔法は主に二つ。
ひとつは普段の生活の中でも携帯できるよう、存在を消しておける術式“隠遁の権能”。
もうひとつはメイスにかかる総重量に耐えうるよう、特定の使用者の能力を自動的に引き上げる術式“騎士任命権”。
「ちょっと待ったあぁぁぁぁっ」
「いっ……けぇぇぇぇ――――ッ!」
渡しておいた式紙のお陰でほとんどダメージが通らないのをいいことに、紙縒はメイスに引っかけた康平を船に向かって力任せに投げ飛ばした。
「わあああああぁぁぁぁぁぁ!」
大袈裟な悲鳴をあげて放物線を描いて飛んだ康平が、甲板に無防備に立っていた乗客に衝突し二人して引っくり返り、船縁の向こうに見えなくなる。
「やば……」
術式がある程度は康平の衝突の衝撃は和らげてくれるだろうが、ぶつかった乗客が甲板にぶつかる衝撃は対象外だ。
紙縒は慌てて紙の束からもう一枚紙を抜き出して、指に挟むと、
「『飛天式』式動、“方向指示前方20メートル”!」
空間移動術式『飛天式』はその効果の割に使い勝手が悪い。あらかじめ面倒な術式を組んで固定座標を設定してあれば比較的安全に使えるのだが、即席で位置指定をすると場所がズレたり、酷い乗り物酔いのような症状が出たりする。
失敗したら、面倒なことにもなりかねない魔法に康平を巻き込むわけにはいかずに投げ飛ばしてみたものの、いずれにせよ紙縒自身が船に乗るためにはその不安定な術式に頼るしかなかった――。
ドボーンッ。
――のだが盛大な水音に気がつくと、紙縒は海の中に落ちていた。
その目の前にゆっくりと進む船の白い船底が映る。空間転移自体は成功したのだ。
(身体が……重い……っ)
両手両足に金属の重りを付けられているような感覚に、咄嗟の判断で“鋼の枢機卿”を手放して、懸命に水を掻く。目指すのは船体後方側部に据え付けられた固定階段。桟橋から船に乗り込む時に使うため、海面すれすれに設けられているのだ。
「っぷは!」
潮の香り漂う新鮮な空気が肺を満たし、紙縒はひとまず深呼吸する。
そして階段を見ると――――階段の一番下の段に誰かが立っていた。
「あ、れ……ヘカテー……?」
紙縒にとって一度会ったことがあり、特別遺失物取扱課のデータベースでも2回ほど見たことのある『ラクスレルの人形師』ヘカテー=ユ・レヴァンスだった。
目を閉じ、何かを呟いているらしいヘカテーの足元には、大きく広がる薄緑色の魔法陣が――
「――絡め捕れ、“耽溺の蔓”!」
次の瞬間、ヘカテーの足元から巨大な蔓草が現れた。瞬く間に紙縒に向かって水平放射状に伸びたその太さ5センチ程の蔓草は紙縒の身体を執拗に絡めとり、海上に引き上げてしまう。
紙縒を抱え上げたその蔓草は「早く早く……!」と何故か焦った様子を見せるヘカテーの指示に従って海上を水平移動し、ヘカテーの立っている階段に紙縒を下ろした。その後、今度は海中に向かってしゅるしゅると伸びていく。その間、紙縒はポカーンとした表情を浮かべるのみだ。
「今のは……召喚?」
「あ、はい。魔の森の奥に棲んでるちょっと変わった植物です」
『魔の森デクィスト』とは、エルクレスの森から少し離れた場所にある密林だ。
「へ、へー……まぁ助けてくれてありがと。助かったわ」
「いえいえ、それより服ごめんなさい、紙縒さん」
「へ?」
紙縒が視線を下げると、着ていた綿と革の服のところどころに溶けたような穴が開いたあられもないと言える寸前の自分自身の姿がその目に入る。
「――――ッ!?」
声にならない悲鳴を上げる紙縒に、ヘカテーが「ごめんなさい」と頭を下げた。
「咄嗟のことで忘れてたんですけど、あの蔓草……“耽溺の蔓”は表面から衣服の繊維を溶かす蜜を出して養分として吸い取るんです。ちなみに、そのまま放っておくと全身のエサがなくなるまで続きます……」
気まずそうに視線を逸らしながらぽつりぽつりとそう言うヘカテーの様子で悪気はなかったことを悟った紙縒はため息混じりに、
「下手すると全裸に剥かれてたわけね……」
「あ、でも動物の皮だけは残りますから……」
「縫製の糸溶かされたらバラバラでしょ!?」
「そ、そうですよね……」
また頭を下げてしまうヘカテーに紙縒はもう一度ため息を吐くと、足元で海中に消えている蔓草の根元を睨みつける。が、すぐに植物を睨んでも意味がないと悟ったのか、「別にいいわよ」とヘカテーを宥めつつも、ずぶ濡れの上に穴だらけの自分の服を改めて見た。
「着替え、どうしよ……」
メイス以外はほとんど手ぶらで来ていた紙縒は、当然替えの服は持ってきていないのだ。
「あ、それじゃ私たちの部屋に行きましょう。部屋になら私の服も新品の下着もありますから、お詫びと言うわけではないですけど……マルタでのお礼と言うことで」
「ありがと。助かるわ。それよりさっき康平を投げ飛ばしたんだけど……」
甲板に上がる前に様子だけでも聞いておこうかと、紙縒はヘカテーの後ろについて階段を上がりながらそう訊ねる。するとヘカテーは少し納得したように微笑みを浮かべた。
「康平さんは大丈夫のようですけど、アルヴァレイさんは気を失ってます」
「あ、あれぶつかったのってアルだったの!?」
「はい♪」
ふふ、と少しおかしそうにしながらも上品に笑うヘカテー。
紙縒が内心で『老人や女子供じゃなくてよかった』と思ったのがなんとなくわかったからだったが。
甲板に上がると、アルヴァレイが船縁に横たえられ、その隣には紙縒が前に受けた依頼の依頼主でアルヴァレイの妹のヴィルアリアが様子を見ている。
「こっちです」
ヘカテーが甲板の下に続いている階段を指し示し、そのまま先に立って降りていく。紙縒は一度甲板の上で康平を探すように視線を泳がせたが、
「とりあえず着替えね……」
ギルドの任務のことを思い出して、船の中へ降りていった。