(11)『重なる唇』
翌朝――。
目が覚めると、全身が引き攣ったように痛かった。
というのも昨晩近くの店の裏手を借りて日課の鍛錬をこなした後、皆が寝静まった頃を見計らって部屋に戻ってくると、当然の如く部屋は内側から施錠されていて、仕方なく(というかそのぐらいは織り込み済みで施錠されているかを確認するために戻ってきたようなものだったのだが)廊下の扉の前でうつらうつらしていたのだ。
そして起きたのは、内側から扉を叩かれる音に気付いたからだった。
直後に部屋の中から聞こえてきたのは、
「扉の前に何かあるみたいですね。ヘカテーさん、どうしましょうか……?」
「窓から……は危ないですし、やっぱり私が破りますね」
ヴィルアリアとヘカテーのそんな会話だった。
「え゛……」
ちょっと待ったヘカテーさん。
窓から飛び降りる以上にそっちの思考が出てくることが危ないですが!?
「待った待った、今退くから!」
「あれ? この声、お兄ちゃん?」
俺が慌てて扉の前から退くと、きぃぃ……と様子を窺いながらといった感じに開いた扉の隙間から、白髪金眼の美少女、ヘカテーが顔を出した。
「アルヴァレイさん、そんなところで何をしてたんですか?」
「寝てた」
「こんなところでですか……?」
ヘカテーは扉と廊下の堅そうな木材を改めて眺め、不思議そうに首を傾げる。
「別に好き好んでここで寝てたわけじゃない。鍵掛かってたんだから仕方ないだろ」
「私もルーナちゃんも眠りは浅いですから、扉を叩いてくれれば起きましたよ?」
「起こすのも悪いだろ。俺は男だし、こんぐらいは別にいいんだよ。他の皆は?」
「今は起きたの私とアリアちゃんだけで――――わっ!?」
ヘカテーが急に驚いたような声を上げたかと思うと、その胸の下からヴィルアリアが顔を出した。
どうやら足元にしゃがんでるようだけど、どんなとこから――――と思った途端、さらにぴょこんと跳ねるように四つん這いになって部屋から出てきたヴィルアリアは急に顔を顰めた。
「お兄ちゃん、なんかちょっと臭うよ……?」
「ん? あぁ……昨日鍛錬の後そのままここ来たからちょっと汗臭いかもな」
試しに袖に鼻を近づけてみても、自分ではよくわからないみたいだな。普段から似たような臭いばかり嗅いでいれば鼻も慣れきっているだろうから、当然と言えば当然だが。
「もー、お兄ちゃんありえない。早く水浴びてきて!」
「おい、アリア。それが扉の前で寝ずの番をしてた兄への態度か」
「寝てたくせにそういうこと言わないの」
「ごめんなさい」
ヴィルアリアに追い出されて(部屋には入れてすらいないが)何処か水場がないかと宿屋の周りを探すと、宿屋の裏の倉庫の陰に小さな蛇口を見つけた。
人通りはほぼなさそうだったが、さすがに外で裸になるわけにもいかないと思って上だけ脱ぐと、持ってきていた綿布を水に浸して身体を拭く。
ていうか今までにも汗をかいた後で水浴びせずに一晩明かしたり、それどころか普通にヘカテーやルーナの近くで寝てたなんてこともあったけど、もしかしてヘカテーやルーナもアリアと同じことを思ってたんじゃないだろうか。2人の性格を考えると、気を遣って言わなかった可能性もありうる。
どちらかと言うとシャルルも気にしてない風だったような気がするし、異性への対処は圧倒的に経験不足だな。
その時、倉庫の角の向こうから、ヘカテーがひょいっと顔を出した。
「アルヴァレイさん、ここでしたか」
「どうしたんだ?」
さっき俺を見送ってたのに、わざわざ追いかけてくるなんて。
もしかしたらヴィルアリアが俺に渡すよう何かを持たせたのかもしれないと思ったが、倉庫の陰から歩み出たヘカテーはどう見ても手ぶらの様子だった。
「えっとですね……」
ヘカテーは視線を地面に落とし、一歩一歩確かめるようにゆっくりと歩み寄ってくると、わずかに頬を染めて、
「……少しだけ、お話があったんです」
「話?」
綿布を絞って水を抜きながら、俺はヘカテーに聞き返した。
するとヘカテーは徐にさらに一歩俺に近付いてきた。
「まだ臭うだろうから、あんまり近寄らない方がいいぞ」
「大丈夫ですよ。私は……アルヴァレイさんの匂い、好きですから」
ヘカテーのその言葉に、ドキッとする。
唾を呑んだその瞬間、ヘカテーは思わず反応が遅れるほど自然な動きでさらに身体を寄せてくると、俺の左胸に耳を当てるようにしながら抱き着いてきた。
「お、おい、ヘカテー」
「ちょっと冷たくて、でもあったかくて気持ちいいですね。……それにアルヴァレイさんがドキドキしてるの、わかります……」
そりゃ、いきなりくっつかれたら動揺しない方が異常だからな。
ヘカテーが心臓の鼓動に集中するように目を閉じると、何故かくすぐったさが増して、さらに心臓が高鳴り始めた。
「私、読心能力がなくなってから、アルヴァレイさんが何を考えているかわからなくてずっと不安でした……」
ヘカテーは一度深呼吸すると、俺に身体を寄せたままそう語り始めた。
「何かする度に、ううん……一緒にいるだけでいつも嫌われてるんじゃないかって思ってました――――だってそれは、まだ心が読めた頃に見たアルヴァレイさんの心は混乱と戸惑いとまだ弱かった私への好意……。どっちつかずでどっちとも取れない、私の言動とアルヴァレイさん次第で、どう転んでもおかしくないものだったから」
ヘカテーはゆっくりと目を開けると、言葉を継げない俺をその目で見上げ、しゅるっと着ていた服の右の肩紐を下ろした。
「ヘカテー、何を――」
俺が咄嗟にその動きを制しようとすると、ヘカテーはそれより早く左の肩紐も下ろしてしまい、支えをなくしたヘカテーの服は纏わりついた金の鎖の自重でその滑らかな肌を滑り、すとんっと足元に落ちてしまった。
「お、おいここ外だぞ!?」
上半身は一糸纏わぬ、下半身も下着のみというあられのない格好になってしまったヘカテーから目を逸らしてそう言うと、
「大丈夫ですよ。こんなところ誰も来ないですし、来たってこの陰は死角ですから」
にこにこと笑って見せるヘカテー。今は半ば密着しているからほとんど何も見えないが、半歩下がるだけで終わりだ。
その時だった。
「『アルヴァレイ=クリスティアース、私に口付けしてください』」
不自然に響く歪んだ声が、まるで囁かれているように聞こえてきた。
これは……!
身体が、別の意思を以て動き始める。
「それは卑怯だぞ……!」
「何が卑怯なんですか?」
ルシフェルを失っても残っているヘカテー自身の――本来の能力“奴隷人形師”。
ヘカテーが対象の名前を知ってさえいれば、誰だろうとその言葉に逆らうことはできず、誰しもその想いに応えないわけにもいかない絶対上位の呪われた力。
服を脱いでしまったということはつまり、普段その力を抑えている金の鎖を――封印を取り払ってしまったということなのだから、その力は解放されて当然だ。
俺の身体は俺の意思から分離され、身を寄せてくるヘカテーの肩に、背中に手を回して強く抱き寄せる。
視界のほとんどが上向きに俺の目を見つめてくるヘカテーに占められ、互いの上半身しか見えないせいか、まるで裸で抱き合っているような錯覚を覚えて心拍数がさらに跳ね上がった。
「心がわからなくても、こうすれば鼓動はわかります。アルヴァレイさんが少なからず、私にドキドキしてくれてる…………それだけでも私は満たされます」
ヘカテーの顔が――唇が段々と近づいてくる。いや、俺の身体が勝手に近付いていっているのだ。
「それにアルヴァレイさんの方が卑怯です。私はちゃんと気持ちを伝えました……それなのにアルヴァレイさんは返事をしてくれません」
「それは……」
ヘカテーが喋る度に吐息が首筋にかかり、さらに心臓の鼓動が早まる。
「これは、その罰です。やきもきしながら待ってる分…………このくらいは許してください」
そして、最後の一押しはヘカテーの背伸びで詰められ――――唇が重なった。
その切なげな表情を見ていられなくて思わず目を閉じると、その唇が微かに震えているのがわかる。
これは、反則だ。
手段もそうだが、こんな風に強引に迫られればどうしてもそういう感情が揺れ動き始める。最近になって特に顕著だが、昔からそういう性質なのだ。
「……っ……」
ヘカテーの方から離れようと引いた唇が、再び重なる。
自分の意思か、それともヘカテーの能力に従ったものなのかすら今の俺にはよくわからなかった。
そして、おそるおそる開けた目の前で顔を真っ赤にしているヘカテーに気付いた時、おそらく普通より長く感じていただろう時間は終わってようやくその唇が離れた。
ヘカテーはくたっと脱力していて、今その俺が手を離したらそのまま後ろに転んでしまいそうなぐらいに疲弊している様子だった。俺もさっき拭ったばかりなのに、全身から汗が噴き出している。
「お前……自分からやっといてそんなになることないだろ……」
一息吐きながら、ヘカテーをゆっくりと座らせると、ヘカテーは少し照れたように「ごめんなさい」と呟いて、足元の石畳に落ちていた服と鎖を無造作に掴んで引き寄せた。
見るな、俺。
「――アルヴァレイさんは、私のこと嫌いですか……?」
立ち上がって視線を別の方向に逸らす俺の足元で、ヘカテーはもぞもぞと服を着直しつつ少し躊躇いがちにそんなことを言い始める。
「好きか嫌いか、恋愛感情じゃなくてもいいです。どっち……ですか?」
ヘカテーには、もう心を読む力はない。
今、その場しのぎの言葉を並び立てたとしても、ヘカテーはそれを信じるだろう。それを信じるしかないのだから、ヘカテーならそれを信じる――――信じてくれる。
元々、読心能力というもの自体がかなり卑怯な能力ではある。それがなくなったというのは、ある種ようやく公平な立場になったということだ。しかしそれでも、ヘカテーが有利なことに変わりはない。彼女にはまだ『奴隷人形師』がある。金の鎖をまた手放せば、俺の本心を聞くなんて容易いことなのだ。けれどヘカテーは今それをしない。
最初こそその呪いに頼りはしたが、彼女は『許してください』と言った。つまり、それが卑怯であることはわかっているからこそ、今は正々堂々と俺の意志に任せているのだ。
だからこそ、俺はここで本心を偽るのは逆に卑怯な気がした。
「――――好きか嫌いかで言えば、勿論、いや、多分好きなんだと思う」
それはシャルルに対してはあまり抱かなかった感情だ。だけどそれが何なのかはわからなかった。
単純にヘカテーという女の子に対する恋なのか、それとも身近な魅力的な女性に対する性的な欲求なのか、それともヘカテーですら無意識の『奴隷人形師』による命令なのか。
最後のひとつはまったく確証なんてないのだが、俺がヘカテーに対して感じているこの感情が何なのか、やはり前者の二つの区別が付けられなかった。
ここ最近、彼女に対しては色々な感情を覚えてきたのだ。
それは同情であったり憐憫であったり信頼であったり嫉妬であったり愛情であったり欲情であったり。もう言葉で表せる気がしないものまで。
「経験がないからかも。でも、ヘカテーには今までに覚えたことのない感情を持ってることは確かだ」
――それが何かがわからなくても――
「でも今は、このままがいいんだ。ヘカテーや皆と過ごしてるこの時間に、時々シャルルを探してることすら忘れてる自分がいるから」
臆病なだけかもしれない。臆病ゆえに、良いものかも悪いものかもわからないその感情に身を任せる気にはなれなかったのかもしれない。
「シャルルを見つけるまでは、このままじゃないといけない。ルーナはそれがわかってるから、たぶん必要以上に自分を隠してるんだ。本当は、シャルルは俺1人で探すべきだったんだ」
それにも気付いていた。
シャルルと一緒にいた時の彼女は、獣と人の姿の違いはあれどもう少し生き生きとしていた。シャルルによく甘えていた。その態度は俺に対しても見せてくれていたのに。
今の彼女は、あまり人に甘えようとしていない。しっかりしている姿を見せて、俺がシャルルのことを忘れないように俺に近付き過ぎないようにしている。そんな気がするのだ。
それが最善だったとしても、今さらもうどうにもできない。
もう自分には仲間がいる。それを拒絶する気にはなれない。離れたくないと願う自分がいるから。
「だから……」
「もういいですよ」
ヘカテーが言葉を遮った。
「わかりました。アルヴァレイさんがそう思ってるってわかれば私はとりあえず満足です。私が不安だったのは、アルヴァレイさんが私を嫌ってて、でも私に気を遣って返事を誤魔化そうとしてるんじゃないかということですから。アルヴァレイさんにとって、私が気を遣わなくてもいいぐらいには親しい存在になれてるなら、私はそれだけでも嬉しいんですから」
ヘカテーはそう言って、微笑んだ。
それを見た俺は何となく、ヘカテーが何かを言わなかったような気がした。何か伝えたかったことを、あえて伝えないように言葉を切ったような気がした。
ただ、それがあまりよくないことだということも何となくわかった。
鎖を手にぶら下げて、少し迷ったような表情で宿屋の方に視線を遣ったヘカテーは、
「アルヴァレイさん、アリアちゃんから伝言がありました」
倉庫の角、奥まったこの場所の入り口で振り返ってそう言った。
「伝言?」
「はい、リィラさんと鬼塚さんを探してきて、って」
そう言ったヘカテーはふっと微笑みを浮かべると、じゃらじゃらと鎖の擦れる音を奏でながら、ぱたぱたと宿屋の方に駆け足で戻っていった。