(8)『久遠は助けられた』
最新話は2つ同時更新したので、前話が最新話です。気をつけてくださいヽ(--;
「――ッ! …………ッ!」
薄暗い路地の奥で、声にならない少女の声が掠れて消える。
その少女に馬乗りになった船乗りの出で立ちをした男が、じたばたと暴れる少女の口を押さえているせいで、空しく響くことすらなく人知れず消えていっているのだ。
「大人しくしやがれっ、暴れなきゃ痛い目にも遭わずにすぐ終わるからよっ」
息を荒らげた男がさっきまで少女に見せていた粗暴ながらも親切な態度とは打って変わった獣の目で、もがいて抵抗する少女の肢体を舐めるように見回す。
「少し若過ぎるのは大目に見てやるよッ」
愉しげに笑った男は、状況が理解できないというような表情でただ恐怖に従って両手を振り続ける少女の着物の襟に手をかけ、力任せに引き剥がす――。
「何様だよ、おっさん」
――寸前で背後からの声に振り返った。そしてその視界に黒い革靴の外底が映る。
ゴッ……!
強かな衝撃が男の顔面に打ち込まれ、脳が激しく揺さぶられた。
「がっ、ぁ゛ッ……!?」
濁った音が男の喉から漏れ、軽々と宙に浮いた男は吹っ飛ばされて反対側の石壁に受け身もなしに叩き付けられた。
「ったく……」
男を蹴り飛ばした俺は、取り敢えず目の前で呆然としている着物の女の子に手を差し出す――――が、女の子はビクッと震えて、身を竦めた。
まぁ、無理もないだろうな。
まずは男の方を何とかするか、と仕方なく五メートル程先の路地の奥の壁の手前で、痛みに呻いている男を注視する。
ぼたぼたとその顔面から流れ落ちる血。
蹴り抜いてやった鼻は折れているだろうから、鼻血だろう。
加えて、壁にぶつかった時に額を擦ったのか、擦過傷が出来て血が滲んでいた。
「女には優しくしろよな。……って、優しくしようが褒められたもんじゃないか」
「デッ、メ゛ェ゛ッ……!」
「濁音増えてんな……」
流石にキレたか。
随分と体格がいいから単純に戦るだけじゃ厳しいか、とついさっき男に蹴りを入れる前に肩にかけた袋から出しておいた腰の短剣に手を伸ばす。
「俺を筋肉だけの馬鹿だと思ったら大間違いだぞ、クソガキッ!」
「あ、おい、止めとけって。いや、もう遅いかもしれないけど」
「命乞いで済むと思うなよ、小僧ッ!」
片膝を立てた体勢から脚のバネを使って跳ねるように俺に掴みかかってくる男――――しかし次の瞬間、突然何かが頭上から降ってきて、ズンッと地響きを轟かせた。
「ふははははぁッ、素晴らしき言葉が聞こえたのはここで間違いあるまいな!」
男の口走った“筋肉”という単語に反応して、超筋肉生命体『鬼塚』、襲来。
その身長は突然落下してきた鬼塚に怯んでいる男を軽く凌駕した198センチの大台だ。その上、全身に文字通り鋼のような筋肉を備えているせいか、その巨体が周囲に与える威圧感と圧迫感はただの長身で済まされる限度をとうに超えている。
「な、何だテメェは……!」
自分より巨大な生物に奇しくも袋小路に追い込まれた男は、やや後退り気味にそう怒鳴った。が、しかし既にその戦意はほぼ失われ、さっきまでの気迫も希薄になっていた。
「鬼塚。ソイツ、世界中の筋肉滅亡を目論む悪の組織の幹部」
「ほう? 貴様、それが何を意味するかわかっているんだろうな?」
説明が面倒になって鬼塚がやる気になりそうな嘘を並べてみると、その巨体が発する威圧感が急激に増し、同時に男が困惑の表情を浮かべた。
「な、何のことだ!?」
「そういうことだ、筋肉破滅主義者よ!」
さすが、鬼塚。
筋肉関係となると論理を超越して納得するなんて、色々な意味で他の連中には真似できない。
ゴキゴキと鬼塚の筋肉の緊張が高まり、そして全身から発する湯気で周囲の空間が歪んでいるような錯覚を覚える。
「鬼塚、一応言ってみるけど、殺すなよ」
「当然だ。我が魂、もとい筋肉は人を殺すために在るわけではない! 弱きを鍛え、強きを鍛え、救われぬ者を鍛え、迷える人々を鍛え、助けを求める者を鍛えるために――」
「お前は鍛えることしか頭にないのか」
「無論だ!」
この場合、『論ずるまでも無く自明の理』ではなく、『論じたく無いことが自明の理』が正しいと思うのは俺だけか。
「前口上はいいけど、その男逃がすなよ」
「当然だ。我が魂、もとい筋肉は人を逃がすために在るわけでは――」
似たような口上を繰り返し始めたところで鬼塚を無視することに決めた俺は、さっきの着物の女の子の方に振り返る。女の子はまだ状況がよく掴めていないのか、少し離れたところで呆然としていた。
歳はまだ16か17といったところだろう。黒髪黒眼の大人しい雰囲気を纏っていて、しかし何処かあどけない気品を感じさせる整った顔立ちだった。
「鬼塚流鉄破拳ッ!」
背後から恐ろしい打撃音と濁った悲鳴が聞こえてくるが、鬼塚の本体同様気にしないことにしよう。
ちなみに鬼塚は、時折思い出したように攻撃技の命名をしているが、特別流派があるわけでもなければ体系付けされているわけでもない。同じ正拳突きでも覚えている限り、“鬼塚流破砕拳”、“鬼塚流極拳破”、“鬼塚流どぅぅるあぁぁぁぁ”、“鬼塚流うらららららかなぁ”等々計10種類ほど確認している。
最早ただの雄叫びと化しているものが相当数あることだし。
「俺はアルヴァレイ=クリスティアース。一応、途中から見てたから状況は把握できてるけど、一応聞いておく。アイツに何かされたか?」
女の子は戸惑うような表情を浮かべたが、俺の質問の主旨を理解したのかふるふると首を横に振った。
とりあえず、多少は冷静な判断能力を取り戻したみたいだな。状況を察するに抜けてるところはあるみたいだけど、根はかなり賢い子なのだろう。
「立てるか?」
俺がそう訊ねると女の子は一瞬俯き、少し困ったような顔でもう一度首を横に振った。
「悪いけど少し身体に触れさせてもらうよ」
そう言うと、俺は敢えて女の子が返答をする前に膝の上の手を取った。女の子は一瞬だけピクッと震えたが、すぐに力強く握り返してくる。少し握り返してくる力に加減が出来ていないような感じだったが、さっきの今でこの程度にまで回復しているのならもう大丈夫だろう。
「それじゃ、行こうか。とりあえずここから離れた方がいいだろうし」
女の子の肩と膝の裏に腕を回して横抱きする姿勢を作ってから間を置いて少し様子を見ると、女の子は身を縮こまらせたものの拒否する素振りはまったく見せなかったから、そのまま彼女を抱え上げる。
「あれ……?」
ピクッ。
思わず声を上げると、女の子が怯えたか驚いたか微かに震えた。
「あ、いや、ごめん。何でもないから」
人ってこんなに軽かったっけ……? なんてことを考えながらも、俺は女の子を抱えたまま路地の入り口の方に向かって歩き始めた――――。
とりあえずこのまま放っておくわけにも行かないだろうとリィラとヘカテーを呼んでみると、
「ふん、コイツが今日の下衆か」
鬼塚に首根っこ掴まれてぶらぶらと揺られて伸びている男を睨みつけてリィラがそう言った。
「今日のとか言わないで下さい。恒例にされても困ります」
「確か警邏隊の詰め所がすぐそこにあっただろう。その肉をとっとと捨てて来い、鬼塚」
相変わらず俺の声だけ聞こえてないんじゃないかと思うくらいの無視っぷりだな。
鬼塚が「ふはは、この俺に任せておくがいい」と言って男を引きずり始めると、ヘカテーが「私、鬼塚さんに付き添ってきますね」とその後を追いかけていく。
忘れる可能性を考えると妥当なところだろう。
鬼塚とヘカテーが男を連行していくと、リィラは路地に置かれた木箱の上に腰掛けて身を強張らせている女の子の方に振り返る。
「ん? 肌の割に珍しい色だな」
「あぁ、目と髪の色ですね」
黒髪黒眼は魔族の形質。その場合、肌の色は全体的に浅黒い傾向にある。神族のような白色の肌色で黒髪黒眼というのは、それこそ染めてでもいない限りそうそう見ることはないのだ。
「まぁいい。例外なら私の周りにもいくらでもいるからな」
「俺にとってはリィラさんも例外の一人ですけどね」
俺の呟きが聞こえていたのかいないのか、リィラは俺の言葉を軽く流して女の子に歩み寄ると、顔を上げた女の子に手を差し出した。
「リィラ=テイルスティングだ。名乗れ」
相変わらず無茶苦茶な自己紹介をする。
女の子は躊躇いがちにおずおずと手を差し出すと、
「ひ、火喰鳥……久遠、です……」
リィラの手を取って、途切れ途切れの口調で震えるようにそう言った。
「ヒクイドリ、クオン……?」
リィラが反芻して首を傾げ、そして俺の方に振り返ってきた。
その口元が微妙に引き攣っているところを見ると、女の子の名前の聞き慣れない響きに、どうやら俺と同じく嫌な予感を覚えたのだろう。
「文字は書けるか。名前は何と書く」
リィラが何処からか取り出した木炭片を女の子に手渡しながらそういうと、女の子は壁に『火喰鳥久遠』と木炭で書き付け、何処か不安げな表情でこっちを振り返る。
ちなみに俺とリィラはその時、同時にこめかみを押さえていた。
仕方なく俺も女の子――久遠の座る木箱に歩み寄り、
「失礼を承知で訊いてもいいか?」
久遠は無言で頷いた。
「もしかして、神族でも、魔族でも、人間でもなかったりするか?」
「どう、して……わ、わかる……ん、です……かっ?」
俺とリィラは口元を引き攣らせてこめかみを押さえる。
「聞きなじみの無い響きだったり、こういう文字で名前を書いたりしてる知り合いが大抵、人以外の何かなんだよ……。またこれか……」
「思えば薬師寺丸薬袋もそうだったか」
鬼塚は言わずもがなの筋肉だし、紙縒や康平もよくわからないことばかり話していた。ここに久遠という新しい例が出たところを見ると、やはりあの2人も人じゃない可能性もある。
くぅぅっ。
突然、聞き漏らしそうなほど小さな音が耳に届いた。その途端、久遠が赤面してお腹を押さえた。
「何だ、お前。腹が減ってるのか?」
リィラが何の躊躇いもなくそう訊ねると、久遠は首を横に振りかけて一瞬硬直し、その後観念したように俯き気味のまま、小さくこくりと頷いた。
「おい、アルヴァレイ。飯だ」
「リィラさん、もう少し女らしくしたらどうですか……?」
「騎士らしくあればいいだろう。元より戦闘職種だ」
いや、騎士らしくもないんだが――――というツッコミは諦め、久遠に
「久遠、俺たちも今からご飯食べるつもりだったけど、一緒に来る?」
「金のことなら気にするな。どうせ今日の払いは全部コイツ持ちだ」
と俺を指差すリィラ。
「ちょっと待て」
「何だ、アルヴァレイ。不服なら斬るぞ」
何処の暴君だ。
リィラは腰の長剣の柄に手をかけ、仲間に対して向けるものじゃない威嚇の目でこっちを見てくる。
「……はぁ、もうそれでいいですが飲酒なら自分の金でやってくださいよ」
「そこまで貴様に負担をかけるつもりはない」
「アンタと鬼塚の食費だけで相当ですけどね!?」
放っておけば無尽蔵に飲み食いできるんじゃないかと思うくらい、リィラと鬼塚は食べる量が多い。
それが人間離れした身体能力の代償だというのならまだ納得もできるが、二、三日殆ど食べられなかった時でもそれほど戦闘能力は変わらなかったことがあるため(逆に空腹に因る苛立ちが火事場の力を引き出していた可能性は否めないが)、それほど関係はないのだろうと結論付けている。
「どうする、久遠?」
確かめるようにそう訊くと、久遠は迷った表情を見せつつも人差し指を立てた片手を示してきた。
「……?」
「あ、の……私、おと、うとが……いる、ので……」
「ならその弟も連れてこればいいだけの話だろう。何処にいる」
リィラの押しの強さも、たまには役に立つことがあるという一例だった。