(1)『壊れた平穏』
ミッテ連邦共和国、ミリア皇国、ウェレヘパス共和国に跨がり、“奇跡の神聖森域”の異名を持つ大樹海――――霧の森。
その深奥にあるのは誰もその名を知らない隠れ里――否、隠し里。そこには火喰鳥という一族が暮らしていた。
「……?」
辺りに不穏な気配が漂っているのを感じた火喰鳥家次女、火喰鳥依凪は小脇に抱えていた小さな洗濯籠を足下に下ろし、着物の裾に手を入れる。護身用にいつも持っている小刀をいつでも抜けるようにするためだ。
「依凪……姉さん……」
急に背後から声をかけられた依凪が咄嗟に振り返ると、四女の火喰鳥久遠が障子の陰に隠れて、おどおどしながら様子を窺っていた。
依凪は一瞬警戒を抜く。
「どうしたの、久遠」
依凪が一歩近づくと、久遠はぴくっと震えて後ずさった。
そして、また顔を半分覗かせると、
「誰か、いる……隠れてる……」
「うん。隠れてるね。久遠」
依凪のからかい調の返しに、久遠はふるふると首を振って否定する。
「違う……私の他にも」
「わかってるよ。多分またアイツだと思うけど、久遠は危ないかもしれないから下がってて」
「う、ん……」
久遠は障子をピシャッと閉めると、以降は黙り込んだ。
「さてと、一番近い気配は――」
依凪は左目をスッと閉じた。呼吸を整え、空気の流れや音、気配に意識を集中する。
そして一拍――――周囲が時を止めたかのような静寂に包まれた時、依凪は首を横に傾けた。
瞬間、ヒュンッと空気が切り裂かれる音がして、依凪の首筋を掠めるように矢が通過していく。
「また、みたいね」
刹那、走るというより飛ぶような流麗な動きで矢の放たれた方へ駆ける。
そして依凪は、その第二射の矢を番えようとしていた射手の前に立ちはだかった。
「狂牙! また倉庫から弓を持ち出したのねッ! 危ないからやめなさいっていつも言ってるでしょ!」
叱られてびくっと身を竦めた銀髪の少年は、火喰鳥家十二男、末弟の火喰鳥狂牙。
「どうせ全部避けるくせに何だよ!」
「私が避けられるかどうかは関係ない! ただ単に危ないから言ってんのよッ」
「大丈夫、こんなことできるの、依凪姉にだけだから。他は普通だから、当たったら死んじゃう」
「あたしも当たったら死ぬわよ、あたしは何よ、化け物か」
「たぶん違うけどかなり近――いってぇッ! 拳骨で殴ったな!」
「そんなに暇なら山菜でも採ってきなさい。お昼ご飯に使うから」
「嫌だよ。何で俺が――」
ヒュッ。
一閃横薙ぎに振るった依凪の腕が、瞬く間に狂牙の手から弓矢を奪い取り――バキンッ。
圧し折った。
「行かせていただきます!」
即座に態度を変えた狂牙が尋常じゃない速さで里の周りに広がる霧の森へ消えていく。
そんな一連の騒動を障子の陰から遠巻きに眺めていた久遠は、障子を閉じて1人ため息を吐いた。
「依凪、姉さん……いいな……。簡単に人と話せて……」
同じ家族相手に簡単にも何もないのだが、火喰鳥で類を見ないほど他者との関わり合いが苦手な久遠にとってはそれを意識する以前の問題だったりもする。
色々と考えすぎて頭から湯気が立ち始めた久遠の後ろに、気配を完全に殺して忍び寄る影が1人いた。
ふらふらと探すように、両手を久遠の腰に――――伸ばす。
「ひゃぅ……!?」
久遠は急に腰に抱きつかれ、驚いて跳ねた拍子に躓いて、畳の上に倒れ込んだ。
「な、なに……?」
身体を起こして見ると、頭から小さな羽根のようなものが生えた小さな童女が腰に抱きついていた。
「鏡己、ちゃん……?」
火喰鳥家の二十女火喰鳥鏡己は人懐っこく寂しがりやだが、何故だか他者との関わりを避けているはずの久遠に懐いている。
「久遠おねえちゃん」
「心臓に悪い……から、鏡己……ちゃん、おど、おどかさないで……」
「雅ちゃんみてない? かくれんぼしてたらどっかいっちゃったの」
雅というのは火喰鳥家二十一女、末妹の火喰鳥雅のことだ。
「見て、ないわ……。いない、の……?」
「うん、いまさがしてるの」
「私も、探した方、が……いい、よね……? お姉ちゃん、だから……」
「てつだってくれるの!? ありがとう、久遠おねえちゃん!」
鏡己は嬉しそうに笑うと、部屋の奥の障子を開けて、
「いつもへんなしゃべりかたとかおもっててごめんなさい!」
「そ、それ……は、お姉ちゃんと、してはすご、く……衝撃、なんだけど……」
話を聞く気もない様子で飛び出していった鏡己に久遠はがくんっと肩を落とした。
そしてそっと障子を開けてとぼとぼと覚束ない足取りで縁側に出ると、きょろきょろと人がいないかを確認し、
「庭は、探した……のかな……?」
草履を履いて、庭に出る。
そして洗濯物干しを再開していた依凪に歩み寄った。
「久遠、どうしたの? あなたが外に出るなんて珍しいわね」
「依凪、姉さん……雅、ちゃんが……いないらしいの……」
「雅が? どうしたの?」
「かくれ、んぼの……途中で、いなく……なっちゃった、らしくて……」
「わかった。私も探してみる。久遠は北側の庭を探して。2人じゃちょっと不安かな。そうね、秧鶏姉さんと聖火にも探して貰うわ」
「わかっ、た……」
依凪がスッと目を閉じると、久遠も同じように目を閉じ、背中の肩甲骨辺りに意識を集中する。
ばさぁ、と背中の翼が――――開いた。
久遠の背中にあるのはカラスのような黒い翼、依凪の背中にも茶色と黒の二色の翼が生えている。
その時突風が吹いて、依凪の身体が上空へと舞い上がる。
久遠も後に続き、屋敷の東西南北に広がる霧の森の上空で解散した。
背中の黒翼を力強く羽搏かせて、高速で空を翔る。
久遠は広大な森の上を飛び回り、動くモノを見つける度に急降下して森に下り、辺りを探し回った。
不意に不穏な気配を感じた久遠が空を見上げると、北の方から黒い影が飛んできた。
流れ星を黒く塗りつぶしたような塊。
この世とあの世を渡ると言われる渡り鴉の怪異だ。
久遠はすぐに背中の翼を広げ、意を決してその影の前に飛び出した。
「雅、ちゃんを……見て、いません、か……?」
全体が刺々しく、この世の全てと戦っているような暗闇の化身は即座に急停止し、鳥のような輪郭を持つ姿に変化すると、
「火喰鳥の小娘、この黄泉烏を滅多なことで呼び止めるものではないよ」
嘲笑うような笑みと憐れむような目、蔑むような声で言った。
異形の一族である火喰鳥家には33人の子供がいるがそのほとんどが養子であり、火喰鳥家としての血が通っているのは、22歳の長女・秧鶏、20歳の次女・依凪、19歳の三女・聖火、18歳の双子の四女・久遠と五女・嵐華、20歳の長男・轆轤だけだった。
火喰鳥家には先代当主にして上の6人の父親火喰鳥終夜が亡くなってから、当主がいない。現在、火喰鳥の名字を背負うにふさわしい者がいないからだ。そのため先代と懇意だった黄泉烏が里を庇護下に置き、後見人になっているのだった。
第一声を拒絶とも言える言葉で返された久遠が、密かに他者不信を助長させる深手を負って泣きそうになっていたところを見た黄泉烏は嘆息するように呻いた。そして口の端をつり上げて静かに笑うと、真下に広がる森に目を遣った。
「雅のことは見てないね」
「雅、ちゃんの、こと“は”……って?」
「この森に何かが入った。妾はそれを確認しに来たのさ」
「何か、って……人間、です……か? この辺りに……人は森の南、にしか……住んで、ないのに……」
さらにその集落に住む者たちはこの森を神聖視して畏れている。
立入禁止区域に指定されていなかったとしても、容易に立ち入っていい場所で無いことぐらいはわきまえているはずだった。
「物見の怪異たる妾とて見るまでは何とも言えないさ」
「つまり……わから、ないって……こと、ですか……?」
「面倒な喋り方だねぇ。もっとはっきりと話せないのかい?」
「ご、ごめな……ごめん、なさ……」
久遠が身を竦めている間に、「もう行くよ」と言い残した黄泉烏は流れるように久遠を避け、再び南へ向かって飛んでいった。
1人になると途端に久遠は顔を真っ赤にしてもじもじとし始める。
(話せた……普通に……)
「くーちゃ~ん!」
その時、久遠を呼ぶ叫び声が聞こえた。
久遠が振り返ると、屋敷の方から久遠にとっては双子の妹に当たる五女、嵐華が飛んでくるのが見えた。
「くーちゃん! 雅いた!」
「ホントっ!?」
「うん! くーちゃんもおっきな声出せたんだね! 途中で切れなかったくーちゃんの声初めて聞いた気がする!」
「あれ……喜ぶと、ところが、ズレてる」
「うん。ズレてる。わーい」
「あれ……喜ぶとこ、ろが……また、ズレてる……。何、で……?」
ひとしきりからかわれた後、久遠は嵐華と2人並んで屋敷に向かって飛ぶ。
「雅、ちゃん……何処、にいたの……?」
「ヒ・ミ・ツ」
屋敷に到着すると、久遠は何処か面白がるようににやにやする嵐華に雅のところに案内された。
「縁の下……?」
雅は縁の下で眠りこけていた。
しかも久遠が庭に出た縁側のすぐ近く。
「あらあら。隠れたはいいけど、誰にも見つからなかったから眠っちゃったのね」
聖火が物腰柔らかな口調でそう言うと、声が聞こえているのかピクンと雅の頭の犬耳が揺れた。途端、周りから微笑ましげな笑いが溢れる。
平和な光景に心を和ませていた。
楽しく過ごしていた。
皆と、家族と。
あの時までは。
あの時。
あの朝。
――――火喰鳥の里は壊滅した。
優しかった秧鶏姉さんも、強かった依凪姉さんも。
轆轤兄さんも聖火姉さんも、嵐華ちゃんも鏡己ちゃんも、雅ちゃんも狂牙くんも――――みんないなくなってしまった。
何処かに消えてしまった。
あの男が来なければ――――来なければ壊れなかったはずなのに。