番外編Ⅲ-②
馬車の窓を開けると、潮の香りが鼻をくすぐった。
波の音に耳を澄ませれば、ひとすじの風が頬を撫で、髪の先をやわらかく揺らす。
ストラッツェ公爵領の、海辺の町──。
リオネルと二人きりの婚前旅行。何度も話し合っては先延ばしになっていた計画が、今日ようやく現実となった。
馬車に荷を預けたまま、私たちは手を取り合い、市場へと向かった。
今夜は、人目を気にせず二人で食卓を囲むことに決めていた。
「見ろよ、ベル。あの魚、身がプリプリして美味しそうだ」
「本当ね。王都では、これほど新鮮な魚介類は見たことがないわ」
活気あふれる市場は、屋台から漂う香ばしい匂いと、呼び込みの声と、遠く響く波音が入り交じっていた。
私たちは気になった屋台から順番に見て回っていた。
ふと隣を歩くリオネルを見上げれば、海風に吹かれて金色の髪が揺れていた。光を受けた髪がきらめくたび、通りのあちこちから好奇の視線が向けられる。とくに女性たちの視線は、ためらいがなく熱を帯びていた。
「きゃっ、見て! あの人、すごくかっこよくない……?」
「ねぇ、旅の方? この辺りは初めて?」
人通りが多い場所に足を踏み入れると、リオネルはあっという間に地元の若者たちに取り囲まれた。女の子たちは頬を染め、男の子たちも物珍しそうに次々と声をかけている。
けれど、賑やかなその輪の中心で、リオネルは気さくに受け答えしていた。
いつものように、誰にでも分け隔てなく。
そして、彼は一度もこちらを見なかった。その輪の中で、私の存在を告げることもしなかった。
──これでも一応、恋人なのに。
すると、何人かが私をちらちらと見てきた。その視線に耐えきれず、私は彼らに背を向けた。
「……リオネル、先に行ってるわね」
努めて平静を装いながら、彼の横をすり抜けた。背中に「ベル!」と呼ぶ声が届いたけれど、聞こえないふりをした。
リオネルはすぐに追いついてきたが、彼の態度は変わらなかった。
私だけが小さなことを気にしているようで、楽しい雰囲気が霞んでいくようだった。
市場を後にして、私たちは海辺に建つ水上ヴィラへ向かった。
木の桟橋を渡ると、波の音がすぐ真下から響く。
リオネルは先に荷をほどき、私は部屋の隅で静かに海風を感じていた。それが肌に触れるたび、胸の中のもやもやが少しずつ溶けていく気がした。
──せっかくの旅行だもの。今はただ、海を楽しもう。
泳げる格好に着替えて、二人で浅瀬に出た。
白い砂浜、紺碧の海。打ち寄せる波が足元を撫で、心まで洗われていくようだ。
「ほら、ベル! 思ったより冷たくない!」
「ちょ、いきなりかけないでってば!」
パシャッと水が飛び、私は反撃するように両手ですくって彼にかけ返した。
太陽の光を浴びて、リオネルの髪が眩しく揺れる。
それ以上に、彼の笑顔が眩しかった。
刹那、波が強く打ち寄せ、足を取られた私は思わず体勢を崩した。
「ベル!」
咄嗟に伸びてきたリオネルの腕が、私をしっかりと抱きとめる。濡れた胸元に頬が触れて、彼の体温が直に伝わってきた。
どくんと、心臓の音が重なり合う。
──近い。
海の匂いに混じって、リオネルの香りがした。
「おい、大丈夫か?」
「う、うん……」
彼が小さく息を呑んだのが分かった。
けれど、抱きしめる腕の力が一瞬強くなるものの、ふっと離れた。
「……ごめん。つい、強く……」
「ううん、助けてくれてありがとう」
笑って見せたのに、なぜかリオネルはサッと目を逸らした。
「どうかした?」
「いや……その……日差しが強いなって」
──なんだろう。
さっきまであんなに楽しかったのに。
触れた瞬間、二人の間に見えない壁ができたみたいだった。
それでもリオネルは私の手を掴んだまま、どこか落ち着かない様子で海を見ている。その横顔を見つめながら、静かな不安が滲んでいくのを感じた。
海からあがると、肌に残る潮の膜を落とすように、外のシャワーで水を浴びた。
ひんやりとした雫が頬を伝い、背中をすべり落ちていく。
塩の香りが風に溶け、夕陽に照らされた海面が茜色に染まる。
──陽が沈む。
波間をなぞる光がゆっくりと細くなって、しばらくその光景から目を離せなかった。
「……もうすぐ暗くなるわね。明かりつけなきゃ」
今日は二人きり。身の回りの世話をしてくれる使用人たちはいない。食材や飲み物など、必要なものは揃っていても、基本的に自分のことは自分でしなければならない。
私は着替えてから室内に戻り、ランプの火を灯そうとした。
その時――……
「ベル、ランプは俺がやるから……」
振り向くと、先に戻ってきていたリオネルがいくつものランプに火を灯していた。
残っていたランプに触れようとすると二人の指先が重なり、思わず息を呑む。けれど、彼はなぜかそっと手を引いた。
触れ合った熱が消えていく。
「海なんて、やめておけばよかった……」
ぽつりと落とされたその言葉に、私は手を止めていた。
濡れた金色の髪に隠れて、リオネルの表情は見えない。ただ無神経にも思える彼の言葉に、怒りとも悲しみともつかない感情が込み上がってきた。
「なんで、そんなこと言うのよ……!」
声が震えた瞬間、リオネルがはっと顔を上げた。
次の瞬間、私は拳で彼の胸をぽかぽかと叩いていた。怒りというより、哀しさと悔しさをぶつけるような拳だった。
「せっかく一緒に来たのに……私、ずっと楽しみにしてたのに……!」
リオネルは私に叩かれて、ようやく自分の言葉の無神経さに気づいたようだった。
「いや、ちが……ベル、今のは──」
「もういい! リオネルなんて……!」
離れていこうとする私に、強く腕を引かれた。
次の瞬間、唇が塞がれる。
激しく、熱く、まるで互いの苛立ちと涙をそのまま飲み込むように。
「くそっ……こっちの我慢も知らないで!」
その低く掠れた声が耳朶を震わせた瞬間、息を呑む間もなく背中に腕を回され、あっという間にベッドへ押し倒された。
重なった体温の熱に、世界がゆっくりと溶けていく。
唇が触れ、離れ、また確かめるように触れる。
息もできないほどの口づけが降り注ぎ、頬に、喉に、鎖骨に、指先に──火花のような熱が触れていく。
理性が遠のいていく感覚に、思わず彼の名を呼んでいた。
「リオネル……!」
その声に、彼の動きがふっと止まる。
次の瞬間、糸が切れたように彼が胸元に倒れ込んできた。
肩で息をしながら、リオネルは小さく笑う。
「……やっぱり、無理だ」
「え──?」
額を私の胸に押しつけたまま、彼は白状した。
「グラント公爵から、言われてたんだ……」
彼は苦笑して、少し目を逸らす。
「結婚して初夜を迎えるまでは、絶対に手を出すなって」
「……お父様が、それを?」
「婚前旅行に行くって聞いた時、真顔で「海辺で変なことを考えるな」って念押しされた」
困ったように笑うリオネルは、耳まで赤くなっていた。
私は何と返せばいいか分からなかった。まさか、そんなことだとは思っていなかったからだ。
「なのに、海に来てからずっと……お前の服、薄くて……正直、目のやり場に困るし。そのくせ、可愛くて……触れたくて、どうしようもなくて」
苦しげに吐き出された声に、胸がきゅっと鳴った。
「俺だってこんな状態なのに、あいつらときたらお前のことを可愛いから紹介しろって。あからさまに狙ってるの分かってんのに、紹介するわけねーだろ」
「……もしかして、市場で会った人たち?」
「ああ、あの連中だ。ったく、ベルを紹介するなら、今日明日でいなくなるような奴らじゃなくて、きちんとした相手を選ぶっつーの」
顔を伏せたリオネルが、苦笑する。
「って、子どもみたいだな。こんなことで拗ねて、ベルを泣かせてさ」
「……ごめんなさい、私知らなくて。でも私を大切に思ってくれて、ありがとう。……リオネルのそういうところ、好きよ」
私は笑って、彼の金色の柔らかな髪を撫でた。
けれど、私の言葉を聞いたリオネルが勢いよく顔を上げた。
「……本当か?」
「嘘ついてどうするのよ」
言葉の続きを言うより早く、リオネルが抱きしめてくる。
耳元に熱い息がかかり、身体が跳ねた。
「な、なにを──」
「イザベルがそんなこと言うから……もう我慢できない」
リオネルの指先が一つに束ねておいた髪をほどき、頬を撫で、首筋や鎖骨にキスを落としてくる。名前を呼ぶたびに、呼吸が荒くなっていくのが分かった。
けれど──彼がふっと顔を上げた。
「……あの、リオネル?」
「最後までしなきゃいいんだよな……?」
どうして、そういうことには頭が回るのか。
私は呆れた顔でリオネルを見た。
「ええ、そうよ。最後までは……まだ」
私が彼の肩へ腕を回すと、リオネルはニィと笑って「了解!」と答えた。
本当に分かっているのか。
再び体を落としてくるリオネルに、私は翌日激しく後悔することになる……。
★★
まぶたの裏に、柔らかな光が差し込む。
波の音が、遠くで静かに囁いていた。
──心地よい朝。
のはずなのに、私は目を開けるなり、ため息をついた。
「……最悪」
肩に掛けたシーツをずらすと、鎖骨の下に赤い痕が花びらを散らしたようについていた。鏡を覗けば、首筋にもいくつか。
昨夜の熱が、こんな形で残っているなんて。
「これじゃ、どこにも行けないじゃない」
思わず顔を覆っていると、ドアがノックされた。
「ベル、起きてるか?」
「……起きてるわ。でも、入らないで」
一拍の沈黙の後、扉の隙間から、リオネルがひょいと顔を覗かせた。
手には朝食のトレイ。パンや、甘い果実が乗せられている。
「その、朝ごはん持ってきたんだけど」
「……いらない」
「怒ってる、よな……」
「反省は?」
「めちゃくちゃしてる!」
気まずそうに笑うリオネルは、耳まで真っ赤にしながら痒くもない頬を掻いた。
──リオネル、許すまじ(4回目)
★★
朝食を終え、再び町へ出るころには――潮の香りを乗せた風が、座るベンチの背をやさしく撫でていく。
昨日の夕暮れから一夜明けて、海辺の町は賑やかな笑い声に包まれていた。
私は帽子のつばを押さえながら、通りの向こうにある屋台を見つめる。
リオネルが「何か食べるもの買ってくる」と言ってくれたのだ。
気まずさと恥ずかしさが入り混じったまま朝を迎えたけれど、こうして離れてみると、すぐに寂しくなってしまう。
「ねぇ、君。昨日、市場で見かけたんだけど」
そこへ無粋な声が掛けられる。
顔を向けると、見知らぬ青年が立っていた。小麦色の肌に、軽装の旅人風。
「旅行者? よかったら一緒に遊ぼうよ」
「誰に声をかけているのかしら」
微笑みながらも、声には凛とした響きを乗せる。
青年が一瞬きょとんとした後、冷たい態度の私が気に入らなかったのか「そんなつれないこと言わないで」と猫撫で声で誘ってきた。
私はちょうど屋台からこちらへ向かってくるリオネルを見かけ、ベンチからスッと立ち上がった。
「明日にはいなくなっている貴方に、教える名前なんてないわ──」
帽子の下から鋭く睨みつけると、青年は私が貴族の令嬢であることを悟ったのか、慌てて「わ、悪かった!」と逃げ出していた。
「……ベルのところには、厄介な男ばかり近寄ってくるな」
「私のせいじゃないわ。心配なら私から目を離さないで」
私が手を差し出すと、リオネルはその手を取って手の甲に口づけてくると、
「畏まりました、俺の婚約者殿」
と言って、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
潮の香りを胸いっぱいに吸い込み、リオネルと並んで歩き出す。
──どこまでも続く海の青が、私たちの未来のように広がっていた。
いつか結婚式と初夜ネタ書きたいです。
その前に三章!ブックマークはそのままで…!
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