【幕間】―リオネル&昊然(コウゼン)―
……早まった。
考えるより先に行動してしまう自分とは違い、彼女は周囲に気を張りながら慎重に動くタイプだ。それなのに、自分の知っている彼女とは違う一面を見せつけられて焦ったのかもしれない。
『イザベルは、これから他のことにも目を向けるようになる。俺はその手伝いをしてやりたいと思っている』
──恋敵の前で、そう宣言したではないか。
叶うことのない初恋が実っただけでも、喜ぶべきなのに。自分だけを見てほしくてもっと深く、今よりずっと深いところで繋がることを望んでしまっている。
だから、婚約者という立場を得たのに、意識すらしてもらえないなんて──これほど虚しいことがあるだろうか。
「……ん、ぅ」
最後の明かりが消えてから、もう随分と時間が経った。
室内は闇に包まれているのに、目はすっかり慣れてしまった。視覚が奪われると、他の感覚ばかりが研ぎ澄まされていく。
穏やかな寝息。寝返りのたびに鳴るシーツの擦れる音。
もっと触れたいと思ってしまう、愛しい人の気配。
──護衛として入室を許されたのに、今の自分が一番危険な存在ではないか。
まして、あんなことをしてしまった後では。
抱き寄せた腰の細さ。密着した温もり。重ねた唇の柔らかさ。
舌を絡めたときの熱。
思い出しただけで体中が焼けるように熱くなり、リオネルは顔を押さえた。
「くそっ、バカか俺は……!」
安心しきった顔で身を委ねられるほど、嬉しいはずなのに。
それ以上に、どうしようもないもどかしさが胸を締めつける。
──どうしたら、お前も同じ気持ちになってくれるのだろう。
そんな思考を引きずったまま夜を明かし、カーテンの隙間がわずかに明るくなり始めた。
リオネルはソファーから立ち上がり、音を立てぬようそっと部屋を出る。
向かった先は、来訪客のために用意された部屋だ。
扉を蹴破る勢いでやって来たが、最後は良心が勝って、小さめにコンコンとノックした。だいたい、だいたい、彼らが来なければ昨晩のようなことは起きなかった。
まさか護衛のくせに熟睡しているわけじゃないだろうな、と苛立ちを募らせると、気配もなく扉が開いた。
欠伸を噛み殺しながら現れたのは、ボサボサの黒髪にバスローブ姿の男。腹をかきながら、不機嫌そうに立っていた。
「おい、今すぐ手合わせしろ」
だが、怒りが爆発しそうなのはリオネルも同じだ。
いきなり現れて攻撃してきたこの男──昊然たちのせいで、婚約者との間に亀裂が入ったのだから。
「……はぁ? 俺、朝よわ──」
「こっちの言葉喋れんじゃねーか、クソ野郎」
「あ、畜生……。普通に話しかけてくるからつられたわ。お嬢も知らないっつーのに」
昊然は額を押さえ、悔しそうに唸る。
そんなに朝が弱くて護衛が務まるのか、と呆れながらも、先にこのことを知っていたら、夜に婚約者の元へ訪れる必要もなかったのではないか。
「黙っててやるから、さっさと用意してこい」
「いや、まだ寝てたい……」
「バラすぞ」
睨みつけながら脅すと、昊然は愚痴をこぼしながら支度のため一旦部屋の中に戻っていった。
しばらく廊下で待っていると、意外にも素直に着替えてきた昊然は『いいぞ』と言って、隣に並んできた。簡単な言葉は、ウ・ランカ語を使ってくるようだ。
リオネルは昊然と連れ立って、屋外にある訓練場へ向かった。
日が昇って間もない時間帯だけに、訓練場には誰もいなかった。
「手合わせの武器は木剣な。3本勝負で、先に2本取った方の勝ちだ」
『ふあぁ……、ねみぃ。わかった、わかった』
リオネルは訓練用の木剣を掴むと、昊然に投げて渡した。
直前まで欠伸をこぼしていた男は、木剣を手にした途端、目の奥が鋭く光った。剣を上下に振って感触を確かめると、嬉しそうに笑って『来いよ』と挑発してくる。
リオネルも木剣を構え、手首をほぐすように左右に振った。
「じゃあ、遠慮なく──」と告げた瞬間には、すでに地を蹴っていた。
静寂に包まれていた訓練場に突然、木剣のぶつかり合う音が響き渡る。近くの木々で羽を休めていた鳥が一斉に飛び立った。
眠気覚ましに一発打ち込んでやろうと思ったのに、昊然は隙を見せるどころか、剣を受け流して懐に飛び込んできた。リオネルは咄嗟に後ろに下がって距離を取った。
「寝起きじゃなかったのかよ」
「そういうお前はどうなんだ。公女様と楽しめたかよ? 一晩中起きてたって顔だぜ」
何を楽しむというんだ。
襲撃されるかもしれない状況下で、一息つくこともできなかった。
リオネルが舌打ちすると、昊然はケラケラと笑った。
ただ、こちらの世界でこれほど気兼ねなく喋れる相手はいない。いくら親しい相手でも、家柄や身分が邪魔をして、どこかで規則に縛られている感じがした。
そのせいか、自由奔放に振る舞う昊然は、昔の悪友と再会した気分だ。
「どこでこの国の言葉を覚えたんだ?」
攻撃をかわしつつ問いかけると、昊然は鼻で笑った。
「ああ、うちの国は流れ者の集まりだろ? 俺が奴隷だった時に、レクラム国出身の夫婦に雇われたんだよ」
「……奴隷って」
「珍しいものでもないだろ。この国では禁止でも、よその国では当たり前にある制度だ。俺たちの部族が襲われて、親兄弟は皆殺し。俺だけ奴隷になって生き延びたって話だ」
朝から聞かされるには重すぎる話なのに、昊然は日常会話でもするような軽さで教えてきた。彼にとっては、気軽に話せるほど過ぎ去った記憶なのかもしれない。
それでも、憑依前の記憶が残っているせいか、こういう時どういう顔をしていいか分からない。
一瞬、グリップを握る手が緩み、そこを狙われて木剣を弾き飛ばされた。
──油断した。
「貴族様のくせに優しいねぇ。これが本物の剣だったら、手首ごと切り落とされてたぞ」
リオネルは「クソッ」と悪態つき、地面に落ちた木剣を拾い上げた。
この世界の暮らしにも、公爵家の跡取りという立場にも慣れたつもりだった。
けれど、最近ナツキの肉体に戻ったせいだろうか。それとも、日本で共に過ごした幼馴染みと一緒にいるせいだろうか。
以前なら気にも留めなかったのに、簡単に受け流すことができなくなっていた。
「……それで、その夫婦に雇われている内に覚えたってことだな」
一本取られた悔しさを押し殺し、再び木剣を握りしめたリオネルは、昊然の胸元に飛び込んでいった。
「そんなところだ。──でも、あれは夫婦っていうより、高貴な奥様とその使用人って感じだった。旦那は仕事を掛け持ち、奥様は贅沢三昧。ろくに働きもしなかった」
「貴族夫人だったのか」
「たぶんな。駆け落ちでもしたんだろうって噂があった」
他国と比較しても、レクラム国ほど平和で穏やかな国はない。なのに、貴族の女性がいくら愛する人と一緒になりたいからと、すべてを投げ出して国を飛び出すことは稀だ。
記憶がある中でも、高貴な女性が駆け落ちしたという話はひとつしかない。しかし、そんな偶然があるかと、脳裏に浮かんできた考えを自ら否定した。
「それで、その夫婦はどうなったんだ?」
「金遣いの荒い奥様に愛想を尽かしてな。旦那は他の女のとこに通うようになった。顔を合わせれば喧嘩ばかりで、夫婦仲は冷えきってたさ」
けれど、別れることはなかったらしい。
異国で言葉の通じぬ人々に囲まれ、孤独を抱えながらも支え合っていたのだろう。
「そのうち不機嫌な奥様から、レクラム語を話せるまで鞭で打たれるようになってな。だから必死で覚えたってわけ」
奴隷にとって暴力は日常だ。
昊然は、ただ生き延びるために言葉を覚えたのだ。
「同情するなよ、お坊ちゃま」
「……してねぇよ」
図星を突かれ、リオネルは舌打ちしてから木剣を振り抜いた。
昊然は咄嗟に後ろに飛び退いたが、その時を狙ってリオネルは胸倉を掴んで投げ飛ばしていた。
『こ、の……あだっ!』
地面に叩きつけた昊然の鼻先に、リオネルは剣先を突き付けた。
昊然は目を細めて笑い、『二本目は俺の負けだ』と素直に降参し、リオネルの差し出した手を取って立ち上がった。
『ハハ、久しぶりに楽しめそうだわ』
三本目に入る前、昊然は変わらず軽い調子で続けた。
部族の争いが激化し、彼のいた地帯も滅んだこと。その時に、夫婦とは散り散りになってしまったようだ。
それから生き延びるために剣を取り、各地を転々としながら独学で強くなっていった。彼の強さの理由が分かった気がした。
「……さっきの夫婦の話、俺の婚約者には言うなよ」
自分たちとは関係のない人間かもしれない。それでも、グラント公爵家の公爵夫人が使用人と駆け落ちして姿を消したのは、今もタブーだ。
「まったく過保護だねぇ。たった一人の女に、そこまでなるかよ」
「人それぞれだろ。──けど、俺はもう出会ったから。この命を差し出しても守りたいやつが」
すでに一度は死にかけたけど、愛する人が怪我をするよりずっといい。本人には言えないが、刺されたのが自分で良かったと思っている。
「……へぇ。じゃあお前に何かあった時は、俺があの公女様をもらってやるよ」
「ざけんなっ! 誰がお前なんかに渡すか!」
ようやく報われた片思いを、どうして手放せるというのか。
三本目の勝負は合図もなく、リオネルは容赦なく昊然に向かって木剣を振り上げていた。
乾いた衝撃音が次々と響き、二人の戦いは昼近くまで続いた。
気づけば、訓練場には多くの騎士たちが集まり、実戦さながらの手合わせに歓声を上げていた。
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