9話 契約
つい、腕に力を込めた。
倒れる南戸、そこに近づく鬼神。
南戸の脇腹と後頭部からは血が流れ落ちていき、道場の床に血だまりができ始めていた。
「嘘だろ、おい……」
また騙し討ちか。
油断させる罠か。
そんな疑いが、希望が、胸をよぎる。
あいつは九尾狐すら使役できる詐欺師だ。
こんなあっけなく終わるなんて思えなかった。
「立てよ……立てよ南戸!」
俺はしめ縄をさらに強く握った。
その途端、手に強烈な痺れが走った。
「痛っ!」
つい縄から手を離してしまった。
容易に触れることさえできなくなっている。半年間の役目を終えたはずの結界が、さっきよりあきらかに力を増していた。
なんでだ。
なんで――
「まさか」
そこでようやく南戸の狙いに気が付いた。
「……おまえ、自分の血で……」
南戸が言っていた。
特別な力には対価が必要だ、と。
ただ結界を張るだけなら問題はないだろう。
半年前、様々な術式を利用してつくりあげていたように。
でもそれだけじゃ、不十分だった。
もし自分が鬼神と戦って負けたとき、その結界が絶対に破られないようにするため自分の血を捧げているのだ。
鬼神をここに封じ込めるために。
「そういうことかよ……くそっ!」
あと一歩。
南戸の騙し討ちを警戒している鬼神が、ゆっくりと南戸との距離を詰めていく。片腕を失った鬼神もさすがに慎重にならざるを得ないだろう。
だがもう時間の問題だ。
南戸は壁に激突するとき、後頭部を強烈に打ち付けていた。衝撃をやわらげていたとしても相当なダメージだろう。
それに見ただけでわかる出血量。
このまま放っておいても、あいつは死ぬ。
「梔子さんッ!?」
梔子が結界を破ろうと縄に触れ、電流のような力に弾き飛ばされて転げてしまう。だが起き上った梔子はまた縄を破ろうとして駆け寄る。
南戸を助けようとして、何回も何回も。
澪が悲痛な声をあげるが、梔子はやめようとしない。
「やめるッスよ」
梔子の手のひらは血で滲んでいた。
見かねて止めたのは白々雪だった。梔子が抵抗しようとしても、力は白々雪のほうが優っている。無理やり動かないように抑えつけられる。
「無駄に傷つくつもりなら、友達として止めます。ほかに策があるのなら別ですけど」
白々雪の冷静な言葉に、梔子の唇から漏れる震えた吐息。
ほんのすこしの距離で大切な人が殺されようとしているのだ。気持ちはわかる。
南戸は気を失ってる。
抗う術は、もうない。
梔子の瞳に悲壮の涙が浮かんだ。
「……なあ、南戸」
聞こえているかはわからないけど、俺は問いかける。
「俺はバカだから、いままでずっとおまえに騙され続けてきた。たぶんどれだけの付き合いがあろうと、おまえが騙そうと思えば俺のことなんてすぐ騙せるんだろうな。だけど今回はそうしなかった。騙さずに俺たちを遠ざけて、おまえは一人でやることを選んだ。そうだろ?」
俺はポケットのなかから一枚の紙を取り出す。
古めかしい紙。
「おまえは梔子のためだけに、いつか梔子が感情を取り戻すためだけに、一番犠牲が少ない方法を選んだんだろう。その結果が俺たちを遠ざけるってことになったんだろう。それくらい俺にもわかる。だけどな――」
紙に描かれていたのは、黒い方陣。
幾重にも重なったその絵には、理解できない文字も書かれていた。
「だけど、それじゃ意味がないんだよ。たとえ梔子の感情を取り戻せてもおまえを失ったら意味がない。梔子にとって一番大切なのは、俺や白々雪や澪じゃなくて……おまえなんだから」
だから、それは一番賢い選択肢じゃねえんだよ。
なあ詐欺師?
俺と南戸はすこし似ている。
俺が南戸に似てきたのかもしれない。
どっちにしろ、俺たちは少年漫画の主人公みたいにはなれない。
本物のヒーローは、犠牲を出そうとしないから。
「最善の選択肢は、こっちだ」
俺は自分の指先を噛んだ。
もし自分に適した力を得るとするなら、俺はなにを得ることができるんだろう。
南戸にとっては詐術や妖術だろう。その最たる例が九尾狐だ。
征士郎にとってはドッペルゲンガー。
じゃあ俺はどうか。
正直、俺にはまだわからない。
知識もないし、経験も浅い。
だから俺は、いま自分にできることをする。
「血の盟約により」
指先から漏れる血を、魔方陣に垂らす。
俺には持てる武器も、力もない。
なら利用できるものはなんでも利用する。
それが言葉でも、心でも、自分の命でも。
偶然か運命か、このタイミングでそれができる手段を――魔導書を手に入れた。
俺ができることが目の前に転がってるんだ。
なら、やらないわけがないだろう?
「――応じよ。魔よ」
時が止まった。
比喩でもなんでもなく風景が停止した。
顔を蒼白にしている澪も、
梔子を抱える白々雪も、
目を見開く梔子も、
倒れた南戸も、
忍び寄る鬼神も、
空の風も、
雷の音も。
なにもかもが停止し、世界が色を失ってすべて灰色に変わった。
『――随分と未熟な人間に呼び出されたみたいだねえ――』
そんな俺の耳に声が堕ちてきた。
耳障りな金切り声だった。
『――して、何用かな人間?――』
金属をひっかいたような身の毛のよだつような声。
だが、どこか惹きつけられる声だった。
『――なにを求める? 金か? 名誉か? 力か? 望むものはなんでも与えよう。ワタシは〝ヤクシ〟……〝夜叉〟と呼ばれるかつて神だったモノ。すなわち――』
ああ、それは知っている。
知っているからこそ呼び出した。
夜叉という鬼神の一種。かつて神だった存在。そして純然たる神聖を失った際に、消えるでもなく現世に顕現するでもなく、魔へと堕ちた稀有な存在。
人間は、それをこう呼ぶ。
『――〝悪魔〟さ。さあ、望みはなんだ人間?――』
俺の目の前に、いつのまにかそいつはいた。
俺と同じ姿をして、薄い笑みを浮かべるそいつ。
幻覚か、それともそういうものなのか。
そいつは俺を見下すように笑っていた。
まあ、なんてことはない。
特別な力も才能も持たない俺が力を得るためには、生まれもったただ一つの武器――〝言葉〟を交わすしかない。
相手がたとえ悪魔だろうと、これが最短距離だ。
利用できるものは利用してやる。
たとえ死亡フラグだろうと、なんだろうと。
「……俺に力をくれ。南戸を救えるくらいの力を」
『――そんな簡単なことでいいのか? 巨万の富は? 世界を滅ぼせる力は?――』
「必要ない」
そんな悪魔の囁きには、耳を貸さない。
『――承知した。対価はどうする?――』
「必要なものを。等価交換なんだろ?」
『――キシシシ……話が早くて助かるよ。じゃあそうだな……時間だ。貴様の時間をもらう――』
「わかった」
俺がうなずいた瞬間、全身に言い知れぬ力がみなぎってくる。
湧きだすマグマのように熱い力が駆け巡る。
『――契約開始だ――』
煙が霧散するように悪魔の姿が消え失せると、灰色の世界に色が戻った。
風がうねり、雷が遠くで鳴っている。
鬼神がまた一歩、南戸に近づこうとする。
梔子が結界に触れようと手を伸ばす。
白々雪が梔子を引きつける。
澪が梔子の伸ばした腕を遮る。
そのすべてが、緩慢に見えた。
「……悪いが、おまえの思い通りにはさせないぞ詐欺師」
結界の縄を掴む。
激しい力の奔流が押し寄せてきて腕を焼こうとするが、今の俺には耐えられる。
無理やり抑え込んだまま、結界をくぐった。
鬼神が弾けるようにこっちを向く。さすがに異変に気付いたようだ。
だが、遅い。
俺はすでに南戸の隣にいた。
血が出ている。早く手当しないと。
南戸の体を担いで、入口にむかって駆ける。
機敏に反応した鬼神が南戸の足を掴もうと手を伸ばすが、俺がその手を蹴り飛ばす。
バランスを崩した鬼神はそれ以上追えない。
また結界を無理やり抑えつけながら、そのまま南戸ごと外に転がり出た。
『――契約完了だ――』
頭のなかに悪魔の声が響いた。
全身から力が抜けて、俺はいつのまにか止めていた息を吐きだした。
「ぶはっ!」
「えっなに!?」
驚く澪の声。
無理はない。俺が道場に入ってから南戸を連れて出てくるまで、時間にして一秒程度だったはずだ。
澪たちにとっちゃ目にもとまらなかっただろう。
「ツムギくん……!?」
戸惑う澪の声に顔を上げる。
「俺のことはいいから、早く病院へ!」
その言葉が終わらないうちに、白々雪が道場の扉を閉めて閂をかける。
扉が閉まる直前、鬼神の燃えるような冷たい瞳が見えた。
「えっと……ツムギくん、だよね?」
澪が俺をじっと見つめてくる。
「他の誰に見えるんだよ」
「だって……髪が」
「……ああ」
成果には対価を。
それが悪魔の契約というのなら、俺はたしかに失ったのだ。
髪がかなり伸びてしまってるから、見ただけでもわかりやすいだろう。
俺は時間を支払ったのだ。
『――貴様の半年、たしかに頂いたぜ――』
ほんの一秒だけの力を得るためにしては、なかなか大きな犠牲だったのかもしれない。
だけど俺は、つい笑みを漏らした。
「みんなに置いてかれてたからな……追いついてよかったよ」
口 口 口 口 口
救急車の音が近づいてくる。
梔子と白々雪が、南戸を門の外まで運んでいるはずだ。脇腹と後頭部に大きな怪我を負ってるし出血も多い。あの詐欺師がこんなところでくたばるとは思わないけど、万が一ということもある。
俺も腕を負傷してるから病院までついていきたいとこなんだけど、そうも言ってられない。
道場の前であぐらをかいて座り込む。
南戸の血を吸ったおかげか、結界はかなり堅固になったみたいだった。閂に触れてみてもその力を感じることはできるし、なかにいる鬼神の気配がさっきよりかなり遠く感じる。
とはいえ安心はできない。
この結界はまだまだ未完成だろうし、いつ破られるかわからないのだ。
「……ねえツムギくん。聞いてもいい?」
「どうした、澪」
白々雪と梔子についていかずに、ずっと俺の後ろにいた澪。
正直、鬼神の脅威もある。離れていてほしかった。
「どういうことなの?」
澪は後ろから、俺の髪に触れる。
平均的とは言いがたいかなり伸びてしまった髪。
俺は答えられない。
きっと澪は怒るだろうから。
「黙ってても、怒るよ?」
そう言って後ろから差し出してきたのは、紙だ。
魔方陣に血が染みた紙。
「こういうことに疎いわたしでもわかるよ。ツムギくん、ちゃんとした方法を使わなかったでしょ。よくないこと、考えてる」
「……。」
「いやだよ、わたし」
澪の声は震えていた。
「ツムギくんがしようとしてること、なんだか怖い」
目を伏せる澪は、それ以上なにも言わなかった。
救急車の音がすぐ近くで止まった。
俺は笑う。
「澪、大丈夫だって。俺は大丈夫だから。それより南戸についてってやれるか? 南戸の目が覚めたときに説明するなら、白々雪よりもおまえのほうが適任だ」
渇いた笑い声にしかならなかった。
誰が聞いても誤魔化しだってことくらいわかるだろう。
やっぱり俺は詐欺師には向いてないな。
澪は俺が拒絶したことを理解して、小さくうなずいて歩いていった。
ごめん澪。
……ごめん。
「でも、決めたから」
俺は自嘲気味にため息をついて、顔を上げる。
つぎにこの結界が破られたら、そこがタイムリミットだ。俺にはこの結界を補強する術なんて知らない。時間を稼ぐことすらできない。
南戸がいれば、と本末転倒なことを考える。
ほんとに自分ひとりじゃなにもできないな、俺は。
皮肉に笑っていると後ろから足跡が聞こえた。
振り返る。
そこにいたのは小さな影だった。
長い前髪の隙間から、じっとこっちを見つめていた。
「……梔子」
てっきり南戸についていくとばかり思っていたのに。
梔子詞のいつもの無表情に、このときばかりは驚かされた。




