7話 かまわない
転校生は、黒いセーラー服を着ていた。
目をつむっていても高校二年に昇級できる白々雪や(おそらく)梔子と違って、平均ぴったりで期末テストをパスした俺は、やはり無難なところで志望大学を国立文系に設定している。
そうなるとクラス分けにおいては、同じく国立文系を志望するやつらの集まるクラスに配属されているということになるだろう。
二年三組に振り分けられた俺のとなりには、さも当然のような顔をしてた白々雪。
「……おまえ、なんで文系なんだ?」
「だって理系って可愛くないじゃないッスか」
「そうか。理系だったら天才少女っぽいじゃねえか。あっちにいったらよかったのに」
「なんスかそれ。ウチが邪魔なんスか?」
「まあうるさいからな」
「おしゃべりな女子って萌えポイント高くないッスか? いつもはうるさいのにベッドでは静かになる、みたいな」
「天才娘ってけっこう萌えるよな。なんでも知ってるのにベッドでは戸惑う、みたいな」
「クラス移れるか相談してくるッス!」
白々雪はダッシュで教室から飛び出した。
登校してきた生徒たちが、続々と教室内に入ってくる。知らない顔も多いが、あまり興味はない。
俺の目を引いたのは梔子だった。
梔子は無音で教室に入ってくると、一番前の席に腰かける。
梔子が文系か。
なんとなく、俺はそわそわと落ち着かなくなった。
よくわからんが、梔子の小さな背中を見るのが気まずい。
視線を外していると、三十くらいの男教師が教室内に入ってきた。その後ろから白々雪がしょぼんとした表情でついていたので、どうやら交渉は失敗したようだった。くそう。
「席につきやがれー」
担任の教師は乱雑に言い捨て、教室内を見まわした。
クラス内が静かになる。
「担任の草壁だ。去年担任したやつらもチラホラ見えるが、初めましてのやつも、二度目のやつも、一年間よろしくな。で、さっさくだけど、このクラスに転校生がきたから紹介しておく。入ってこい」
ざわっ。
クラスメイトたちがささめき合う。
ガラリと扉が開いて、そいつは入ってきた。
この学校はブレザーとブラウスという男の視覚的には嬉しくない制服だったが、転校生はおそらく前の学校の制服なのだろう黒を基調としたセーラー服で、赤いリボンを胸元で結んでいた。裾や袖は針葉樹の葉のようにとがったデザインで、まるでそれは黒い森だった。
スタイリッシュな服装に、可愛らしい愛嬌のある頬笑みの転校生は滑らかで明澄な声で言った。
「わたしは、澪=ウィトゲンシュタインです。オーストリアで育ち、昨年、日本に来ました。以前の学校も日本でしたが、まだ日本語に慣れていません。仲良くしていただけると嬉しいです。宜しくお願い致します」
どこが日本語に慣れていないのか。淀みのない発音だった。
澪=ウィトゲンシュタインという名の少女は、たしかに欧州の血が流れているのがわかる風貌をしていた。鼻が高いわけではなく背も平均的で、体格的にはそこらの日本人とそう変わらない。だが、その瞳は寒々しいほどの綺麗な碧眼で、そんな澄み渡った目をしているやつがいるなんて俺は信じられなかった。しかし空色の目よりもむしろ、澪=ウィトゲンシュタインの個性を象徴しているのは、凍った湖のような、銀色で滑らかな髪の毛だった。彼女は色素の落ちた長い髪を、腰のあたりで大雑把に切り揃えていた。
やけにニコニコと笑っている銀色少女。
それが彼女の第一印象だった。
澪=ウィトゲンシュタインは、担任の促すままに、窓際一番後ろに用意されていた空席に座った。出席番号が十三番というだけで偶然にもその隣の席だった俺に顔を向けた澪=ウィトゲンシュタインは、
「よろしくね。久栗くん」
詐欺師かと疑うほどに爽やかな笑顔だった。
「…………。」
俺はふだんから他人に悪印象を持つことなんてないし、それなりに顔立ちの整った女の子ならなおさらだ。しかし、どこか作りものめいたその愛想の良い表情が、なんとなく俺には不快だった。
とはいえそこで無視するのは俺のポリシーに反する。ラブ&ピースよりもピース&ピースがモットーな俺だ。クラス内での平和のため、最短距離をゆく。
「よろしく。日本語と生活で困ったことがあればいつでも言ってくれ。勉強のことならむしろ教えてくれ」
澪=ウィトゲンシュタイン(長いから澪でいいか)は、可笑しそうに笑って、
「ならさっそくお願いします。わたし、スリッパって苦手なの。もし上履きにあまってるのがあれば、貸してもらえるかな?」
澪はぶらんと足を振った。
制服どころか、上履きすら持ってないのだろうか。彼女は来客用の茶色いスリッパを履いていた。
普段ならそんな無理な注文は丁重に断っているところだが、偶然にも、今日はこのあと体育館で始業式だ。机の横には体育館シューズがかけてある。
とくに深く考えず、俺は澪に体育館シューズを貸した。澪は嬉しそうにスリッパから靴に履き替えていた。
「じゃあおまえらにも自己紹介をしてもらう。足立。おまえから順番にやれ。内容は自由だ」
草壁がそういうと、先頭の男子が自己紹介を始める。
しかし転校生がきたことが意外すぎて、俺はそのとき気付かなかった。
なぜ澪=ウィトゲンシュタインが、名乗りもしない俺の名前を知っていたのか。
その不自然を、俺は見逃していた。
澪=ウィトゲンシュタインはオーストリア人の父親と、日本人の母親の遺伝子を受け継いでいた。オーストリアはチロル州の州都インスブルックで生まれ、インスブルック特有の肌寒い空気のなか平凡な家庭で育った。気候に反してインスブルックの人々はとても暖かく親切で、澪自身も、他人を労わるようにと祖母に常々言いつけられてきた。澪は祖母のことを尊敬していて、故郷の街も大好きなんだとか。スポーツの街と銘打たれているインスブルックは、すこし街の奥に入ると文化的にも栄えていて、それゆえ澪は演劇やミュージカル鑑賞が幼い頃からの趣味だった。日本に来たのは一年前で、以前は違う高校に通っていたが、いろいろ事情があって引っ越してきた。
――らしい。
俺が聴きたくて聴いたわけではない。隣の席なので、クラスメートから質問攻めにあっている澪の声は、否応なく耳に入ってくる。
始業式とホームルームの間の短い時間、好奇心剥き出しなクラスメートたちに囲まれても、澪は嫌な顔ひとつ浮かべずにオーバーぎみな笑顔ですべてに答えていた。転校生珍しさに興奮している級友たちは、その笑顔に「澪ちゃんは必死に質問に答えてくれるし、ニコニコしているし、素直な良い子だ」と満足そうにうなずいていた。わからなくもないが……どうだろうか。俺は不自然な笑顔を信用していない。
「ツムギはどう思うッスか?」
肩をちょんとつつかれて、澪とは逆隣の席に視線を向ける。白々雪だった。
俺の心を読んでいたのか、白々雪は耳打ちする。
「あの笑顔、ウチは怪しいと踏んでるッス。なにか隠している顔ッスね。だってあんなにも自然に笑える女子は、たいていの場合、初対面の人らにあそこまで笑顔を向けないッスよ」
好奇心が旺盛どころか貪欲なはずの白々雪が、珍しい転校生のところへ向かわないのは疑問だったが、それはそうと、白々雪のその言葉に俺は首をひねる。
「どういうことだ? ふつう初対面だからこそ笑顔で迎えるだろ。……まあ、俺もあれは不自然だと思うけど」
「ただの笑顔ならそうですけど、満面の笑顔なんて胡散臭いだけッスよ。一番いい笑顔を向けてしまったら、そのあとの表情のハードルが上がるでしょ? 友達になる相手にそんな阿呆な真似をするような女子はなかなかいないッスよ」
「なにも考えずに笑ってるって可能性は?」
「それはないッス。笑顔っていうのは、楽しいときにするもんッス。質問に答えるだけで自然と笑えるような子なら、最初のツムギの『勉強は教えてくれ』のサムい冗談でも笑い転げてるはずッス」
「……え? あれ寒かったか?」
「ええ、慣れないことはするもんじゃないッスよ」
「そんなバカな。長年シュミレートしてきた対転校生用の挨拶のなかでもとくに秀逸なできだと思ってたのに」
「まあ、価値判断はそれぞれッスから。……どんまい」
やめてくれそんな憐れむような目で俺を見るのは。
俺が落ち込んでいると、白々雪は「それよりも」と声を低くして、
「問題は、彼女の顔に貼りついているあの笑顔が、どっちなのかッスね」
「……どっち?」
「ええ。笑顔を貼りつけているのか、貼りついているのが笑顔なのか。それによって彼女の見方が変わってくるッスよ」
「どっちも同じだろ。そんなのは、おまえの大好きな言葉遊びの範囲内じゃないか」
と俺が呆れて言うと、白々雪は強く否定した。
「なにを無考えな。雲泥の差があるッスよ。前者ならまだ安心じゃないッスか。わざと浮かべた笑顔なら、彼女がなにかのために他人に自分を偽証してるってことッスから、いうなればそれも一種のキャラ付けッスよ。人間だれしもが行う欺瞞と同類項なんスからね。気にすることはないです」
またその話か。
俺は自然と、一番前の席に座っている梔子の背中を眺める。梔子は転校生に興味のいっぺんも示さず、構わず、ただ黙して座っていた。
「でももし、貼りついているのが笑顔なら……」
と弁舌好で理屈屋の白々雪は、少し躊躇いつつも語る。
「おそらくそれは、彼女のメーデーッスね。明確な意思表示はしてないッスけど、無意識に貼りつけている表情があんなに爽やかで自然な笑顔になってしまっているんなら、それは彼女がそうしないと身を守れないってことッスよ」
……いや、まさか。
澪の絹のような素肌の表情を覗き見る。
わざとらしい笑顔をしている以外は、とくに警戒したり、怯えたり、怖がったりしている様子はない。
べつに白々雪の理論は嫌いじゃない。白々雪の意見は、誰かを傷つけたり貶めたり、そんな他意を含むことのないものだからだ。白々雪の判断はいつも俯瞰的だ。そんな白々雪の長々とした語りや言葉遊びを聴くのは、面白いとすら思っている。
だが、いまの意見には反対だ。
「そうは言うけどな、それは、あくまで仮定に仮定を重ねた想像だろ。あんまり悪い想像を言うのは失礼だ。……それに、そんな想像をするくらいなら、直接訊けばいいじゃないかよ。おまえは好奇心に支配されたロジカル人間だろ? みんなみたいに質問すればいいじゃないか」
「……ツムギは想像力が足りないッスね」
白々雪はため息をついた。
「ウチが気になるのは、あくまで真実ッスよ。もしウチが『なんでそんなわざとらしく笑顔を浮かべてるんッスか?』って訊いて、素直に答えてくれると思うッスか? 隠すに決まってる。訊いたら教えてくれるのは幼稚園までッスよ。そこまで人間はお人好しじゃない。せいぜい警戒されるか、嫌われるかのどっちかッス。むかしならどうなっても構わなかったッスけど、いまはそれは遠慮しておきたいです。まだ二年になって初日ですし、誰かと諍いを起こすには早すぎるッス。……はあ、好奇心より安穏を選ぶとは、ウチも丸くなったもんッスよ。おとなしいツムギに毒されてしまった」
「いいじゃねえか。安定が一番だ」
とはいえそのとおりだ。
でもやっぱり、笑顔を貼りつけてしまわないと生きれない状況なんてのは過剰な分析だろう。そんなやつが転校してきて俺の隣に座っているなんて想像もつかない。さすがにそうではないと思う。希望的観測もそこに含まれているのは、否めないけど。
俺がいまいち納得できないでいると、ようやく担任が教室に戻ってきた。席に着くように命じる。それまで澪を囲んでいた級友たちは蜘蛛の子を散らすようにして各々の指定席へと戻っていった。
白々雪との論争をひとまず中断した俺は、横目で澪を眺める。澪はまだにこにこと笑顔を浮かべて黒板を見つめていた。
ホームルームは手早く進んだ。二年になって初日なので授業はなく、ただクラスのなかで必要な委員を決めるだけだった。もちろん俺は誰に憚ることもなく、いつものように図書委員になった。
担任が「じゃあ女子の図書委員だが、久栗がいるからなりたいやつがいなくても――」と口に出したところで、白々雪が迷わず手を挙げようとして動いた。
それと同時だった。
「――あの、わたし、なります」
澪が、すかさず名乗り出た。
それに驚いたのは俺だけではなかった。
白々雪が挙げかけた手を凍らせて、ぎょっとして振り向いていた。
担任が訝しげに訊く。
「それはかまわんが……ウィトゲンシュタイン。委員会への所属は有志だ。無理してどれかに入らないといけないわけじゃないって、わかってるか?」
「わかってます。でも、わたし、まだそれほど日本語に慣れてないし、本を読むのは好きなんです。だから勉強もできるしこの学校のことも知りたいし、一挙両得なので是非、図書委員になりたいです。それだけが理由じゃダメですか?」
「いやいや。そこまで考えてるならなにも問題ない。立派だぞ、ウィトゲンシュタイン」
担任は嬉しそうに顔を綻ばせて、すぐに澪が図書委員になることを認めた。級友たちも感心したように
「健気だ」「良い子だなぁ」とつぶやいていた。俺もまさかウソ臭い笑顔の転校生が、崇高で不浄無き魂の終着点である図書委員になりたがっているとは思わなかったので、その殊勝な志に、それまでの印象を変えねばならないだろう! 図書委員に悪いやつはいない!
だが。
ただひとり白々雪だけは、焦ったようにして声を挙げた。
「あ、あの、先生っ!」
白々雪は珍しく声をうわずらせた。
「ウチも図書委員になるッス!」
担任は眉をひそめる。
「いや白々雪。そうはいっても、いましがたウィトゲンシュタインがなってくれたから、もう人数は足りてる」
「でも、ウチは去年も図書委員だったッスし、なによりウチは三度の飯より本を眺めるのが好きなんスよ! だから先生、ウチも図書委員にして貰いたいッス!」
「本を眺めるのなんて図書委員じゃなくても図書室行けばできるだろう? それにおまえは去年も図書委員だったんだし、今年はウィトゲンシュタインに譲ってやればいいじゃないか」
「う……」
もっともなことを言われて、白々雪は言葉に詰まる。しかしそこは白々雪。すぐに頭を切り替えて反駁する。
「じゃ、じゃあ! ウチがウィトゲンシュタインさんを補佐するッスよ! 日本語に関する知識と語彙力ならそんじょそこらの国語教師よりもあるッスから!」
そんじょそこらの国語教師である担任は、その言葉に苦笑した。
担任も白々雪が去年度のテストですべて満点という異常な数値を叩きだしとことくらい覚えているだろう。そこを否定することはなかった。
「それに規則的には図書委員がクラスに三人いても問題ないッスよね? 最低ひとりとは決まってるッスけど上限は不定事項だったッスよね? 校則にも部活動・委員会に関しての人数制限に準じる規定は第十三条四項にて下限のみ記載されてるッスけど、逆に、ならウチが図書委員になるのには問題は――」
「ああ、わかったわかった」
担任は肩をすくめて白々雪を制した。それから、なぜか、俺の顔をちらっと見て、
「おまえの言いたいことはだいたいわかった、白々雪。だからちょっと落ちつけ。おまえが喋り出すと止まらないのは、先生もわかってるしな。わかった認めよう。図書委員になっていい。経験者だし、おまえは頭も良いから、ウィトゲンシュタインにいろいろ教えてやれ」
「あざッス!」
白々雪はほっと胸をなでおろした。
……意外だ。そんなにも図書委員になりたかったのか白々雪。てっきりヒマつぶしくらいの認識で一年間過ごしてたと思ってた。きっと図書室で平和に過ごすことの魅力がわかってきんだろうな! 俺はおまえを見直したぞ! 今日は良い日だ!
「――じゃあ、つぎは五月に催される生徒会選挙の管理委員だが――」
担任はすぐに話を進める。
たとえ三人になろうが俺が図書委員である事実は変わりない。俺が図書委員でありさえすれば、あとはどうでもいい。俺の平穏は確約されたようなものだ。
そんなことを考えていると、ふと、視線を感じた。
銀髪の転校生――澪が俺をじっと見て、微笑んでいる。
「……なに?」
「ううん。なんでもないよ。これから図書委員同士、仲良くしようね」
白々雪以上に図書室が似合わなさそうな外見――銀の髪の毛先を、指先でくるくる弄びつつ、澪は人懐っこくはにかんだ。内気でも清楚でもない軽やかな雰囲気は俺好みの図書委員ではないので、去年同様、それだけはネックだが。
俺は「よろしくな」とうなずいた。