2話 ゆうとうせいのコイバナシ
澪=ウィトゲンシュタインは、いつも鉄壁の笑みを浮かべている。
笑顔はひとを惹きつける。
そんなこと、ビジネスマンでもない俺でも骨の髄までわかってる。安心を与えるために浮かべ、平穏をもたらすために浮かべ、地位を守るために浮かべるのだ。
はじめその笑みは、ただ身を護るためのものだったのかもしれない。怯えて逃げて、誰かに助けを求めることもできずに、ただ自分の心をたもつために必要な最後の手段だったのかもしれない。
それがいつしか、彼女の武器になっていた。
美少女という言葉がふさわしい顔立ちと、スタイルのいい細身の四肢。澄んだ湖のような長髪に、誰にでも隔てなく接しつつ、誰に対してもつかず離れずの距離。
誰にも好かれ、誰をも好く彼女はとても美しい。
しかし、美しいバラには棘がつきものだ。
そんなこと誰でも知ってるだろう。
興味あるものへの執着。
異常なまでの調査好き。
相手の心に踏み込むことに、躊躇いがない。
だが、たとえ作為的な処世術があろうとなかろうと、澪とかかわっているとそんなことはどうでもよくなる。
こいつほど素晴らしいやつはいないに違いない。
素直で、利口で、とても優しいやつだ。
「ツムギくんはバカだよ……そんなバカなツムギくんだから、わたしはそばにいたいと思うの」
呆れたように言うその言葉に、俺はいつも助けられてきた。
個性の強い俺のまわりのなかでは、そこまで目立つことはない。
控えめに、静かに。
だからこそ俺のことを地に足つけて見てくれていた。
転校生で優等生でストーカーな澪=ウィトゲンシュタインは、ただ柔らかなその手で俺を包み込んでくれる。
そのあたたかな涙を隠さずに。
「だから、安心していいからね。安心して……いってらっしゃい」
口 口 口 口 口
「す―――っごく楽しかったね!」
満面の笑顔ってのはこういうことを言うんだろう。
夕陽を浴びて茜色に染まる山木は、すこしずつ葉を落とし始めている。
夜が近づくにつれ吹きはじめた風に乗って、役目を終えた紅葉がふらふらと運ばれてきていた。
秋風にたゆたう髪をかきあげながら、澪は振り返る。
「ね? 楽しいでしょプロレス!」
「ああ、そうだな」
かつて白々雪と観に行って以来、かなりハマってしまったようで。
いつもの鉄壁の笑みとはすこし違う、無邪気な笑顔を浮かべる澪。歩きながらもこどものようにはしゃぐその姿は見ていて微笑ましい。
かくいう俺もいままでさほど興味はなかったが、目の前で繰り広げられる激闘に興奮もしたし、手に汗握る展開に何度か叫んでしまった。
やるな日本プロレス協会。
「それでね、最後の延髄蹴りなんだけどね――」
クラスメイトたちは澪のこんな表情なんて想像もつかないだろう。
あの優等生が、プロレスひとつでこんなに楽しそうにするなんて。
「おい、歩きながらくるくる回るなよ転ぶぞ」
注意するけど、聞く耳をもたないようで無視される。
澪のマンションまではそれほど遠くないが、プロレス技を解説しながら歩くのはさすがに疲れるだろう。さっきまでの興奮とあいまって、汗で前髪が額に張りついてやがる。
「ほら澪、落ち着いてこれでも飲め」
背負ったバッグのなかからペットボトルを取り出す。
澪はきょとんとした表情を浮かべてから、照れたような表情を浮かべた。
「あ、ありがと」
冷静になったようで、蓋をあけてお茶を一気飲み。
半分以上あった中身があとわずか。会場の熱気もすごかったから、わからなくもない。
「……あ、間接……」
「ん? なんだ?」
「なっなんでもないの!」
ほとんど空になったペットボトルを俺に押しつけて、バシバシと俺の肩を叩く。
変なやつだな。
「で、でもツムギくんが来てくれるのはちょっと意外だったよ。誘っても断られると思ってたもん」
「まあいきなり誘われたら断ってたな」
「え? わたしいきなり誘ったよね?」
あ、やべえ。
白々雪には口止めされてるんだっけか。
「いや、今日の朝に、歌音とプロレスの話題でてたんだよ。だから」
「なるほど。歌音ちゃんもプロレスに興味あり、と……」
間違ってはないが、そんなどうでもいい情報そそくさとメモるんじゃない。
「……ちなみに歌音の興味があるのはプロレスであってプロレスじゃないから、誘っても行かないぞ。むしろプロレスは嫌いだあいつは」
「え? どういうこと?」
「状況が好きなだけで興行が好きなわけじゃない、とだけ言っておく」
「?????」
疑問符を浮かべまくる澪。
わからない自分が悪いのかな、とでも思ってそうな顔をしやがる。
だが安心しろ。それが正常な反応だ。
「俺が行ったのは、たまにはそういう休日もアリかなと思っただけだ。連休にずっと家にいてもなんか寂しいしな」
「どこにも行く予定ないの?」
「ない」
「誰とも?」
「ない」
「梔子さんとも?」
「ない。なんで梔子が出てくるんだ」
「だって……ツムギくんって――あっ!」
唐突に澪が指をさした方向を見ると、反対車線の歩道には梔子の姿があった。
車通りもそれなりにある、市内を走る大通りだ。スーパーや娯楽施設も道沿いにある。誰がいても不思議じゃないし、それは梔子にもまた言えることだ。
梔子はなぜか制服姿だった。
澪が手を振ったが、こちらに気づくことなく狭い住宅街の道に入っていった。
「あ~行っちゃった」
「ま、散歩かなにかだろう。邪魔しちゃ悪い」
「そうだね」
「そうだ」
「それにデートの邪魔されちゃイヤだしね」
「直球だな」
「わたしが一度でも変化球つかったことある?」
「……ないです」
「でしょ?」
えへへ、とはにかむ澪。
「あっ」
と、またもや澪がなにかに気づく。
忙しいやつだな。
視線の先にはとくに代わり映えのしない風景。
誰がいるわけでもない道を眺めていた。
「……ほら、あれあれ」
澪が指をぴょこぴょこと跳ねさせる。
目を凝らしてみるが、とくに気になるものはない。
変哲のない街並みだ。
「も~ほら、あそこだよ」
俺の腕をつかみ、肩に身を寄せて同じ視線で指さす。
ちょっとくっつきすぎな気がするが、まあ問題はない。ないと思いたい。いい匂いするし。
「……あ」
澪の言わんとしてることがわかった。
錆びた看板に、朽ちかけた建物。
そこだけ時が風化したように寂れた佇まいになっている、潰れたパチンコ屋。
「ちょっと寄ってもいい?」
それは紛れもなく、はじめて澪を助けた場所だった。
ところどころひび割れたアスファルトに、かすれた白線。だだっぴろい駐車場には車なんて一台も止まってない。どこかの誰かがスプレー缶で塗りたくった落書きだけが、人の気配を感じさせる。
いつ潰れたのかはわからない。少なくとも、俺が物心ついたときにはこのパチンコ屋は廃墟と化していた。小学生のときは心霊スポットだとか噂されもしていたが、幽霊より野生動物が住んでいそうだ。
「ちょうどこのあたりだよね」
澪は懐かしそうに地面を撫でる。
澪を追ってきた湖の精霊が、自分の想い叶わず溶けてなくなった場所。
「……また、遊びにいかないとね」
その淋しそうな表情が、廃墟にはとても似合うなと思った。
澪はぐるりと周りを見渡してから、目を閉じて息を大きく吸い込んだ。
大通りからすこし離れているから空気は綺麗だ。山に囲まれたこの街は、すこし澪の故郷と似ているらしい。
「ねえツムギくん」
「ん?」
「ありがとうね」
なんだ突然。
礼を言いたいことなんて、さほどあるわけじゃないだろう。
せいぜいプロレス観戦に付き合ったことくらいだ。
それにしては、やけにまっすぐな視線で微笑んでいた。
「わたしね、ここに来てほんとうによかったと思ってる」
「……ま、問題がひとつ解決したからな」
「そうじゃないの。それだけじゃない」
澪はてくてくと歩いてくると、俺のすぐ目の前に立つ。
数秒間目を合わせてから、澪は下を向いた。
綺麗なつむじが見える。
「白々雪さんは変わってるけど一緒にいてて楽しい。歌音ちゃんは素直なとてもいい子だし、梔子さんはすこし嫉妬するところもあるけど、まっすぐなところに憧れる。南戸さんは綺麗で頭がよくて、いつかわたしもこうなりたいなって思えた人ははじめて」
「……そうか」
ただし南戸はやめとけ。
「クラスのみんなもいい人で、わたしにとってこの街がとても楽しい。楽しくて、安らぎがあって、ずっとみんなとこうしていたいって思えるんだよ」
それは……。
俺は、口に出かかった言葉を呑みこんだ。
言えるわけがない。
俺の口から、そんな甘えた言葉は。
ちからを込めて唇を結ぶ俺の顔を見上げ、澪は柔らかい表情で笑む。
「そんな場所を……居場所を与えてくれたのがツムギくんだから。もしそれがわたしじゃなくても、たぶんツムギくんは居場所を与えてくれたんだと思う。ずっとツムギくんを見てたからなんとなくわかったよ。だからね、」
風が、駆け抜けた。
澪の長く艶やかな銀髪が踊った。
髪が乱れることをいとわずに、彼女は少し恥ずかしそうにつぶやいた。
「だから、わたしはツムギくんが好きなの」
まるで遊びに誘うかのような言葉だった。
それくらい、澪の口からでたその言葉は自然体だった。
俺は少年漫画の主人公みたいに鈍感じゃない。
日頃から、俺に対しては気持ちを隠さないでいてくれたのは知っている。自惚れじゃなければそう感じていた。
ただそれは言葉にはっきりと出されていたわけじゃなかった。
だからその恋話は、ここではじめてカタチになったのだ。
カタチになってしまったからこそ、俺は応えなければならない。
「俺は――」
「言わないで」
澪はすこし照れくさそうに笑う。
「ずっと見てきたからわかってるの。ツムギくんが誰を一番に考えてるのかなんて、ちゃんとわかってる。わかってるんだけど……さすがに言われたら泣いちゃうから」
「じゃあ、なんで……」
「伝えとかなきゃって思ったから。最近、ツムギくん変わったでしょ? なにかを覚悟したような表情になったから。いままでみたいな平和主義的なところ、もうほとんどないんだもん。だからいまのうちに、ね」
それは俺にはよくわからなかった。
自分が傷つくのをわかっていながら自分の心を伝えるなんて、俺にはできないだろう。
「……澪は強いな」
「あ、勘違いしてない?」
澪は俺の胸を指先でつつく。
「わたし、別にツムギくんにフラれるつもりはないからね?」
「……え? いや、でもおまえ」
「ツムギくんが誰が好きでも、誰と付き合ったとしても、それでわたしの想いが消えるわけじゃないの。恋愛ってさ、付き合ったから終わりとか始まりってわけじゃないでしょ? 恋も愛も、生まれてから死ぬまでずっと続いてくの。人生のなかでけっして特別なものじゃなくて、どこまでも、なによりも日常的なものだと思うから」
……日常、か。
そりゃあ自分の恋愛が格段に特別なものだとは思わない。
だけど、怒りとか悲しみとか歓びとかとの感情からは、一線を引いたものだと思っていた。たぶん俺は死ぬまでそう思っていくのだろう。
ただ、澪は違う。
恋話も冗話も夢話も、すべて日常のなかの出来事なんだろう。
だからぜんぶを大切にして、素直に生きていけるのかもしれない。
そういうことだと、俺は感じた。
地に足をつけたその思考はとても好ましい。
「そりゃあわたしだって嫉妬するし泣いたりもするけど、それでもわたしはツムギくんが好きだから……だから、この想いが自然と消えるまではあきらめないよ。いつか、ツムギくんの唯一になりたいから」
だから、それまで待ってるから。
そう言われた気がした。
俺がここで澪を否定することは簡単だろう。
バカだろ、とか。
無理すんな、とか。
だが俺のそんな言葉には中身がない。
いま、ここで澪の想いを受け入れられない以上はなにかを言う資格もないし、言いたくもなかった。
澪のその気持ちは、なによりも眩しかったから。
「……すまん」
「謝らないでよ。わたしがやりたいようにやってるんだから」
ありがとう。
礼もいらない、と言われそうだから心のなかでつぶやいておいた。
「でもやっぱり告白するってドキドキするよね」
「さあ……したことないし」
「ツムギくんは一生縁がなさそうだよね。チキンだから」
「うるせえ」
唇をとがらせると、澪は「拗ねないの!」と楽しそうに笑う。
その笑顔は、鉄壁でも完璧でも満面でもない。
だけどいままでで一番、惹かれるものがあった。
「あ、そうだ。ねえツムギくん、晩御飯予定ある? うちで一緒に食べない?」
「いや、今日は歌音がクレープ作るから味見しろって。あと話があるから、とか言ってたな」
「歌音ちゃんクレープ職人が夢だもんね」
「ああ。中学卒業したら本格的に留学するってさ」
「そっか。じゃあお兄ちゃんは帰らないとね」
「そうだな。すまん」
「いいの。むしろツムギくんが優しいお兄ちゃんで安心かな」
澪は鼻歌混じりで俺の先を歩いていく。
はたから見れば、たしかに日常のできごとにしか見えなかっただろう。
なんの代わり映えのない風景で。
なんの変哲もない休日で。
ただ遊びに行った帰り道。
そんな景色のなか、俺は澪の細い背中に語りかける。
聞こえないだろうけど、小さな声で。
「やっぱりおまえは強いよ」
彼女はうっすらと目尻に浮かんでいた涙をこぼすことはなかった。




