9話 愛情表言
「……母さん、聞きたいことがあるんだ」
「どうしたの紡、改まって」
日も暮れて、蛍光灯の明かりが白く染める病室。
面会時間はとうに過ぎているけど泊まり込みは許可されていて、現に母さんは泊まり続けている。仕事場と家の往復が、仕事場と病院の往復になってからすでに一週間。
学生はもうすぐ夏休みが終わる。
そろそろ二学期が始まると考えるとそこそこ憂鬱だった。
俺はこの春から夏にかけて、いろんなことを経験した。
詐欺師に騙され、神様を消し、親娘の絆を絶ち、妖精を浄化させてきた。
そして妹が妖怪を招いた。
もう充分だ。
もう充分。平和と平凡を愛する俺には容量過多のはずだ。ここらで手を引いて、ただ漫然と過ごすことが俺らしい生き方だろう。
けど、それじゃあダメだ。
いまやらなければならないことがあるんだ。
ずっと逃げてきた。
向き合うことから逃げてきたからこそ、こんな事態を生んだのだ。
だから、こうしなければならない。
これは俺の妹――久栗歌音の物語でもあると同時に、その母――久栗舞華の問題でもあったのだから。
「ひとつだけ聞かせてくれ。あんたは歌音のこと……どう思ってるんだ?」
口 口 口 口 口 口
俺が梔子屋敷から病院に戻ってきたときには、すでに母さんがいた。
さすがに病室にはクーラーがついているけど、それもエコ運転の二十八度だ。設定温度をはるかに凌駕する夏の暑さを十全に防げるわけもなく、汗がにじむ歌音の体を母さんが濡れタオルで拭いている途中だった。
「紡、着替えさせるから手伝いなさい」
薄手のパジャマに悪戦苦闘する母さんに、俺はうなずいた。
たしかに妹が汗だくなのは嬉しくない。母さんが服を脱がせていくのを横目で見て、鞄のなかから新しいパジャマを取り出す。そろそろ中学生にクマのパジャマを着させるのはさすがにやめておいたほうがいい気がするぞ。まあ、だからといって着させないわけにもいかないけれど。
着ていた服と下着はあとでコインロッカーに持っていく。籠のなかに放り込んで、俺は部屋の隅の椅子で本を広げた。
やはり、歌音に起きる気配はない。
母さんは音楽プレイヤーを取り出してなにかを聞き始めた。仕事のためのものだろう。指先でなにかリズムを打ちながら、台本のような書類に目を通す。
しばらくすると看護師の女性が、点滴を取り換えにきた。
目が覚めないので食事は点滴だ。『歌音、いつかFカップになるんだよ!』とか言ってたくせに、このままじゃ体中の脂肪がなくなるぞ。ただでさえ控えめな胸なのにいいのか歌音。
とまあ、そんなこと伝えても起きるはずもない。
どうせならそれで起きてくれればありがたいんだけどなぁと思いながら、俺は日が沈んでいくのを日差しで感じていた。
歌音は点滴でいいかもしれないが、俺と母さんはさすがに食べないと死ぬ。
病院には備え付けの食堂がある。夜の八時までやっているので、日が暮れたころに二人で向かって味の薄い食事を摂った。薄い味付けもべつだん嫌いじゃない。
いつもならそのまま俺は家に帰るところだ。さすがに俺まで歌音の病室にいる必要はないし、簡易ベッドはひとつしかない。母さんにすべて任せるのが決まりだった。
でも、俺はその日、病室に戻った。
やることは決まっていた。
「……母さん、聞きたいことがあるんだ」
「どうしたの紡、改まって」
このまえ歌音は、初めて母さんに反抗してみせた。その結果がこれだとしても、それは歌音にとって意味のある決意だったのだろう。
かくいう俺も母さんとまともに喧嘩したこともなかったし、つまり本音で語り合うことなんてなかった。これまで冗談でのらりくらりと説教をかわしてきたから、今回のことにちょっと緊張していたのかもしれない。
それが態度に出たのだろう。
母さんも体を固くして、姿勢を正した。
「ひとつだけ聞かせてくれ。あんたは歌音のこと……どう思ってるんだ?」
のどが渇いていたせいか、声はすこしかすれていた。
「どうって……いきなりなんなの?」
母さんが疑問に思うのも無理はない。
ただこれだけは聞いておかなければならないと思った。
俺はいままで歌音とばかり仲良くしていた。そりゃあ母さんは仕事であまり帰ってこないし仕方ないのかもしれない。
ただそれゆえに、歌音は俺にべったりになってしまったのだろう。
俺の責任もある。もちろん、母さんの責任もある。
「母さんは、歌音のこと、どう思ってるんだ?」
「なんであんたにそんなこと言わないとダメなのよ」
不審な顔をされた。そりゃそうなるけどさ。
俺だっていきなりそんなこと聞かれたら、同じような反応を返すだろう。そこに籠っている感情は俺も母さんも同じで、気恥ずかしくて言えるわけがない。
でも、流行らないんだよ。
ツンデレはもう流行らない。
「理由が必要か? なら言ってやるよ。俺は歌音のことが大切だった。大事な妹だし、いつも一緒にいたからそれだけの思い入れがある。歌音には本音だって言えるし説教だったできる。それが行き過ぎた愛情に繋がってたとしても、俺はこいつと仲良くしてたこと、後悔してねえよ」
ベッドで眠る歌音を眺める。
すやすや寝息を立てて、幸せそうだ。
母さんは落ち着いていた。
「……それで?」
「翻って母さん、あんたはどうだ? 歌音とはあまり仲良くしなかっただろ? そりゃあ仕事もあっただろうし、育児上の考えもあっただろうよ。……でも、その結果が歌音との溝を生んだんだよ。後悔してねえはずがねえよな?」
「それは……」
母さんは言いよどみ、俺と同じように歌音の寝顔を眺める。
献身的に歌音の世話をしている母さん。ほんとうは仕事だって全部休みたいだろう。この一週間、いつもより遅くにここを出てはやくに帰ってくるようになった。
「……当たり前じゃない」
力なくつぶやいた母さん。
歌音がこんな状態になったことを一番悔いているのは母さんだ。
喧嘩した直後にトラックに轢かれ、目が覚めなくなった。あのときもっと上手に歌音を叱ることができていれば、こうはならなかったのだから。
「でも……どうすればよかったのよ……」
弱気につぶやく母さんは珍しい。
むかしから不器用なひとだとは思っていた。
俺や歌音に対する愛情を言葉にすることはない。優しく褒めることも滅多になければ、一緒に遊んだりすることすらない。
あのときああすればよかった。
そんな後悔は日常茶飯事なのだろう。
深く沈んだその言葉に、俺は、重たい何かを感じた。
「ねえ……教えてよ紡。母さんが間違ってたの? あのとき歌音にどういえばよかったのよ? あんたを好きでいいって認めてあげればよかったの? 応援してあげればよかったの?」
どうすればよかったかなんて俺にわかるはずもない。
それすらこの人には、いまのこの人にはわからないのかもしれない。
そうやって母さんの思考がぐるぐると同じところを回っていたことに、俺は気づかなかった。
あのときああしなければよかった……そんな後悔をするだけで止まっていたのだ。
「母さん、それは考えても仕方ないだろ」
「じゃあ、どうしろっていうのよ!」
この一週間、母さんはこんなことばかり考えていたのか。
我慢していたのだろう。渦巻いた感情をぶつけることもせず、病院と仕事場を往復して、仕事に没頭するか歌音の世話をするか、そのどちらかに身を預けて過ごしていた。
いまになって溢れだした感情を、抑えられないくらいに。
母さんは俺の肩を掴んだ。
「どうすればいいのよ! いまさらなにか言ったって、事故がなかったことになるわけじゃないでしょ!? なら、考えないなんてできるわけないじゃないの! あたしのせいで歌音は死にかけたのよ!? それを、考えないなんてできるわけないじゃない!」
ぎりぎりと、腕に力を込める。
わかってる。
思考の行き場がなくて、どうしようもないことを考えてしまうってことくらいわかってる。
……でも。
「俺が言いたいのはそうじゃねえんだよ母さん。たしかに、母さんが歌音と喧嘩しなけりゃこうなってなかっただろうし、もう少しうまく言ってれば歌音が自分の殻に閉じこもることもなかったかもしれない。……でも、大事なのはそこじゃないんだ」
俺は母さんの手を握る。
「歌音にとっての母さんと、母さんにとっての歌音は違うんだ。母さんは歌音のことをどう思ってた? 大人しいお兄ちゃんっ子か? 本当の歌音は活発で、クラスの中心になるような子だってことくらいは知ってただろ? 母さんに対するあいつの弱気な態度がおかしいってことくらい、気づいてただろ?」
「それは――」
「歌音は母さんのことが怖かったんだよ。そりゃあ、母さんは『鬼の歌姫』だから、怖がられることに慣れてるかもしれねえ。でも歌音にとっての母さんは歌手でも暴走族の総統でもない、ただの母親なんだよ。母親にあそこまで萎縮する子がまともに育ってると思ってたのか? そう思ってたんなら――」
「思ってるわけないじゃないの!」
強く遮られる。
俺は口を閉ざした。
「母さんだって……あたしだってどうにかしたいと思ったよ! 歌音に会ったら褒めてあげようとか、歌音に会ったら笑ってあげようとか、いろいろ考えてたよ! でもうまくいかなかったんだよ……うまく褒めてあげられたかもわかんない、うまく笑ってあげられたかもわかんない。歌音が……歌音はあたしに笑ってくれたこと、ないんだから!」
悲痛な声だった。
母さんの目尻に、かすかに浮かぶ涙。
自分の娘に笑いかけてもらったことがない母。放任するがゆえに、あまりにも離れすぎた距離。
苦しんでいたのは歌音だけじゃなく、母さんもだった。
「なら……」
それなら、なおさらだ。
「笑いかけてくれるよう、これから努力すればいいんだ」
「あたしだって努力したい! でも、どうすればいいのか、わかんないのよ!」
「歌音にぶつければいい。その感情を、その気持ちを。てゆうかな、本音でぶつからないでなにが親子だよ。友達みたいな親子? 反抗期がない? そんなもんクソ食らえだ! 家族ならぶつかってなんぼだろ? だから話してみろよ。伝えようとしてみろよ」
「でも、歌音にはもうあたしの声なんて――」
「届く」
俺は、母さんの手をさらに強く握りしめた。
「聞こえなくても届くんだよ。母さんの声なら、歌音にきっと届く。まだ遅くない。きっと間に合うはずだ。歌音を誰よりも近くで見てきた俺が言うんだ……俺を信じろよ、母さん」
「……紡……?」
戸惑っているようだ。
ふだんなら、なにかを信じろとかそんなこと言うことのない俺だ。母さんが驚くのも無理はないだろう。
だから、あともうひと押し。
「言っとくが、俺は歌音のことが好きだぞ。もちろん母さんのこともな」
なんだかんだ言っても、自分で言うのは少し恥ずかしい。
でも恥ずかしがってる場面じゃねえ。
「俺は小さいころから、あんたの背中を見て育ったよ。暴走族時代の友人たちも、歌手になってからの友人たちも見てきた。いろんなあんたの顔を見てきた。どっちも嘘のない本物のあんたの顔だったな。俺はそんなあんたが怖かった時期もあるし、ムカついた時期もあったよ。俺の反抗期は歌音が生まれるまでに終わったけど、それからだっていろいろ考えてた時期はあったし、いまもこうやって考えてる」
こうして語ることも、ようやくできた。
「俺は家族ってのが好きだ。父さんはなかなか帰ってこないけど、それでも毎週手紙とかくれるよな。顔も見せないからまともな父親としては認めづらいけど、いい人だとは思ってるし嫌いじゃない。歌音はかなりぶっ飛んでるけど、やっぱり血の繋がった妹だからなによりも大切だって思える。こいつを失うことなんて考えられないくらい俺は歌音のことが好きだ。……ああ、もちろん、家族って意味でな?」
じっと、母さんは俺の目を見つめてくる。
不安や戸惑いは当然。
むしろそれが見えるからこそ、家族だろう。
「母さんには感謝してるぞ。俺たちを産んでから、ほとんどひとりで育ててくれた。仕事に熱心になりすぎるところは俺からすれば寂しいときもあったけど、そんな母さんだからこそ、俺は好きだった。だからいまさらあのときどうすればよかったとか、優しい母さんだったらよかったとか、そんなこと思ったりしねえよ。歌音がこんなことになったいまでも、母さんが母さんでよかったと思う」
「……紡……」
「母さんはどうだ? 俺のことをどう思ってる? 歌音のことをどう思ってる? 俺はそれを言って欲しいんだ。いくら心で想っていても、言葉にしなけりゃ意味がないんだよ。言葉ってのはすごいんだぞ。俺はこの一年で言葉の凄さってのを知ったんだ。言葉の大切さを学んだんだ。……あんたも歌手なら、それくらいわかってるんじゃないのか?」
そうだ。
いままでの俺なら、こんなことは言わなかっただろう。
歌音が目を覚ますまで、なにもしないで待っていただろう。
だけどこんなアホみたいに平和主義の俺だって変わる。
コトバが俺を変えてくれたんだ。
なら、母さんの言葉で変わることだって、あるに違いない。
「歌音……」
母さんは歌音の髪を撫でる。
愛おしそうに、優しく撫でる。
「歌音……母さんもね、あんたのことがちょっとだけ怖かったのよ。嫌われてると思ってたし、いまでもそう思ってる。ほんとは、あんたが紡に見せるような表情を見せてくれなくてすごく悲しかった。紡ばかりずるいって思ってたときもあったよ。あたしだって娘に愛されたい……それくらい母親なら思って同然だろう?」
いままで見たことのない、柔らかな表情だった。
慈愛に満ちた母の声は、まだ歌音が幼いころには時々聞いていた声だった。やがて獅子の子落としを子育ての指針とした久栗舞華には必要なくなった愛情表現。手中の珠を愛でるような、優しく慎重なささやき声だ。
「歌音、紡……あんたたちは、あたしにとっての宝だよ。自分よりも大事なもんがあるって生まれて初めて思ったんだよ。……でもね、こんなことあたしには言えなかった。もし言って嫌な顔されたらきっと立ち直れないって思ってたから。あたしは、怖かったから」
「……。」
俺は母さんの肩に、手をそっと置いた。
「いままで母さんはね、昔の自分のことを子どもだと思ってたんだよ。大人に反発したくて暴走族率いて、こんどは歌手になって誰かを見返したくて歌って、紡が生まれてからはがむしゃらに子育てして、それから歌音が生まれて。あたしそのとき、いままでの自分が子どもみたいだって思ったんだよ。紡を育ててたときなんかろくに考えずに行き当たりばったりでさ。だからこんどは、ちゃんと大人の子育てをしようって思ってたんだよ。歌音のために、歌音と紡のためにと思ってさ。……でも結局、なにも変わってなかったんだね、あたし」
自立させるために放任していた母さん。
それは俺たちのためを思ってやったことには違いない。
でもそれは、歌音には関係ないことだった。
「あたしの考え方そのものが子どもじみてるって気づかずにさ、ただ紡にあんたを押し付けちゃってたんだよね。あんたがどう思うかなんて考えずに、考えようともせずにさ。ごめんね歌音……母さんが間違ってた」
頭を下げた母さん。
眠った娘に謝る。
「いままでのこと、許してくれとは言わない。それに、あんたが紡のことを好きだって言った言葉を肯定しようとも思わない。それはあんたに嫌われても紡に嫌われても、曲げられないことだからね。だけど、どれだけ嫌われても母さんはあんたの母さんなんだよ。あんたが知らなくても、あんたのことを世界で一番大切に思ってる。面と向かってはうまく言えないかもしんないし、同じこと繰り返しちゃうかもしんないけどさ……それでもあたしは、歌音のこと愛してるから」
眠る歌音の手を、両手で握りしめる母さん。
……俺も、少し勘違いしていた。
母さんだって同じなんだ。
大人だからとか、子どもだからとか、関係ない。苦しんで悩んで、相手とどう接するか決めるんだ。その決めたことに後悔しながら、また少しずつ考えていく。その繰り返しだ。
もしかしたら、俺に対してもこんなに悩んでいたのかもしれない。いままでふつうに接してきたつもりだったけど、母さんだってどうすればいいのか、必死だったのかもしれない。
それがたまたま、歌音とはうまくいかなかっただけ。
でも、失敗はやり直せる。
それが親子ってものだから。
「ねえ歌音。あんたに聞こえてるかわかんないけどさ。これだけは言っておくよ」
母さんは一筋、涙を頬に伝わせた。
目の覚めない娘に、なにかを一生懸命伝えようとしているのがわかる。
歌姫と呼ばれる彼女の綺麗な声が、震えていた。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
ぽとり、とシーツに落ちた涙が滲んでいった。
静寂が再び病室を包んだ。
歌音からの返事はない。
これで目が覚めることはなかった。少しは期待したけれど、やはり歌音の夢はまだ覚めない。
……でも、わかっていたことだ。
母さんは小さく息を吸い込んでから振り返る。
「ねえ紡。母さんが歌音をどう思ってるか……ちゃんと伝わったかな? 歌音に伝わったかな?」
「ああ」
俺は迷わずうなずいた。
そしてちらりと部屋の隅を見る。
そこで俯いて立つ、もうひとりの歌音を見る。
あいつに聞こえたのなら、歌音にも聞こえているはずだ。
伝わったはずだ。
だからいまは、これでいい。
「……そうだ母さん」
俺も忘れないうちに言っておこう。
大事な言葉を、大事なうちに。
「なんだい紡?」
「歌音を産んでくれて、ありがとう」
きょとん、という顔をした母さん。
歌音が生まれていなかったら、俺という人間はここにいなかっただろう。いまの俺があるのは母さんが歌音を産んだからこそなのだから。
俺の言いたかったことが伝わったかわからない。
伝わらなくても、べつにいい。
でも、母さんは笑った。
「……どういたしまして、紡」
にっこりと笑って、そう答えた。




