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頼むからあの娘のべしゃりを止めてくれ!  作者: 裏山おもて
3巻 ゆうとうせいの、コイバナシ

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9話 急いては事を過つ


『待って』


 駆けだそうとした俺の腕を、梔子が掴んで止めた。



 梔子の手から離れた釣り竿が、波に引かれて海に落ちた。


 歌音がそれを見て、慌てて自分の竿で引き寄せようとする。そんな歌音が海に落ちないように白々雪が歌音のからだを抱えた。奮闘しつつ釣り竿をサルベージしようとするふたりの姿は、波の音と混ざり合って遠いスクリーンに映っているかのようだった。


 梔子は俺の目をじっと見つめる。


「なんだ梔子。俺、行かねえと――」

『わかってる。わからないけど、わかってる』


 梔子はながい前髪の下から、じっと俺を見据える。

 まるで突き刺すように、まるで澄んだ川の底を眺めるかのように。


『久栗くんはいつだってそう』


 梔子のメモ帳が、海風に吹かれて揺れる。


『最初からそう。私、少しだけ思い出した』

『久栗くんのことはずっと前から知ってたってこと、思い出した』


 梨色のそのメモ帳に込められた言葉は、いつも強い。


『入学式で出会う前から、久栗くんは久栗くんだったってことを知ってた』『だからかな、私、久栗くんのことが怖い』

『いつかどこかに行くんじゃないかって、怖い』

『勝手に無茶して、消えてしまうんじゃないかって』

『私に憑いてた神様を追い払ってくれたときも、ほんとうは怖かった』『……騙したことを怒って、私の前から消えてしまうんじゃないかって……』


 強い言葉には、いつも惹きこまれそうになる。

 慌てて首を振った。 


「梔子、いまはそんな話してる場合じゃないんだって」

『わかってる』


 梔子はうなずく。


『わかってないけど、わかってる。澪さんのことで必死になってるのはわかってる』

『そういうところが久栗くんなんだ、ってわかってる』

『だけどそれだけじゃ怖い』

『お願い、久栗くん。焦らないでちゃんと私を見て』

『こっちを向いて。これだけは聞いて』

「…………梔子」


 顔を両手で挟まれる。

 ぐいっと、梔子の瞳を、髪越しに見つめた。


 恐怖。羞恥。憤怒。


 梔子の瞳には、そのどれでもないものが宿っているような、そんな気がした。

 あるいは気のせいなのかもしれないけれど。


『――いつもみたいに落ち着いて考えて。なにかあったら、私を呼んで。ただ呼ぶだけでいい。それだけで、私はあなたのもとへと駆け付けるから』

「…………わかった」

 

 うなずくと、手を離された。


 行け、ということなのだろう。梔子はコクリと首を動かした。


「ありがとう」


 俺は駆けだした。もう失敗はしない。

 さっきよりも冷静になって、考えを纏め始める。

 







 なぜ記憶は、薄れていくのだろう。


 無論、記憶のなかでも薄れないものもあるし、そもそも忘れにくい人もいる。白々雪なんかはその最たる例だ。頭に記録したものを忘れない。無作為に保存する。だから知識さえあればなんでも解ってしまうし、あまりに明細に記憶するため、そこに主観を挟まずに客観的に判断してしまう。


 記憶とはなにか。想い出とはなにか。


 俺は、あまり過去を大事にしてこなかった。


 白々雪と神様。

 澪と妖精。

 梔子と神様。

 詐欺師と嘘。


 いままでそういったものは、もう起こったこととして忘れていた。なぜそれが起こったのかは、終わってしまえば考えない。考えるのを放棄していた。楽だから。


「くそっ!」


 走る。

 俺は海岸を走っていた。

 閃きは確信に近かった。

 いままで澪として見ていた妖精の正体の破片を、俺は見落としていただけだった。


〝入れ替え妖精〟


 そもそもの始まりは、四日前じゃなかった。


 ドイツの湖。

 澪がどうして湖の妖精に恋されることになったのか、考えてこなかった。なぜ妖精にストーカーを受けるのか、ちゃんと向きあわなかった。解決したことに喜んで、対決したことを忘却して、完結したと思い込んでいた。


 澪の本質はなんだ?


 優等なことか? 敵を作らないことか? それとも、ニコニコ笑っていることか?

 ちがう。そのすべてを作り出す澪の資質こそが、今回の鍵だった。


 彼女が〝ストーカー〟だということ。


 ムンメル湖でなにをしたかはわからない。だが、なにかをしていた。旅行にいく先をくまなく調べようとするのは彼女の癖のようなものだと、オーストリアの友人はブログで言っていたと、南戸が教えてくれていた。

 そのせいで妖精が澪に惹かれたことも。

 ……なら、今回の旅行もそうだと、どうして俺は気付かなかった。


「澪っ!」


 別荘のなかを、注意深く探す。

 なにか痕跡がないか。

 必死に探す。完全に消えたわけではないだろう。澪として妖精が入れ替わっていなければ、まだ〝入れ替え妖精〟は最終段階に達していない。


 俺は澪が持ってきたボストンバッグを、少し躊躇ってから、開けた。


 着替え。ドライヤー。化粧セット。

 それらには興味はない。あるのは――


「……あった」


 日記のようなものが、鞄の底にあった。

 簡単なスケジュール帳だった。

 白の表紙に、栗のシールが貼ってある。その手帳を開いた。


 8月のカレンダーの真ん中あたりに、『旅行→ ~ ←ここまで』と書かれてある。

 それはいい。

 見るべきはその前。


「――やっぱり!」


 旅行が始まる数日前。


『調査日』


 と小さく書かれていた。

 調査。

 なにを調査するかは明白だった。敵情視察、安全確保、知識補填。

 この別荘の周囲を調査しに来たのだろう。

 ほかになにかないかと探すと、スケジュール帳の最後の自由欄に、箇条書きでいくつか書かれてあった。


・別荘は異常なし。鍵は久栗家が管理しており、数年前にとり替えた形跡。安全。

・海は遠浅になっているけど、歌音ちゃんの身長では届かない。注意が必要。

・岩場には警戒心の緩い魚がいる。釣りもできるかもしれない。

・灯台の崖は危険。用がなければいかない方がいい。

・林道の横道の先、小さな祠がある。精霊を奉る社らしい。幽霊がいるという噂。

・地元のひといわく水晶の洞窟があるらしい。探したけど見当たらず、断念。

・近くにスズメ蜂の巣があったので駆除業者に頼んでおいた。当日までには安全確保。

・一年間使われてない別荘だったので、不自然に思われないように軽く掃除した。


 などと、いろいろ調査の内容が書かれてあった。

 少しでも俺たちが安全に楽しめるよう、自分なりに調べていたのだろう。誰にも気づかれずに他人のために気を回す。いかにも澪らしい振る舞いだ。その理由が、調査しないと気が済まない性癖だとしても。


「……くそ」


〝入れ替え妖精〟の妖精の狙いはなんだ?

 俺は自問する。


『誰にも気付かれず、人間と入れ替わること』だ。

 俺は自答する。


 なら、澪に羽が生えたことで入れ替え妖精が始まった、というのはおかしいだろう。


 そしてそれなら〝修理屋妖精〟が入れ替え妖精だというのも、また違ってくる。

 じゃあ、なにが入れ替え妖精なのか。


『――荒れる海を鎮めるために、あそこでは若い娘を人身御供に捧げていた習慣があったとか。海神様の怒りをなだめるという名目の生贄――』


 海の精霊を奉る社。

 娘を供養するための水晶壁の祠。


 ……俺は最初から、知っていたのに。

〝修理屋妖精〟は人間のなにかを直すために憑く、と聞いたのに。

 羽を生やし、こびと化し、明らかに異常な事態を示してくれていたのに。


 異常な事態に慣れてしまっていた俺は、楽観的になってしまっていた。


「アホか、俺は」


 澪が調査にきた日から、今日でちょうど――――七日目。


 この旅行の最初から、澪は澪じゃなかった。


 調査にきたことも忘れていた。

 羽が生えたことにもこびと化したことにもあまり関心がなかったのは、そういうことだった。


〝修理屋妖精〟が憑いていたのは、澪らしい振る舞いを真似ていただけの〝入れ替え妖精〟だということに、まったく気付かなかったのだ。


「澪……まだ消えるんじゃねえぞ!」


 俺は手帳を握りしめて、別荘を飛び出す。



 手帳の調査結果の最後には、跳ねるような字で、こう書かれてあった。



『みんなと旅行。すごく楽しみ』


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