7話 疾風に勁草を知る
暑いか寒いか、どちらが好きか。
そう問われたら即答する。どっちも嫌いだ。
「……あづい」
ましてや炎天下の灼熱ビーチなんてもってのほかだ。これで周囲にわんさか人間がいれば発狂してしまいそうなほどだが、それだけは安心だった。プライベートビーチと化してるこの海岸には、人影はまったくない。
パラソルを砂浜に深々と突き刺して、その陰で寝そべる俺。ペットボトルのスポーツドリンクを枕にしつつ、にじみ出る汗をぬぐう。
「おまたせッス」
「……ん?」
寝転んだまま視線を上げると、パラソルに隠れた足が見えた。すらっと伸びた長い足。
足はすらりと細いが、やはりそれなりに肉感があるのはこいつの特徴だろう。ほどよくついたぜい肉と筋肉のバランスの良い四肢でパラソルを傾けて、その姿を見せる白々雪桜子。
輝く赤いビキニ。
豊満な胸には、少しばかりの汗の玉を浮かび上がらせていた。川の清流で冷やしたスイカのようだという感想は心にとどめておこう。食欲がわいてきたら俺はもう終わりだ。
腰回りもほどよく締まっている。スタイル抜群とはいかないが、だからこそ蠱惑的な体つきに感じる。
「おい白々雪。あとでオイルでも塗らなイカ?」
「いらないでゲソ」
と俺的浜辺でやりたかったやりとり第一位を以心伝心に素早く交わし、白々雪は俺の横にごろんと寝転んだ。
仰向けに無防備な体勢をとり、俺を挑発的な目で見てくる。
そんなあからさまな態度に俺の理性が揺らぐなんて天地転覆。
「――ってなに自然に胸触ろうとしてんスか!」
「ハッ!? いつの間に! おまえの胸って重力あるんだな!」
「ひどい言い訳クオリティ!」
もちろん冗談だ。
うん。冗談だぞ?
「……で、梔子と歌音は?」
「歌音ちゃんはそろそろ来るッスよ」
白々雪のいった通り、ざざざざざと砂を蹴る音が猛烈な速度で近寄ってきて、パラソルが弾き飛ばされる。
ふわりと浮く安息の道具。
ああ、風に揺られて落ちていく。
「兄ちゃん! その魔女にはたぶらかされちゃダメ!」
「たぶらかされてねえよ」
たぶん。
白々雪を睨む歌音が装着しているのは、中学のスクール水着。形状は一体型の現代版だ。個人的な好みとしては旧式がよかったのだが、それは時代の流れだから仕方がない。
しかし驚くなかれ。歌音が身につけているのは、なんと白のスクール水着である。
紺色水着は可愛くない! と入学当初に校長に何度も直談判し、白水着を実現させたらしい。歌音のその執念はすさまじかったらしく、いろんな意味で歌音の名前は中学内に知れ渡っているようだ。水着ひとつでなんといことを。暴走癖は相変わらずだ。まったく、誰に似たんだか。
とにかく白の水着は、歌音がゴリ押ししたように、とても似合っている。
昨日泳いだのもあるだろう。健康的に焼け始めた肌にはとくにベストマッチ。
どうだ。世界で一番可愛いだろう、俺の妹は。
「……兄ちゃん、そんなに見つめられると歌音我慢できないよ。だからいっしょにそこのトイレまで――」
「海入って頭冷やしてこい」
「歌音の火照った体は水じゃあ冷めないよ!」
「安心しろ時間が解決する。だから行け」
「ふん! 兄ちゃんのべー、だっ!」
海に駆けていく歌音。波にむかって正面から飛び込み、ケホケホとむせていた。
まだまだ子どもだな。
俺はまたパラソルを砂浜に突き立てて、その陰で白々雪と寝そべる。
「それで、梔子は?」
「さあ。歌音ちゃんが遊び呆けてるのに気付いてるなら、昼ごはんでも作ってるんじゃないッスか?」
「そうか。やっぱ梔子は家庭的だな」
「まだ仮定ッスけどね」
ただ昨日の様子を見る限り、それで間違いなさそうだ。
白々雪は頭を持ち上げて周囲を見渡した。
「で、澪ちゃんはどうしたんスか?」
「ああ、ここだ」
俺は、すぐ隣に置いてあった小さなクーラーボックスを開ける。
中には保冷剤がいくつかと、銀色の小さな妖精がいた。
「……シュールッスね」
「涼しいからいいの!」
蓋があいた瞬間に白々雪と睨み合った澪。
もちろん、彼女も水着姿だ。
トップには露出が少ないタンクトップ型水着、下にはパレオが巻かれてある。いわゆるタンキニというやつだろう。薄い青に、群青色を混ぜたような色合いだ。
こびとサイズの水着を即席でこしらえた梔子の器用さは驚くべきものだが、それを着こなす澪はやはりスタイル抜群で麗しい。どこぞのモデルのように長い足は、ちいさくなってもすらりとした曲線美を描いていた。水面のように光を反射する肌は、澪の美少女っぷりを引き立たせている。
「ん!」
と、澪は白々雪を睨んで口を閉じたまま、両手を突き出した。
俺は澪をそっと抱えて、肩に乗せる。
「ほんとに泳ぎたいのか? おまえにはいささか波が高いが」
「もちろん! 浮き輪もあるし、大丈夫よ!」
そういえば小さな浮き輪も梔子に作ってもらってたな。
「じゃあ白々雪、澪とあっちの岩礁の影で泳いでくるから、歌音が来ないように見張っててくれ」
「わかったッスよ。いってらっしゃい」
ひらひらと手を振る白々雪に送り出されて、俺と澪は灼熱地獄のなかに出る。
暑い。さっさと海に入ろう。
元気に沖の方まで泳いでいく歌音にばれないよう、こそこそろ岩礁地帯へと足を進める。ふと視線を感じて振り返り別荘を眺めると、窓から人影が覗いていた。梔子だ。表情は見えない。
ぎゅっと髪を引っ張られる。
「ツムギくん、泳ぎ教えてね」
「え、おまえ泳げないのか?」
「うん」
「……おいおい、絶対浮き輪離すなよ」
そのサイズで溺れられたら見つけられる自信がない。
ほどよいところまで歩いてくると、俺は海に入った。気持ちいい。あまり海は好きではないが、嫌いでもない。疲れるのが嫌いなだけだ。
腰まで海水につかると、澪をゆっくりと降ろした。
浮き輪は正常。ちゃんと海面を漂う澪。
「わあ! すっごい大波!」
さざ波程度なのだが、そこはこびとサイズ。波のプールではしゃぐ子どものように歓声を上げた。押し寄せる波に体をゆだね、てっぺんで目を輝かせると、水の斜面をすべり降りながら嬉々とした悲鳴を上げる。
ここまではしゃぐ澪は初めて見た。小さくなって、感情がすこし開放的になったのかもしれない。
微笑ましくながめていると、
「ツムギくん! もうちょっと深いところまで行こうよ!」
「……いいのか? 俺が素早く動けないとこだと、危ないぞ」
「いいの。なんだかここの海で溺れる気がしないから。わたし、覚醒めたかも」
「開放されすぎだろ内なる自分」
まあ浮き輪は万全みたいだし、澪のわがままを聞くのが今回の目的だ。
俺は肩まで水に浸るほどに進む。
澪と同じ目線になった。
「じゃあ泳ぎ、教えてね」
「はいよ」
俺の指を両手で掴んで、澪はバタ足の練習を始めた。
ゆっくりと引っ張る。澪がバタバタ足を振る。たまに離すと、その勢いのまま進む。でもすぐに足が下がって浮き輪に頼ることになる。その繰り返し。
とはいえ、澪はなかなか運動神経が良かった。浮き輪をつけたままなら綺麗なフォームでバタ足を継続できるようになった。あとは浮き輪を取って、息継ぎをしながら泳ぐ練習だが、そこまで本格的にやらなくてもいいだろう。
「ちょっと休憩」
と、澪は俺の肩に腰かけて、髪の毛を掴む。
ちょっとした離れ島と化した俺の肩。こんな体験もうすることはないだろう。
「ねえツムギくん。楽しい?」
「ん?」
澪らしからぬ質問だった。
少し回答に迷うが、正直に答えておく。
「まあまあだな」
「ならよかった」
「よかったのか?」
「うん。つまらないって言われたら、ちょっと傷つくとこだった」
照れたように笑う澪。やはりいつもの澪ではない。
ってことはこれが妖精の見せる表情なのだろう。無邪気に照れる澪。普段はニコニコした笑顔でそれなりに表情は隠れている。だから、これはこれでもったいないような気もする。
意外といまの澪も可愛いのに、と思う。
「……しょっぱいな」
「そうだね。なんで海って塩水なんだろう」
「そうじゃな……いや、そうだな、うん。なんでだろうな」
無意識の言葉を、誤魔化す。
そういう議論はまたあとで白々雪とやってくれ、と言葉を付け加えて、俺は澪を頭に乗せた。澪が髪の毛にがっしり捕まるのを確認して、すいすいと泳ぐ。頭の上で澪が「わーっ! はやいね!」とまた嬉しそうな声を上げていた。
しばらくそのまま泳いだり、またゆっくりと波に揺られて話をしたり。
小さな澪とのふたりの時間は、思ったほど悪くない。
たまにはこんな時間があるのも、平凡な証拠なのだろうか。
歌音の姿がないことを確認してパラソルへ戻ったときには、もう太陽は真上を過ぎていた。
パラソルの陰で小さな寝息を立てている白々雪を見たときは呆れたが、まあ、つまらない監視役を頼んでいた手前、怒る気力もわいてこなかった。とりあえずクーラーボックスの端に澪を座らせて、海を眺める。かなり沖のほうで歌音がこっちに手を振っていた。
振り返す。
「……にしても、梔子遅いな」
時計を確認すると午後一時。
とっくに昼食ができていてもいい時間だ。準備ができたら呼びにくるか、それか持ってくるくらいのことはしそうなやつだ。
とりあえず白々雪を起こした。起きた瞬間に俺の尻を触ってきたのは気のせいだということにしておこう。
「……そういえばツムギ、水着ってすぐ下は肌ッスよね」
「そりゃそうだろ」
「布一枚の隔たりッスね。サランラップ越しのキスッスね!?」
「なんの話だ」
「じゃあいま、ウチはツムギの美尻にサランラップ越しに直接触れたってことになるんスかね!? いまのが生尻の感触っ!? うほっ!」
「寝ぼけてんな、おい、起きろ」
とりあえず頭を掴んで振った。目を回していたが、まあ自業自得だとしておこう。
それより梔子が姿を見せないんだが、と言うと白々雪は、
「ふむ。じゃあ、ウチがちょっと見に行ってくるッス」
あくびを噛みながら、パラソルから出て行った。
日陰に澪とふたりきりになる。澪は少し疲れたのか、はやくもうつらうつらとしていた。もう満足したのかもしれない。とりあえず歌音が戻ってくる前にはクーラーボックスのなかに隠れててもらわないと。
と俺が澪を抱え、とりあえず肩に乗せたときだった。
「……あれ? 歌音ちゃん、変じゃない?」
沖を指差した澪。
歌音はまだこっちに手を振っていた。しきりに大きく振って、なにか叫んでいるようですらあり――
「――歌音っ!」
嫌な予感が脳髄を駆ける前に、俺は走り出していた。
かなり沖。豆粒くらいにしか見えない。
そんなところで歌音の足がつくわけもない。
俺が海に足を踏み入れたところで、歌音の姿が波にのまれて――消えた。
「くそっ!」
歌音は泳ぎがうまいし、運動能力もかなり高い。それなりに頭も良いから、決して無謀な泳ぎ方はしないと思っていた。
だが、歌音の姿は波に消えたまま、どこにも浮かんでこない。
溺れた。
いきなりのことに、背筋に冷たいなにかが走り抜ける。
予期せぬ事態はすでに予測を超えている。いや、伏線はあった。昨日も泳いでいたはずだ。大勢いる別荘で、すぐに寝るくらい疲れていたはずだ。自分で思うよりも筋肉が疲労していることには、経験の浅い子どもは気付かない。
あの沖に俺がたどり着くまで、あと五分はかかる。無理だ、間に合わない――そう囁くなにかを振り払い、飛び込もうとして――
「だいじょうぶ」
耳元で、澪の声が聞こえた。
それがやけに落ち着いていて、それゆえ俺の動きを止めるのには十分だった。
澪は俺がぴたりと足をとめると、俺の手に乗せるように求めた。
素直に従う。
そして澪は、海面ぎりぎりまで下げた手のうえで、水に手を浸ける。俺はまるで、妖精に魅了されたかのように、その一挙一動を惚けたように眺めていた。
「だいじょうぶ。この海は優しいから」
澪が言ったのは、それだけだった。
ただそれだけで、海の波は穏やかになった気がした。
もちろん、俺の錯覚だったかもしれない。この状況での振る舞いがあまりに穏やかで、確信的だったからかもしれない。
ただ、疾風に勁草を知るように、澪は慌てることなくうなずいた。
波の音が小さくなっていた。
そして奇妙にうねる一筋の潮流が、沖からこちらにむかって動き出していたことに気付いた。
たった十数秒。
「――ゲホッ!」
俺のすぐそばで、海面に飛び出してきたのは歌音だった。
水を口から吐き出し、苦しそうに目を閉じる歌音。
俺は澪を肩に乗せてから、すぐに駆けよる。
歌音の体を抱えて浜辺に戻った。すぐにパラソルの陰に横たえてやる。歌音は息も絶え絶えだったが、力強く俺の腕を掴んでいた。
なにが起こったのかはわからない。
ただ澪だけは、俺の肩の上でいつものニコニコした笑顔を浮かべていた。
歌音はすぐに呼吸も正常に戻り、顔色も良くなった。ただ、かなり疲れていたのだろう。そのまま眠りに落ちたので、そっとしておいた。
しばらく起きなさそうだったので、澪をそのまま肩の上に乗せておく。澪もそれなりに昼寝をしたそうにしていたが、それよりも腹が空いたらしく、ときどき虫を鳴らせては恥ずかしそうにお腹を押さえていた。
白々雪が梔子を連れてきたのは、思ったより時間が経ってからだった。
別荘から歩いてくる白々雪は、片手にバスケットを抱えていた。大きさから察するに昼食だろう――たぶん、サンドイッチかなにかだ。梔子の料理はすこぶるうまい。楽しみだ。
白々雪の横にいたのは、たぶん梔子だ。
たぶんとつけたのは、それが梔子だとは断定できないからだった。
バスタオルを頭からかぶり、足だけちょこんと出した小さな塊が、白々雪に引っ張られながら歩いてくるのである。
なんとも珍妙な格好だった。
白一色のサンダルだけが見える。いかにも梔子好みのシンプルデザインだが、なぜタオルに隠れているのだろうか。
俺たちのすぐそばまで歩いてくると、白々雪がバスケットを降ろし、腰に手をあてて呆れた。
「そこまで恥ずかしがる必要あるッスか? たかがツムギッスよ」
梔子はタオルの下からメモを出す。
『そういう問題じゃない』
「いいじゃねえか。水着が恥ずかしいなんて梔子らしいじゃねえか」
「恥ずかしがってるのは水着じゃないッスよ」
「え?」
と白々雪がバスタオルを下からめくり上げる。
なんて扇情的な――と驚くあいだにタオルは首の下まで持ち上げられた。
ワンピースタイプの水着だった。意外にも黒と白のツートーン。胸元でリボンが括られており、スカート部分はひらひらがついている。梔子の幼い体系にぴったりと吸いつくような水着に、まったくくすみのない滑らかな白肌。手をぎゅっと胸元で握りしめていた。
俺は、一度その肌に密着したことを思い出して……
「なんで思いっきり赤面してんスか?」
「い、いやなんでもねえ」
邪念を捨てるんだ久栗ツムギ!
スーハースーハー。
俺が大きく深呼吸をしたのと、白々雪がタオルを全部ひっぺがしたのは同時だった。
ぴた、と、硬直してしまった。
「……梔子」
いつも目の下で切り揃えていた前髪が、すべてヘアピンでおでこに留められていた。
それだけじゃない。長い髪は後ろで纏められ頭の上でお団子になっている。真っ白な首が露わになり、細いうなじが潮風に晒されている。
丸くて大きな瞳、細い鼻筋と唇、そして、取り戻したばかりの感情――羞恥に染まってピンク色に萌える頬をかすかに震わせる梔子詞。
彼女はうつむけに顔を伏せ、潤んだ瞳で俺を見上げてくる。
初めて梔子の顔をちゃんと見た。
とっさの言葉は、出なかった。
梔子は震える手でメモを掲げた。
『……久栗くん、恥ずかしい、見ないでおねがい……』
ブハッ!
「ちょっ、ツムギ!?」
「ツムギくんっ!?」
慣れない炎天下にいたからだろうか。
そうだろう。そうに違いない。
俺は鼻から赤い液体を噴き出して、朦朧とする意識に沈んでいった。




