3話 ためらわない
七月も中旬。
梅雨最後の雨は、アマガエルすら逃げ出すほどの土砂降りだった。
放課後の図書室当番だった俺と白々雪は、雨が本降りになる前に帰ることができなかった。ほかに誰もいない図書室でとりとめのない会話をしていたが、窓をガンガン叩く雨粒に気付いて、つい顔を合わせる。
「……やばいッスね。ぜったい大雨警報でてるッスよ。ツムギの妹さん、ちゃんと家に帰ったッスか?」
「ああ、小学生はとっくに下校してるからな。さっきメールが来た」
「そりゃよかったッス。小学生の軽い傘なんて障子みたいにすぐ破れますよこりゃあ」
“槍のような雨”という表現があるが、この様子を見ると雨の槍とも言えるだろう。
それほど大粒で鋭い雨粒だった。
白々雪は窓に近づき、俺が思ったのとは違う比喩を口に出した。
「“バケツをひっくり返したような”っていう言葉がようやく実感できたッス。でも、天気にバケツっていうのも風情がないですけどね」
「でかいバケツだな。神様の涙とかはロマンがあるぞ」
「だとしたら、今日の神様は脱水症状で死にますね。今日の神様は終了しました」
「日替わりランチかよ」
「当番制なんすよ。日曜午後六時半の神様はきっと嫌われてるッス。かわいそうに」
「社会人にしか通用しないネタはやめろ」
「だから神様界では嫉妬の嵐ッスよ。“金曜の夜だけ華とか言われてズルいわ!”って」
「まあ嬉しいもんな、金曜日」
「月曜日で喜ぶのは少年だけッスからね。だからおそらく、月曜日の神様はショタコンなんッスよ」
「……そんなやつらでも神になれるとは世も末だな」
「でもそんなもんじゃないッスか、神様なんて」
白々雪はつまらなさそうに言い捨てる。
「全能の神なんて世界中の神話をかき集めてもほとんどいないッスしね。いまは神様も個性の時代ッスよ」
「個性、ねえ……」
「そもそも偶像崇拝なんてものが生まれたころに神なんてすべて死ぬべきだったんすよ。それを、弱い人間がいつまでたっても神様信仰をやめないから、どんどん余分なのが生まれていくんッス」
「……白々雪……」
「とにかく神なんて、ウチにとっては人間より脆い存在ッス。むしろ絶滅危惧で保護してやる対象ッスね!」
その口調は、恨みすらこもっていた。
「人間に心配される神様か……頼りないな」
「でもこれってかなり現代人の発想ッスけどね。とくにいまの日本人は、神様ですら人間の庇護下にあると信じてしまってるッスから。いろんな漫画とか小説じゃあ、もはや神様は一種のキャラクターに成り下がってることが多いッスしね。神様の安売り――とまでは言わないッスけど、人間も神様も必死ッスよね。そんなふうにキャラ付けされなきゃ神様ですら現代では生き残れないんスよ。人間はどうあがいても心臓が止まれば死ぬッスけど、神様のデッドラインは『信仰が消えたら』ッスからね。……ほんと科学の時代ってのは、神にも人間にも怖いもんッスよ」
あきれたように、白々雪は首を振った。
科学の時代がどうとかはよくわからないが、たしかにあらゆる信仰心はむかしに比べて薄くなったのだろう。俺はむかしなんて知らないから実感はないが、なんとなく、そんな気はする。
会話が途切れる。
白々雪はいつもどおりのぼんやりとした視線で中庭を眺めた。
雨が地面を打ちつけている様子が三階からでも目視できるほど強い雨だ。
「……あ。あれって梔子さんじゃないッスか?」
白々雪が指さした先は、教室棟の裏口だった。
この図書室から中庭を挟んだ反対側には、教室棟が建っている。その教室棟裏口のひさしに、梔子が鞄を両手で抱えて立ちつくしていた。
傘を持っていないところを見るに、帰れないのだろう。雨が止むまで時間を潰すにしても図書室のある特別棟に行くまでに空の下を通らねばならない。この大雨のなかだと、さすがに中庭を横切るのも躊躇われるようだった。
「どうみても立ち往生してるッスよね?」
「そうだな……傘ないみたいだし」
「梔子さん、ときどき図書室にくるッスけど今日も来るつもりなんスかね?」
そうだろう。放課後にわざわざ特別棟まで足を運ぶ理由なんてほかに思い当たらない。
梔子は教室棟の裏口のところから中庭を見つめたまま、動かなかった。
「じゃあ、ウチ迎えに行ってくるッスよ」
白々雪はそう言って傘を手にとり、図書室を出て行った。
話もしないクラスメイトに気を配れるやつはそうそういないだろう。白々雪は誰かと関わることに躊躇わない性格だし、梔子にも気兼ねなく接しているのを何度か見たこともある。その突き抜けたような振る舞いは、俺には眩しかった。
俺はいつでも、自分の平和のためにしか動かないから。
眼下の雨のなか、中庭に出た赤い傘が梔子のところまで歩いていくと、そのなかに梔子を引っ張りこんで戻ってくる。
窓際でしばらく立っていると、
「大雨の図書室同盟結成ッスね!」
白々雪と梔子が図書室に入ってきた。俺は「よう」と手を上げる。
やはり梔子はなにも言わず、前髪の隙間から俺を一瞥してすぐに奥の読書コーナーへと向かった。そっけない態度だが、もう慣れた。
白々雪はまた俺の隣まで来ると、
「ううん、やっぱしなにも喋らないッスね。もう三カ月も経ったのに一言も話さないなんてすごい気合いッスね」
「気合いの問題だったのか?」
「さっきの話じゃないッスけど、梔子さんはたぶん無口キャラを狙ってるんスよ。キャラクターが立たないと現代は生きていけないッスから」
「無口キャラと無口は違うだろ。入学式の代表挨拶でひとことも話さないなんて、キャラ付けにしてはやりすぎだ。なにか事情があるんだよ、きっと」
「でも本人がそれを話してくれないから、こうして推測しかできないんじゃないッスか。正解がないならウチがどう思っても間違いじゃないッスよね? UFO信者と不在証明みたいなもんッスよ。ウチはこういうとき、夢を追う立場を選ぶようにしてるッス」
「そりゃ殊勝な向上心だけどな白々雪、UFO信者なんて小学生並の理論武装しかしてない印象だぞ」
「理論は武装するものじゃないッスよ。理論なんてーのは、ウチらが誕生する前からすでにこの世界に満ちてるんスからね。それをウチら人間が言語化して認識しているだけ。あらゆる理論は最初から存在してて、それを発見した者が発案者と呼ばれるだけのことッス。理を論じてるだけですよ? 理論を武装? べつに理論は武器でも防具でもないッスよ。空気と同じ、神様と同じ。そこにあって当然なものなんです。理論を武装した気になって縮こまってるやつらなんて小学生以下ですよ」
「まあ、それはあるかもしれんが」
軽く頭痛がする。頭がこんがらがってきた。
「……すまん話を戻そう、俺のせいで横道に逸れた。白々雪が言いたいのは、梔子の無口の理由がキャラ立てだと仮定しても不都合はない、ってことだよな?」
「そうッスね」
「いいのかそれで? 白々雪にしては、安直な予測だけど」
「べつにこだわってないッスけどね。ウチは俯瞰的に物事を観るのが好きなだけで、今回は俯瞰して観た風景が、たまたま安直な答えだっただけッス。そこに自分らしさのこだわりは含まれてないッス」
「まあ、おまえがいいならいいけどさ……でも、さすがに、梔子が自分のキャラを立てるのにそこまでしないだろ。メリットデメリットの問題から考えても、まず理由がない。動機がない。それにキャラを立てても、人間が変わるわけでもないのに。人生が変わるわけでもないのに」
「そうでもないッスよ。だって――」
と白々雪は、俺の顔を上目で覗きこんでくる。
どことなく優しい、慈しむような視線だった。
「――ウチだって中学三年のあの春から、ずっとキャラを立ててるんスから。そのことはウチを助けてくれたツムギが一番よく知ってるじゃないッスか。……覚えてないとは言わせないッスよ?」
言われて、俺は肩をすくめる。
「キャラ付けと、クラス内で生き抜くための演技は別だろ。おまえと違ってむしろ梔子の場合、いじめられてもおかしくないくらいの寡黙っぷりだぞ?」
「同じッスよ。どっちも擬態なんスよ。ナナフシが木の枝に化けるのと、キャラ付けは原理は同じ。前者は生存本能ゆえで、後者は精神防衛のためなんスから。多かれ少なかれ、誰でも自分のキャラを演じてるのが現代人ッスよ。それが大袈裟になっただけの可能性は否定できないッス。……もっとも、ウチも本気で梔子さんが無口キャラを知らしめるためにあんなことをしたなんて思ってるわけじゃないッスけどね。わざわざ登壇して無言をつらぬいたって状況から、そう判断しただけッス」
「なんだよ本気じゃないのかよ」
無益になった論争ほど、空虚なものはない。
俺が一抹の寂しさを抱えていると、白々雪は感心したふうに言った。
「……でも、あれを寡黙と呼べるツムギの懐の深さには憧景ッスね。うちがせいぜいそこらの名もないトラフに対して、ツムギはマリアナ海溝ッスよね。ウチからすれば無口もあそこまでいくともはや病的にすら見えるッスよ。あんがいほんとに病気とかかもしれないッスけどね」
「…………。」
もしそうなら、邪推するなんて失礼だが。
「それかあとは、閻魔大王に舌を抜かれたかッスね」
そんなまさか。
「閻魔大王に会うのは死んでからだ」
「ほほう」
白々雪は驚いた。
「ツムギはまったくの無信心ってわけじゃなかったんスね」
「いや、べつになにか信仰してるわけじゃねえけどな」
「閻魔大王がいるところが死後の世界だとするのは仏教徒やヒンドゥー教徒ッスよ? ウチはただ〝取り返しのつかない嘘をついたから黙っている〟ってことの比喩として舌を抜かれるって言っただけッスけど? それくらいわかってくださいッス」
「そうかよ。おまえの話は小難しいから深読みなんてできねえんだよ。もっとわかりやすく喋ってくれ。そうすりゃきっちり答える」
「んんん……これでもずいぶん砕いてるつもりなんスけどね~」
白々雪は困ったように眉を寄せた。
こいつは頭の巡りが良すぎることが一因で、クラスで孤立したやつだ。俺の気持ちなんてわからないだろう。
「でも、」
と。白々雪は唇に指を添えて上目遣いになる。
白々雪が楽しんでいるときの癖のようなものだが、潤んだ瞳と湿った唇を強調するようなその姿はやけに麗しく、俺はつい視線を逸らした。
静かな図書室に、梔子が本のページをめくる音と、白々雪の声が響いた。
「それは、実際ウチのせいじゃないッスよ。それに――」
と白々雪は目を細めた。
「――さっきウチが言ったばかりじゃないッスか。閻魔だろうとなんだろうと、いまは神様なんて脆い存在なんスよ。そんなものに舌を抜かれるほど現代人は弱体化して――」
ガタンッ!
いきなり。
梔子が乱暴に立ちあがった。いつも無口で、動きに堂が入っているものの目立つことのない小柄な少女が、椅子を蹴り飛ばすようにして機敏に動いた。
俺はつい梔子に視線を向ける。
すると梔子は手に持っている大判の本を、振りかぶって投げた。
こっちに向かって。
「――ッ!?」
俺はとっさに白々雪の肩をつかんで伏せる。
それと同時に、背後で窓が割れた。厚いガラス窓が派手な音を立てて割れたのだ。
本がぶつかったのではない。
部屋の内側に向かって窓が割れたのだ。
身をすくめる俺たちの頭上で、梔子の投げた本は、割れた窓ガラスの破片とぶつかった。
いくつものガラス片が、本の表紙に突き立つ。それはさっきまで俺と白々雪の頭があった場所だった。まるで俺たちの身代わりになったように、その本は全身にガラス片を浴びる。
ぞっとした。
伏せる俺と白々雪の周囲に、細やかなガラス片が降り注いでくる。大きな破片を喰い止めた本はステンレス製の窓枠に当たり、俺の足元に落ちた。
「…………。」
梔子は無言のまま歩いてくる。そして白々雪の前に立ちふさがるようにして直立すると、警戒するような視線で、窓の外を睨みつける。
近くには割れた窓ガラス以外になにもない。
俺はなるべく冷静に、考える。理性には自信がある。このまえ白々雪の誘惑には動揺したが、あれは思春期として当然の反応ともいえる。今回はそれとは違う。突発的な危険に対する対処だ。身を守るためなら、俺はいくらでも沈着になれる。
不自然だった。
窓ガラスが内側に割れるには理由がどこにも落ちていない。野球ボールがあるだとか、鳥がぶつかったとかじゃない。外からなにかが飛んできたのではない。
偶然、耐久性に限界が来たのか?
それしては割れ方が激しかった。温度や湿度の自然環境が割ったのではない。
……つまり、なにかの意図が絡んでいる。誰かの――とは言い切れないが、なにかの意図がある。人間だとすれば、悪戯か。どうやったのかはわからないが、俺か白々雪に危害を加えようとしたのかもしれない。それにしてはここは三階で、違和感だらけだ。
起き上がり、窓の外を見てみたが、そこには滝のような雨しか見えなかった。
「……なにがあったんスか……?」
白々雪も不安げに立ちあがった。
その言葉は俺というよりも、梔子に向けられたものだった。梔子は警戒していて、なにも反応しなかった。警戒してなくても答えなかったという可能性もあるが。
とにかく白々雪は、小柄な梔子の背中をじっと見つめる。
梔子はなにも答えない。ただ無言で窓の外を睨んでいた。
そうだ、梔子だ。
なぜ梔子はいま俺たちに本を投げつけたのだろう。窓ガラスが割れることを先んじて知っていたとしか思えない。頭の巡りがいい白々雪が俺じゃなく梔子に訊くのは当然。
梔子は前髪の隙間から、いつもより真剣な無表情――に見えた――で、俺と白々雪に黙っていろというかのような視線を投げてくる。
黒くて大きな瞳だった。
しばし、視線が交差し――
バリンッ!
と、こんどは廊下側の窓が、内側に向かって砕け散った。
その破片がひとつが、不自然すぎる勢いでこっちに向かって飛んでくる。まるで思い切り投げつけられたような軌道で、一直線に――今度は俺に向かってくる。避ける暇もなかった。間に合わない!
ガシッ。
と、あろうことか梔子は、飛来した破片を素手で掴みとった。なんの躊躇もない動作だが、当然、梔子の手のひらに血が滲む。
「梔子っ!?」
そう叫んだ俺の言葉を無視して、梔子は、近くの棚から厚手の本を数冊抜き取り、俺と白々雪にひとつずつ投げて渡してきた。なにも言わないが、その真意は理解できる。
これで身を守れということだろう。
梔子はなにも言わずにそのまま一冊を、割れた窓に向かって投げつけた。
窓を通り、誰もいない廊下を本が横切る。なににぶつかるでもなく、本は廊下に落下して音を立てた。
なんとなくだが、そこに、なにかがいるような気がした。
「…………。」
静寂が廊下に鎮座していた。
梔子はしばらく廊下を警戒していたが、十数秒経つと肩の力を抜いて振り返った。表情に変化はなかったものの、どうやら脅威は去ったらしいことがわかった。
「……もうだいじょうぶッスか?」
白々雪は怯えた表情で、本を胸に抱えている。
割れたガラスが図書室の床に散乱していた。割れたところを風が通り抜け、雨粒が図書室のなかに入ってくる。
なにがあったのか。まるで透明人間に襲われたような感じだったが……。
白々雪は梔子にせがむように訊いた。
「……梔子さん、なにが、」
と言いかけた白々雪を遮って、梔子は胸ポケットから手帳のようなものを取り出した。
それは薄い茶緑色の――梨の皮の色のような手帳だった。
梔子はその手帳に胸ポケットに差しているペンでなにやら書き込むと、白々雪に突きつけた。そこにはこう書いてあった。
『危惧する必要はない。あなたは気にしなくていい』
「……でも、あきらかにいまのはウチらを狙って――」
『気にしなくていい。二度はないから』
「でも……さすがにビビったっすよ」
『大丈夫だから』
梔子はぐいっとその手帳を近づけて、うなずいた。
「……わかったッス。その言葉、信じるッスよ」
と答えつつ、白々雪はまだ半信半疑だったが、ひきつっていた表情はようやく緩んだ。
そうそう安心できることではなかったが、梔子は俺に向かってもうなずいてみせた。
……それならいい。白々雪には危害がなかったし。それに梔子が嘘をついているようには思えない。それに窓が割れた原因は追求しても教えてくれそうにない。
「あっ! 梔子さん血が出てるじゃないッスか!」
白々雪が叫んだ。
俺はすぐにハンカチを取り出して、梔子の手に被せて止血する。
「すまん、大丈夫か?」
梔子は痛がる様子は見せず黙ってうなずいた。腕から滴り落ちる血が床を汚す。
「……保健室いくぞ? いいか?」
梔子はコクンと素直にうなずいた。
俺たちは保健室へ向かった。歩きながら、頭の隅っこで窓ガラスが割れたことをどう先生に説明していいか悩んだ。
――それにしても、梔子は、ガラスが割れることを知っていたのか……?
「…………。」
梔子は無言で歩く。
その足取りや動きには、まったく迷いがないように思えた。
なにを考えているのかまったくわからなかった。それはどこか不気味で、感情のないような顔つきも仕草も、どこか作り物めいて見えた。真意が見えないどころかそもそも意志が感じられない。
俺が梔子のことを計りあぐねていると、
「……ねえ、ツムギ」
と、こそっと白々雪が耳打ちする。
「なんだ?」
「驚いたッスね、梔子さんがまさかこんなことできる人だとは。正直予想外すぎてどう反応したらいいか困るッスよ。いままで考えてきたことが、じつは違ったなんて、自分の予測の甘さに自己嫌悪ッス。梔子さんは無口すぎて計り知れないッスね……」
白々雪は深刻な顔になっていた。
「なんのことだ?」
俺はわずかに緊張して訊いた。
すると白々雪は、じっと梔子の背中を睨んで答えた。
「……まさか……筆談できるとは」
そんなことかよ。
いつのまにか、雨は小ぶりになっていた。