5話 渇して井を穿つ
『おかけになった電話番号は、現在電波が届かない場所にあるか――』
何度目かわからない通知音に、俺はすぐに電源ボタンを押した。
懐中電灯の明かりを頼りに、海岸線を歩く。
小さくため息をつくが、波の音にかき消された。
「……ごめんね?」
耳元でつぶやく声。
澪の声。
俺は首を横にむける。
視線の先は、肩。自分の肩の上。
そこに乗った銀色のちいさな少女――澪=ウィトゲンシュタインに、返事をした。
「気にすんな。なにがなんだかわけがわからんが、もうこういう状況にも馴れちまった」
「でも、ため息……」
「呆れてるんだよ。こんなときに役に立たない自称詐欺師にな」
あるいはわざと電源を切っているのかもしれないが。
とはいえ、役に立たないのは俺も同じだ。
途方に暮れているうちに夜は深まり、南戸にも電話は通じないまま、こうして別荘に戻っている。夜半が迫っている。歌音はとっくに就寝しているだろう。梔子はわからない。ただ言えることは、とうに俺と澪の姿がないことに気づいたであろう白々雪が、気にせず寝ているわけがないということだった。
まあ、何度か着信あったし。
いやはや、そう考えてみれば南戸が電話に出ないことに腹を立てる資格はない。
「それより澪、体、どこも痛くないか?」
「ううん。むしろ軽いよ。いまなら飛べそう」
「やめてくれ。飛んだら余計に嫌な予感がする」
「……ごめんなさい。冗談だよ」
べつに澪が謝る理由はないと思うのだが。
まあとにかく、こんな状態でもまだ取り乱さずに謝る澪に、ひとつ聞いておかなければならないことができた。
「澪は、もし自分が気付かないうちに誰かの人生を左右するほどの影響を与えていたとき、どうする?」
「……ツムギくん、その質問って……」
そうだ。
南戸と初めて喋ったとき、その最後に聞いてきた質問だ。
その質問の意図が、いまの俺にはなんとなくわかってきた。
「そうだね……わたしは、どうもしないかな。気付かないうちに与えた影響で、もし悪い人生になっても、謝る必要なんてないと思う。逆に良い人生になっても、褒められる必要なんてない。だってそこには自然があって流れがある。もちろんそれを知ってしまったときに、申し訳ないって思うだろうけど、だからといってわざわざ掘り返す必要はないと思うよ」
「そうか。それなら俺は、お前に謝られても無視する」
「……どうして?」
「おまえがそれを望むからだ。おまえはわざと小さくなって俺を困らせてるわけじゃない。なら、俺は勝手に困ってるだけだ。おまえが謝る必要なんてどこにもないんだよ」
たぶん、南戸が言いたかったのはこういうことだ。
自分がとりたい行動は、自分がとられてもいい行動なのだ、と。目には目を歯には歯をのハンムラビ法典じゃないにしろ、精神はいつも平等であるべきなのだ、と。
俺が無意識のうちに梔子の感情を奪っていたとしても、俺がそれをされて許せる人間なら、梔子にとってもまたそれは許せることなのだ、と。
自分の価値観を、相手の価値観で決める。
それはとても危ういことかもしれない。
だが、こういう場面になったとき、けっこう大事なことなのだとわかる。
自己嫌悪する澪の価値観に俺をあてはめることで、澪の自己嫌悪の理由を消す。
騙しのような理屈。
歪曲した屁理屈。
そんなもので梔子のからっぽの心に行動を植え付けた南戸。あいつはあのとき、俺の価値観を梔子に提示することで、それを完遂させた。
俺もまたそれを同じことをする。
澪の価値観で、俺の行動を決める。
澪には文句は言えないのだ。理屈は合ってるから。
「そういうことだ。わかったな?」
「……ツムギくんって、ほんと意地悪よね」
「頑固なだけだ。……それより澪、ちょっと隠れてろ」
澪を半袖パーカーのフードのなかに隠す。
リビングの窓からはまだ明かりがもれていて、そこに誰かがいることがうかがえる。梔子ならなにも心配ない。梔子は余計な詮索はしてこないだろう。だが白々雪なら好奇心がうずくままに――
「遅かったッスねふたりとも。歌音ちゃんはとっくに夢の中ッスよ」
梔子と白々雪。
どちらもいた。
リビングのソファに座って、ふたりでなにやら大判の本を広げていた。
表紙には〝世界の妖精〟とあった。
「……ふたりとも?」
俺はわざとらしく首をひねる。
白々雪は俺のフードを注視していた。
そこになにが隠れているか、わかっているかのように。
「べつにそんなことしなくても食わないッスよ。隠れても隠しても、とっくに事実は開陳されてるッス。それで隠してるつもりのツムギもたいがいアホですが、それで隠れてるつもりの澪ちゃんもバカですね。……いえ、こう言ったほうが正しいんスか…………ねえ? ちいさな〝ティンカー・ベル〟ちゃん?」
ティンカー・ベル。
その呼称は日本人男子の俺でも知っている。
イギリスの童話に出てくるキャラクターのひとつ。羽が生えた小さな妖精。
八十年以上も前の童話なので、原作をみたことがあるやつは少ないかもしれない。俺も原作はない。だが、その妖精の名前だけは有名だ。
Tinker Bell
あるいは妖精のなかで最も有名な呼称かもしれない。
世界中にその名をとどろかせた妖精だ。そしておそらく、妖精のイメージをこびとに二対の羽という形に定着させた妖精だろう。どこに生まれても不思議ではない。あるいはどこでその姿を見ても、不思議ではない。
疲れたのだろうか。
俺の膝の上ですやすや熟睡する澪――否、白々雪いわく、こいつはもう澪ではなく〝ティンカー・ベル〟らしいが――を、俺たちは見下ろす。
「……どういうことだ?」
「妖精といえばまずそれが浮かぶのが普通ッス。たとえばおとぎ話にいきなり連れ込まれたような状況になったとすれば、浮かんでくるのはまず近世の絵本か童話でしょ。むかしはすでに世界観がおとぎ話のものがほとんどッスからね。現代になればなるほど、異世界やおとぎ話世界への旅が、現実からのトリップって色を強める傾向があるッス」
白々雪は指を立てる。
ただ能天気に澪の羽で遊んでいたわけではないことを、その目と口が語っていた。
「妖精ってのは神様よりもはっきりしたてるッス。彼らには体があって、命があって、目的がある。行動に明確な理由を持つ存在なら、正体を看破することは容易ッスよ。世界一有名なその妖精なら、もちろん世界一姿を見せる確率が高いってことッスし、なおさら安易なのは、そこの妖精の背中の羽は傷つかないことッス。引っ張ってもひっかいても破ろうとしても、なにひとつ効果がなかったッス」
「……おまえ、そんなことしてたのか?」
「妖精はシンプルッス。傷つかない性質を持っている妖精は、つまり直す側の性質を持ってるってことッス。でも、澪ちゃんの皮膚を少しだけ爪でひっかいても、皮膚は治らない。なら癒しの力ではない。もっと内部的な回復力を持つ妖精。それに該当しうるのは、修理屋妖精だけッス。
とまあ次のステップに進むッスよ?
そこの妖精がなんの目的で姿を現すか。それくらいは、愚鈍なツムギでも知ってるッスよね?」
「……ええと、大人になりたくないからだっけか?」
「それはピーターパンのほうッスよ。アホですか」
「覚えてねえよ昔見たアニメなんて」
「ピーターパンシンドロームとはまったく違うッスよ。……いいッスか? 彼女はいつでも、壊れそうになる心や体を修理する役割を持ってるんス。そういう役回りで、童話に生まれたんスよ。……そもそも常識中の常識でしょ? 怪奇なる存在が人間に憑く理由、そこにはいつだって、なにかを捨てようとするか守ろうとするか……そういう強い想いがあるッス。物語には強い感情が渦を巻いてる。ツムギもそれくらいわかってるッスよね?」
なるほど。なにかを修理する。なにかを守るために生まれる。
そんな妖精ってことは、だ。
「つまりそこの妖精は、澪ちゃんのなにかを修理しようとして、澪ちゃんに憑いた――いえ、すでに澪ちゃんに成っているッスね。羽だけだったらまだしも、姿まで童話上の姿になってしまってるッスからね。澪ちゃんもまた、妖精に成っている。混濁した精神と混濁した姿――どうやらこの〝修理屋〟は〝入れ替え妖精〟ってことになるッス」
南戸と同じ言葉を使った白々雪。
中世以降の妖精寓話。
危険をはらむおとぎ話。
「ツムギ、入れ替え妖精の伝承は知ってるッスか?」
「……ああ知ってる」
「ほほう意外ッスね。まあとにかく〝修理屋〟はあくまで、憑いた主を助けようとして作用するッス。今回は入れ替わることでそれを為そうとしてるわけッスね。ただ、それが不能になったとき、妖精は人間に成りかわり、人間は妖精として成りかわる。そうすることで崩壊を防ぐんスよね。変化することでしか防げないことになれば、そうなるでしょう」
ならば。つまり、
「つまり俺たちは、澪の妖精化を防ぐためには、この妖精を手伝って澪が守ろうとしたなにかを守ればいいってことなのか?」
「ツムギが澪ちゃんを自分の手で助けたいと思うなら、そうすべきッスね。妖精に任せてみるのもひとつの手かも知れないッスけどね」
「でも失敗したら、入れ替えられるんだろ? そうなりゃ妖精に成った人間なんて――」
「消えるのみッスね。まあ、それはウチもさすがに暗晦ッスから、微力ながら力添えさせてもらうッスけど……しかし」
白々雪が言うことがすべて正しかったとしても、俺にだってたいしたことができるとは思わない。できたとしても、うまく作用するなんて保証はない。
南戸と連絡が取れなくなるだけで、これほど足元がおぼつかなくなるなんて思いもしなかった。
知識も対応力も、すべて南戸に依存している。こうなるのなら、少しくらい勉強しておけばよかったのかもしれない。
俺はあれこれ思案を巡らせようとして――やめる。
渇してから井を穿つようなものか。
後悔先に立たずとは良く言うものだ。身を以って実感するとは……まあ、いつもどおりではあるが。
だから、白々雪が少し冷めた目で小さな澪を見下ろしたとき、俺はやはり、不安を駆り立てられた。
「……妖精の望みなんて、ウチらにわかるッスかね?」
なかなか寝付けず、ようやく睡魔に身をゆだねられたのは、空が薄明るくなってからだった。
朝起きたとき、すでに太陽はほぼ真上に登り切っていた。重たい音を立てて動いているクーラーが吐きだす冷気の心地よさに、つい二度寝をしたくなる。
なんとか体を動かして着替え、部屋をでる。
リビングに降りて行くと、梔子がキッチンで料理をしていた。エプロン姿が似合う。
昼食作りだろう。卵料理の匂いがした。
俺にとっては朝食となりそうだったが。
「ほかのみんなは?」
梔子は視線だけで窓を指す。
リビングの大きな窓の先――ゆるやかな下り坂の先には海。
砂浜に大きなパラソルをひとつ差し、白々雪と歌音が寝そべっていた。
まあ、リゾートの過ごし方としては適切だ。健全で、常識的ともいえるだろう。歌音が白々雪を警戒しているのは知っているので、これを機にすこし打ち解けてくれたらいいものだが。
「……澪はどうした?」
「ここだよ」
振りかえると、ソファに座る妖精がいた。
ソファの上に広げられた雑誌に乗っかるようにして読む澪。
順応しすぎだろ、と思ったが口にはしない。
「歌音に見られなかったか?」
「大丈夫よ。白々雪さんが、わたしが一度帰ってることにしてくれたから」
「……一度、か?」
「うん。一度。だからいつわたしが元に戻っても大丈夫だって」
さすが、ぬかりない辻褄合わせの口八丁。
しかし白々雪、そういうことにするってことは少しはもとに戻せる可能性を感じてるのだろうか。ああ見えて、あくまで希望的観測では他人のことをどうこうしないやつだ。客観的に判断して、俺がそうできると思ってくれてるのだろうか。
それなら嬉しくないこともない。
まあ、あくまで可能性だろうけど。
いずれにせよ、躊躇う理由はなさそうだ。時間もないし。
「なあ澪、おまえ、なんかやりたいことってないか?」
「やりたいこと? そうね……」
羽をぴくりと動かして、銀色の髪を揺らす。頬に手をあてて、視線をぼんやりと漂わせた。
その所作は幾分、昨日より演技じみていた。
「……そういえばひさしぶりにおばあちゃんの料理が食べたいかな?」
「そいうじゃなくて、もっとこう、なんというか、欲望よりも切羽詰まった感じなこととかないか? どうしても憎いやつとか」
「プロレス会場の白々雪さん」
「冗談はいいよ。本気で」
「んーいないかな。みんな優しいし、面白いしね」
「……そうか」
いつものニコニコ顔ではなく、少し愛おしそうな表情をした澪。
妖精が守りたいものは、澪の人間関係ではないのだろう。
「なら、どうしても手放したくないものとか、そんなものはあるか?」
「そりゃあいっぱいあるよ。家族とか、友達とか、こういう時間とか」
「そのなかで、いま苦しいこととかはないか?」
「ないよ。わたし、かなり恵まれてるみたいだもの。みんなに感謝しないとね」
これも違う。
「じゃあ、最近、強い後悔とかしなかったか?」
「してないよ」
「強い渇望とかもないのか? なにか欲しいとか」
「ないよ」
「……そうか」
なかなか難しいだろうとはわかっているが、さっぱりわかる気がしない。
澪が壊しかけていて、守りたいもの――妖精が修理したいものがなんなのか。
「さっきからどうしたの? わたしがこんな姿になってから、妙に優しいけど。もしかしてツムギくんって……こびとフェチ? 歪んでるね」
「その発想が歪んでると思うが」
「ひょっとして、心配してくれてるの?」
「どうして先にそっちが出ないんだ」
「だってツムギくんだもの」
まったく不可解な物言いだ。
しかし澪はまだ、自分が妖精と入れ替わりつつあることを自覚していない。
羽が生え、小さくなった。
そんな奇怪な状況を楽しんでさえすらいる。
――ふつうは取り乱してもおかしくない状況なのにも、かかわらず。
『久栗くん。私からもひとつだけ質問いい?』
服を引っ張られて横を見ると、いつのまにかメモを掲げた梔子が立っていた。調理は終わったのか、エプロンを外していた。
もちろん協力してくれるのならありがたい。
俺がうなずくと、梔子は一枚のメモ帳を、澪が読んでいた雑誌のうえに、置いた。
『ウィトゲンシュタインさん。おそらく久栗くんの表現では少し理解が及ばないかもしれないから、言い方を変える』
「うん?」
『なにか、久栗くんにしてもらいたいことはない?』
そう言い換えただけ。
そんな必要があるのか、と思ったが、しかし。
澪は少しだけ驚いたような顔をして、梔子を見上げてうなずいた。
「うん……わたし、一度でいいから、ツムギくんとデートしてみたい。それに日本では、肝試しって夏のデート方法があるんでしょ?」
それは澪の口から漏れた言葉か、それとも妖精の口から漏れた言葉か。いまの状態ではまったく判断がつかないことだった。
だから俺には、断ることはできなかった。
肝試しデート。
……俺の胸が早鐘のように鼓動を打ち始めたのは、気のせいだということにしておこう。




