2話 高木は風に折らる
「……なんでこうなった」
「それはこっちのセリフだよ兄ちゃん」
夏と言えば?
そう問われたら俺は即答する。
季節だ、と。
おいおい石を投げてくれるな。
ひねくれ者だという侮蔑もやめてくれ。
海、スイカ、アイス、長期休暇、怪談、流しそうめんにエトセトラ……おおいに結構。しかし、そもそも関連クイズだという前提が間違っている。誰がそんなことを言ったのだ。夏と言えば季節のことだろう? そう答える俺にひねくれ者というのは間違っている。むしろ素直。漂白剤のCMから出演依頼がくるほどの驚くべき白さなのだ。純朴な男なのだ。なにより透明なのだ。
透明。いい言葉じゃないか。
存在しないようなクリアカラーは誰の視界にも留まることはない。混じりけがないほどに澄み切ったその姿は俺のユートピア。誰の目にもとまらずに平和に過ごせるなんてすばらしい。
透明になれるマントとか売ってないだろうか。あるいは透明になれる悪魔的な実でもいい。
ロマンじゃないか、透明人間なんて。
もちろん、俗世を席巻する透明人間の物語は嫌というほど知っている。犯罪行為に走るものがいたり、ヒーローになるものがいたり、ただ便利道具として使うものがいたりする。それぞれに各自の欲望があってそうなっているが、そこにはやはりそいつの人間性が表れているのだろう。
なるほど透明というのはできたもので、そいつの人間性を透明にするための色でもある。
明暗や濃淡に囚われない唯一の色。
すべてを見通すスペシャルカラー。
しかし透明だからこそ、ほかの色に振り回されるのだ。
後ろに立ったやつの色に染まってしまう。文字通り、映り込んでしまう。
……ついうっかり、歌音とふたりで別荘に行く、と白々雪に漏らしたのが失敗だった。
別荘、といえば豪華な響きだが、実際は母の実家だ。
とはいえ今は誰も住んでいない。田舎の海辺にあるから、別荘のようにして毎年使っているだけだ。少しは人が住まないと家ってのは傷む。だから毎年、一週間ほど泊りにいっていたのだ。
今年も例年に漏れず、泊まりに行くことになった。いつもは母がついてくるのだが、今年は夏の音楽祭に出演するということで忙しく、俺たちふたりだけで行くことになった。
平和な海辺の家。ゆったりとした生活。
夏休みを満喫しようとしていた俺が、珍しく白々雪から遊びの誘いを受けたのは数日前。
『みんなでプールに行くッスよ』
みんな、とは俺と白々雪、澪、梔子の四人のことだった。すでにふたりには話をつけていた。当然俺が肯定すると決めて話を進めていたらしい。俺がその日にちは無理だと断ると、堰を切ったように尋問が始まった。
そうして誤魔化しているうちにポロっと漏れたのだ。
兄妹水入らずの旅行だから、と念を押したはずだった。
白々雪もうなずいた。それなら仕方ないッスね、と言っていた。
ただ、出発の日と時間だけ教えてくれ、と頼まれたから教えた。
てっきりその日から連絡をしてこないつもりだと思ったのに……
「五分遅刻ッスよ!」
ヒールのついたサンダルを履き、シャツとホットパンツ姿の白々雪が駅で待っていた。
その横には、薄手のカットソーにスカートに白ニーソックスのモデルのような格好の澪。
さらにはワンピース姿に麦わら帽子の梔子。
各々、なぜか大きな荷物を抱えていた。
「さあ、一週間の図書委員合宿に行くッスよ!」
やる気まんまんなその姿に、俺と歌音の口は塞がらなかった。
「まったくもって知らなかったよ」
「なにがだ?」
電車の規則的な揺れに合わせて、歌音がつぶやいた。
電車のボックス席をふたつ陣取り、ひとつは俺と歌音、もうひとつを女子三人が埋めている。
あっちで白々雪と澪が、遠くに見えた海の色が青に見えたか緑に見えたかという、どうでもいい口論を展開しているのをうざったそうに眺めて、歌音が頬をふくらませた。
「まあ、兄ちゃんの友達が同行するくらい、歌音は認めてあげる。愛人はふたりまで作っていいっていつも言ってるくらい歌音は懐広いしね。それにママがいなくて兄ちゃんとずっとふたりきりっていうのも、わりと味気なかったし、面白そうなひとたちだからそれはいいよ、べつにいい。……でも、なんで、みんな女のひとなの? 兄ちゃんはなにになりたいの? どこを目指したいの? いつのまに三蔵法師みたいになってたの?」
「なんだその例え」
梔子が悟空。
白々雪が猪八戒。
澪が沙悟浄ってところか。
……なんてメンツだ。
牛魔王すら倒せない。牛魔王はたしか悟空の義兄弟だったはずだから、きっと南戸がぴったりだ。
「……天竺までたどり着ける気がしねえな」
「あの人たちはべらせて、ここが天竺だ! とか言いださないでね」
「おまえの頭はいつも天国」
「となりに兄ちゃんがいれば歌音、地獄でも天国だよ」
「さらっと俺を口説くんじゃねえ。もっと視野を広げろ、男は世界にいっぱいいるぞ」
「それでも歌音、兄ちゃんにしゃにむに」
しゃにむに。
なんか最近の歌音のマイブームらしい。
「なあおい知ってるか歌音。猪八戒って豚なんだぞ」
「え? そうなの? イノシシじゃないの?」
「ああ、猪って漢字、ほんらいは豚って意味なんだよ」
「へー。まったく知らなかったよ」
「ちなみに干支の猪も、じつは豚なんだぜ」
「じゃあ十二人にひとりは豚野郎なんだね。おいこの豚! って悠々と言えるね」
「日本全国の猪年の方々に土下座して謝れ」
「ごめんなさい豚野郎!」
「死んでしまえ」
「って兄ちゃんが言ってたよ!」
おいこら指さすな。
責任転嫁もはなはだしい。
「豚は豚でも褒め言葉かもしれないじゃん」
「豚ってついてる時点でそれは悪口だ」
「イベリコ豚野郎」
「なんかリッチだ!」
「紅の豚野郎」
「カッコイイ!」
「兄ちゃんは飛べない豚だからただの豚野郎だけどね」
「うるせえ。それでもポルコは男の憧れなんだよ」
あの雄姿は脳裏から離れない。
あと言っておくが、俺は豚が好きなわけではない。
「でももし兄ちゃんが豚になっても、歌音は兄ちゃんを受け入れるよ……じゅるり」
「食う気まんまんじゃねえか」
「骨まで愛するっていいよね」
「おまえの愛は食欲につながるのか」
「でも兄ちゃんは肉付きそんな良くないから美味しくなさそうだね」
「ああよかった。禁断の関係にならなくて済みそうだ」
「でも兄ちゃんのこと食べたいな。違う意味で」
「いまのは聞かなかったことにしてやる」
「照れ隠ししないでいいよまったく素直じゃないんだから」
妄言もたいがいにしろ。
あと、俺を見て舌舐めずりするな。
「……おまえ、もう中一の夏だぞ? そのブラコンを治そうとは思わないのか?」
「……え? 不治の病?」
「ん? なんか妙な感じに聞こえたぞ」
「気のせい?」
「あれ、幻聴か?」
「大丈夫?」
「音がダブって聞こえる」
「たぶんそれは歌音の愛が漏れているからだよ?」
「どうやってしゃべってんだよ!」
歌音のびっくり特技を知った俺だった。
右手に人形持たせてやれば一躍有名人に違いない。
「歌音じつは二重人格なんだよ。生態ふたつあるんだよ」
「だからって声帯がふたつあるわけがない」
「右歌音と左歌音は別人なんだよ」
「ずいぶん丁寧な二重人格だな」
「じゃあ前後でもいいよ」
「後ろが不憫すぎる」
「おもてとうらに分かれてるんだよ」
「裏返ったらホラーすぎるだろ」
「じゃあ半日交代ででてくるとか」
「夜の歌音はほとんど寝てるじゃねえか。不憫だ」
「いいの。その代わり、いつか兄ちゃんと甘美な夜をすごす権利が、」
「あたえられません」
油断も隙もあったもんじゃない。
というか今日はいつもに増してブラコン推してくるな。
やはり白々雪を意識してのことか。
「ちがうよ。白々雪さんはたしかに兄ちゃんをその体でたぶらかす極悪魔女だけど、それよりも注意すべきひとがいるからね」
「ん? 誰のことだ」
「あの腹黒そうなお姉さんのことだよ」
と歌音は澪を凝視していた。
「歌音はわかるんだよ。あのひと、三人のなかでいちばん兄ちゃんのことを観察してるよ。ちらちら隙があればこっちを見てるもん。それになんとなく、兄ちゃんが結婚するならああいう気の強そうなタイプだって思うんだよ。だらしない兄ちゃんを尻に敷くような妹さん女房ってやつ」
「姉さん女房じゃないのかよ」
「正しい用法は妹さん女房だよ」
「お前中心に言語が創造されてると思うな」
「妹は世界を制するんだよ」
「その世界狭いなあ」
「世界の中心で愛を叫んだ妹」
「エリスンに土下座しろ」
こんどは土下座じゃ足りない気がするが。
「兄ちゃんはパロディってものを知らないの?」
「知ってるが、その危険性も知ってるだけだ」
「身のキケ――――――ン!」
「やめろ! 鉄壁は男の夢なんだ!」
「オレは人間をやめさせられるぞ―――――っ!」
「だからやめろってんだよ!」
「歌音、200%!」
「おまえがむかしのジャンプ好きだってわかったからそろそろやめてくれマジで」
「もう、しょーがないなあ。ちゅーしてくれたらいいよ? むふふふ」
「……そうか。それならやむなし」
「ひゃっ!」
迷いなく歌音の額にキスしてやった。
なんてことのない兄妹のスキンシップだ。
「どどどどどっ、どっ」
「どうした歌音? 顔真っ赤だぞ」
「ど、ど、どうしたもこうしたもないよばかあっ!」
「おい目が回ってるぞ大丈夫か」
「だ、だいじょうぶじゃないよぅ! 兄ちゃんサービス精神旺盛すぎるよっ! まったくもって心臓に悪いよ!」
「なぜだ。妹にキスしてなにが悪い?」
「とんだシスコン兄貴だよお!」
おまえには言われたくない。
「こ、こ、これだから……これだからツムギ兄ちゃんはやめられなブハッ」
「おい鼻血出てるぞ、ちょっと休んでおけ」
興奮のあまり混乱する歌音をそっとしておく。
とりあえずは回復するまで時間がかかりそうだ。
なるほど良い手があるものだ。
歌音を再起不能にさせる技を覚えた。レベルアップ。
「……ま、あまり多用はしたくないが」
なんにせよ、うるさい妹もこれで静かになった。
俺はゆっくりと背をもたれかける。
となりのボックス席では、まだ澪と白々雪がなにやら言い合っている。
こんどは深海生物がどうのとか進化がどうのとか聞こえてくる。飽きないやつらだが、それでもふたりともどことなく楽しそうだった。
その横で、梔子がひとりで本を読んでいた。
青色の表紙。
『少年と犬』 著 ハーランエリスン
……偶然なのかどうかわからないが。
俺はとりあえず、心のなかで、梔子にも謝っておいた。
電車に揺られてしばらくすると、窓の外の景色が広がった。
海岸線を電車が走る。その遠く前方に、海に突き出した半島のようなものがみえる。
その半島は林に囲まれた小さな田舎町になっている。
そこが俺たちの目的地だった。
「……ん、そういえば……」
むかし聞いたことがあったっけ。
たしか古来から、荒れる海を鎮めるために、あそこでは若い娘を人身御供に捧げていた習慣があったとか。海神様の怒りをなだめるという名目の生贄。母から聞かされたのは、そんな怖い昔話だった。
まあいまとなってはよくある話だとわかるんだが、俺がそれを思い出したのには理由があった。
水にまつわる精霊にあまり良い思い出がない。
まああれはそれほど悪い思い出でもないか。
ただ澪と俺が勘違いして、梔子と南戸に助けてもらっただけの過去だ。
そういえば、澪がムンメル湖の妖精に恋されるようになった行動ってなんだったのだろう。澪はそれのせいで殺されると思っていたらしいが……。
……ま、どうでもいいか。
それより妙なことにならなければいいけど。
神様に憑かれたことのある人間がふたり、妖精のストーカーを受けたことがある人間がひとりを引き連れての一週間の旅行。
ああ、なんか嫌な予感がする。
……頼むから、今回ばかりは平和にいってくれ。
俺はぼんやりと澪の横顔を眺めながら、そんなことを祈ってみた。
そうして電車を降りた俺たち五人は、自動改札のない駅から徒歩で別荘を目指した。
道は平坦で、左右には畑が広がっている。ビニールハウスの隙間のところどころに家があり、正面に林が広がっていた。林の向こうには海がある。そこに別荘があるのだ。
どうでもいい雑談を交わしながら、田舎道を荷物を担いで歩く俺たち。
ときおりすれ違う町の人々は、微笑ましそうに俺たちを見つめて通り過ぎていく。
夏の日差しは首を焼き、歌音の荷物まで担がされている俺には特に容赦ない光線を浴びせかけてくる。メラニンとか紫外線とか美容健康とかどうでもいいから、気温を少しだけ下げてくれないだろうか。
元気が回復した歌音は、ぴょんぴょん飛び回りながら先を歩く。
「ほら、もうすぐなんだからそんな顔しないでよ」
「おまえ自分の荷物くらい自分で持てよ」
「そんなことして歌音の腕が折れたらどうするの?」
「腕力に自信があると言ってたのはいつだったっけな」
「遊園地に行ったときはマッチョだったんだよ。いまは貧弱で病弱で虚弱で脆弱な女の子」
「ならスキップしてるんじゃねえよ」
「筋肉がぜんぶ足に移動したの」
「歌音の足が折れますように」
「ひどいお祈りするね! でも折れて動けなくなったら兄ちゃんが歌音の下の世話を――」
「しない。這ってでもトイレいけ」
「むぅ。それが最愛の妹に言うセリフ?」
不満そうな歌音。
あと数年もしたら「兄ちゃんのパンツといっしょ洗わないで!」とか言い出すんだろうなあ。
…………あれ? 想像しても思ったほど精神的ダメージがない。
どうやら俺はとっくに妹離れしているようだ。
日本全国から注がれるシスコン疑惑が解けた瞬間だ。
これからは声を大にして言える。「俺は妹にパンツを汚い目で見れられても平気になったぞ!」と。
成長したな、俺。またもやレベルアップだ。
「ねえ、聞いてる兄ちゃん?」
「ああそうだな。パセリはちゃんと食べる派だ」
「なんの話!?」
「すまん、なんの話だったっけ?」
「祈るって字と折るって字が似てるって話だよ。もともとセットで使うものなのかも」
「そんな嫌な話はしていない」
俺が顔をしかめると、歌音はイーっと舌を出した。
しばらく歩き、林にさしかかる。
直射日光が木々に遮られ、体感温度が下がった。
俺たちの後ろにいる白々雪と澪が、
「あれ、なんか潮の匂いが強くなったッスね」
「ほんとだ。そろそろなんじゃない?」
声を弾ませた。
そのとおり、もうそろそろ着く。
プライベートビーチもあるからテンションあげすぎないように注意しろよ。
とそう言おうと、俺と歌音が振りかえって――
「「…………え?」」
言葉を止める。
…………そんな…………そんな、バカな。
俺と歌音は、その視界に飛び込んできたありえない映像に息をのんだ。
歌音が目を見開いたまま、声を震わせる。
「……えっと……腹黒そうなお姉ちゃん、ひとつ聞いていい?」
「いいわよ。でも、これからはちゃんと澪って読んでね、歌音ちゃん?」
ニコニコ笑う澪の額に青筋が立っているのを俺は見た。
歌音、このお姉ちゃんときどき本気で怖いんだから気をつけてほしいんだけど……いやまあ、それよりも。
「それ…………なに?」
「へ?」
歌音が指さしたのは、澪の後ろ。
後ろ。背中側。
最後尾を歩く澪の背中に、うっすらとなにかが浮かんでいた。
半透明。
中途半端な透明色の、四枚の羽のようなものが澪の背中から生えていた。
「…………わお」
それはまるで、妖精のようで。
澪の小さな歓声は、俺たち四人の思考を止めるのに十分なものだった。
奇想天外。
奇奇怪怪。
妖精に好かれる少女。
妖精に憑かれる少女。
澪=ウィトゲンシュタイン。
彼女はこうして、いつのまにか妖精になっていた。
高木は風に折らる。
俺の野望、平和な夏休み計画は、その志が高すぎるからか知らないが、さっそく出鼻を挫かれることになった。
……あと、『祈る』と『折る』の字が似ているのは、神様の作為に違いない。




