1話 知らぬが仏
この日常、知らないことが多すぎる。
ラブコメというジャンルがあるのは知っている。
好きな本は本格推理。たまに雑学、ときどき詩学。
そんな俺の日常読書では、ラブ&コメディなんて分野にかかわる機会なんてほとんどなかった。ひょっとしたら機会はあったのかもしれないが、俺の濁った両目じゃ流してしまうだろう。つまりそれは、ないということだろう。
言語学的な考えだろうが、知ったこっちゃない。
『知らぬが仏』
『触らぬ神に祟りなし』
だってほら、神も仏も、無関係が一番だってわかってるだろ?
だからこそ一般庶民の俺は、ラブコメなんて無視するべきなのだ。
考えてもみてくれ。
そもそもラブなんて平和の大敵だ。
なにが愛だ。なにが恋だ。そんなものを主軸に置いた物語には、みずみずしい刺激と潤いが宿ってしまう。この日常できちんと青春してしまうではないか。
……青春、いやな言葉だ。
それにコメディも平凡の旧敵だ。
なにが喜劇。なにが笑い。そんなものを基軸に置いた物語では、あらあらしい個性と感受性が育ってしまう。この日常で、あっさり独自性を手にしてしまうではないか。
……独自性。怖い言葉だ。
平和のために平凡をつらぬく。
それこそが、俺の特技であり座右の銘である。
ラブコメに興味を抱くなんてこと、これっぽっちもない。
ラブコメに発展するなんてこと、これっぽっちもない。
だからこれはラブコメではない。
ただの修羅場だ。
なんてことはない、ただの修羅場。
そのはずだ。
「――さあ、どうするんスか?」
まず、俺の正面に座るのは見慣れた顔のおしゃべり女。
白々雪桜子。
茶色がかった癖のある毛に、ゆるやかに曲線を描く垂れ目。猫のような長い睫毛に、シミひとつない肌。そして潤沢な唇。夏服が窮屈そうに胸のあたりで顔を伸ばしている。ボタンをひとつ、外してやったほうがいいのではないだろうか。
「――ねえ、どうするの?」
つぎに、その隣に座るのは色白の美少女。
澪=ウィトゲンシュタイン。
氷が張った湖のような銀色の髪に、真っ白な肌。整った表情には隙がなく、ただしすこしばかりの童顔のために愛嬌が残る。ボタンをきちんと首元まで留めた彼女の首筋に、わずかに浮き出る汗の玉。だけど漂ってくるのはほのかに甘い香り。
『――久栗くん?』
そして俺の隣に座る、小柄な黒髪。
梔子詞。
長すぎる前髪の隙間からのぞくのは、澄んだ大きな瞳。熱の籠っていない顔立ちだが、完全な無表情ではない。目だけには感情を宿している。わずかに熱を含ませたその恥ずかしげな視線は、すこし前まで見ることがなかったものだった。それは俺と南戸が取り戻した梔子の感情。
怒気。
三人とも怒っている。
『婚姻届』
きのう俺が血判を押した用紙は、嘘に穢れていて恐ろしかった。
今日の容姿は穢れのなき可憐な姿のまま。
ただ、今日の要旨はなんだろう?
「なあ、おまえらいったいなにを――」
「書くんス」「書いてよ」『書いて』
ずいっと詰め寄られる。
彼女たちのその手には――――三枚の婚姻届。
それをなぜか俺に突きつける少女たち。
俺は限界まで後ろに体を反らして、やつらの視線から少しでも遠ざかる。
「お、おちつけお前たち。それは俺たちにはまだ早い」
「べつにウチが使うってわけじゃないッス。ただきのうまでウチに黙っていろいろやってたから、次からはそんなことしないように誓約するだけじゃないッスか。いわゆるこれは人質ッスよツムギ。そもそもコレを使おうとしたのはツムギじゃないッスか。なら、ウチも同じように使おうとするのは当然の帰結ッス」
呆れたように言う白々雪。
婚姻届。
たしかに俺は、白々雪に黙っていろいろやった。結果的には意味がなくなったが、白々雪を騙そうとしたり蚊帳の外に置こうとしたのは事実。
悪いと思っているのは、本当だ。
だがしかし、想像しただけで恐ろしい。そこらのナイフより尖って見える。
……あれ? 婚姻届って戦術兵器だったっけ?
「オ、オーケイ。おまえの言い分はわかった。わかったからじっくりと話し合おうじゃないか。……だからひとまず、その手に持った凶器をさげるんだオーケイ?」
「凶器だなんてとんでもない。ウチは本気ッス」
「その狂気も一緒にさげろ」
「正気ッス。ほら、いつものウチっしょ?」
「じゃあいつもの好奇も一緒にだ」
「そんなことすれば好機を逃すッス」
頑としてゆずろうとしない白々雪。
ダメだ。
こいつは俺に遠慮するやつじゃないのを忘れてた。
つい、いつもの癖で助けを求めようと梔子へと視線を動かして――
『久栗くん』
「うおっ」
もう一枚の婚姻届が目の前にあった。
『押して』
ずいずい、とほとんど動かない表情で迫られる。
とりもどしたばかりの感情を目だけに宿して、梔子が迫ってくる。すでに名前の欄は埋まっていて、やはり空いているのは俺の判を押す場所だけだった。
……どうやら梔子は怒っている。けど、その原因はわからない。
「ど、どうしたんだよ梔子……」
『約束』
「え?」
『久栗くんが、助けを求めたときの条件』
「あ……」
失念していた。
俺は梔子に不義理を働く代わりに、梔子の願いをなんでも聞いてやると言ったのだ。
……いや、だからといって婚姻届に判を押せってのはどうかと思うけどさ。
ただちょっと違和感。
「ちょっとまて梔子……それ、ほんとうにおまえの意思か?」
『あのひとの命令』
「やっぱり……」
『でも』
と梔子は瞳だけキランと輝かせ、
『私が久栗くんの手綱を握れば、浮気も怖くない』
「浮気っていうな!」
さては南戸のやつ、新しい単語を覚えさせやがったな。
ああ、俺の無垢な梔子が汚れていく。
…………いや、まあ冗談だけどさ。
「浮気ってどういうこと? ツムギくん」
と。
ついにやってきた。
やってきてしまった。
婚姻届を持たせたらもっとも恐ろしい人間のターンが。
「ねえ、ツムギくん。どういうこと?」
いままでうまく隠していたつもりだった。
こいつの調査好きは、まだ可愛げのあるものでしかなかった。俺の行動や生活態度を調べていたのは笑える程度で、それなりに自制も効いていたのだろう、ストーカーと呼ぶほどにひどくはなかった。
だが。
……この目はマズイ。
「わたしも怒ってるんだよツムギくん。ツムギくんは最初わたしに相談してきたよね? それなのにすぐに梔子さんに相談して、あまつさえ解決するまで頼り切るって、それはいったいどういうことなの? わたしが信頼できなかったってことでしょ? おかしいな、わたし、これからツムギくんのためならなんでもしてあげるって、助けてもらったときに言ったよね? それなのになんであっさり見捨てるのかなあ。おかしいなあ。なにかツムギくん隠してるんじゃないかなあ」
ニコニコ笑う美少女が怖い。
澪の視線がすばやく俺と梔子のあいだを走り抜ける。わずかな情報も漏らさないようにするその観察眼に、ぞくりと背筋が震えた。
「でもいいんだよツムギくんがなにを隠してても。わたし、黙って我慢するから」
「が、我慢する気ないだろ……」
「我慢するよ。おまえうるさいって言えば黙るよ」
「ああ黙るだろうな。うん。おまえはそういうやつだ」
「でしょ? 息するなって言われたら一生息しないよ」
「そうなりゃ俺がおまえを遺棄することになるけどな」
「犯罪はダメだよ。わたしが死んでもずっといっしょに居てね」
「死体を愛せというのか!?」
「愛したいよね? わたしの綺麗な体なら」
「…………アインシュタインと愛したいって似てるよな~」
遠い目をして逃げておく。
そもそも俺は死体愛好家じゃない。
「……てか澪、おまえってときどきとんでもないこと言うよな」
「牛でもないよ」
「豚でもないとは言ってねえ!」
ついでに言うと羊でも鳥でもない。
「人間なわたしは理性があるから、ツムギくんのためならなんでも我慢するよ?」
「そうか。じゃあ三回まわって――」
「わん!」
「――にゃんといえ。はい、おてつき、おまえの負け」
「ツムギくんってときどきイジワルだよね。まあいいよ、それで罰ゲームはなに? おしりぺんぺん?」
「前話の俺の思考を読みやがった!?」
「万が一書籍化されたら前巻だけどね」
「やめろ。そんな夢にあふれた夢のないセリフを言うな」
「書籍化されたら表紙でウェディングドレスを着たいなぁ」
「婚姻届を押しつけながら言うんじゃない!」
「ねえ、ハネムーンはどこにいく!?」
「……おまえ、ほんと積極的だよな……」
ニコニコ。
ニコニコニコニコ。
上機嫌になったのはいいことかもしれない。
だが、それはそれで怖い。
だってほら、婚姻届を折ってハート型にしてやがる。
「ほらみて、上手でしょう? これでいつ子供ができても安心よね」
「その紙を折り紙感覚で軽々しく扱うんじゃない!」
「軽いよ、八グラムくらいだもの」
「物理じゃねえ! いいか、その紙一枚に人生をかけるやつだっているんだ! その場のノリで取り出していいものじゃない!」
「そんなに大事なの?」
「ああ。性格の不一致とか言って別れるやつらもいるんだ。婚姻のための準備は入念にしなければならないのだ!」
「わかったよ。はい」
離婚届まで出しやがった!
想像以上に入念な準備をしてやがるっ!
親が泣くレベルだぞ(悲しみで)
「これでなにも問題はないでしょ?」
「おおありだばかやろう」
「なんで?」
「離婚する覚悟で結婚するやつがあるか」
「離婚しないよ? 婚姻届は結婚するまでの脅しの道具で、離婚届は死ぬまでの脅しの道具だもん」
「言っちゃったよ!」
誰かなんとかしてくれ。
いつもはストッパー役の白々雪ですらフォローしてくれない。白々雪が口を挟んでくれさえすれば、澪の怒りの矛先が白々雪に向くというのに! ああ、最近ふたりの喧嘩が少なくなったと喜んだ俺が間違いだったのか!? やはりプロレスは俺が見にいくべきだったのか!
因果応報ってやつだな。
「でもだいじょうぶだよツムギくん。わたしは尽くすタイプだから。ツムギくんが働かなくたっていいようにがんばって働くもの。ツムギくんは家でのんびりしていればいいよ」
「え? ほんとか?」
「うん。わたしが仕事にいってる間は、家でごろごろしててもいいよ。帰ってきたら美味しいご飯つくるからいっしょに食べようね。でも疲れてたらときどきマッサージとか背中流したりとかしてね。そうすればツムギくんはなにもしなくていいから」
「おお、それはナイスな提案――」
「目を輝かせるなッス! このダメ男!」
横から白々雪に殴られた。
ハッとする。つい澪の提案に乗るところだった。
危なかった。
サンキュー白々雪。
「ちっ……せっかく籠絡できるところだったのに邪魔するなっての」
「聞こえてるッスよ黒澪ちゃん」
「ん? なにか言った白々雪さん?」
「ええ、都合のいい耳と口ッスねって言ったッス」
よしよし。
白々雪の介入は、やはり澪の言動の緩衝材になってくれる。
このまま話題を逸らそうか、と俺が目論んでいると、
『――それはダメ』
と。
すっと横から割り込んだのは、梔子。
さっきから、やはり怒りの視線を宿している彼女。
梨色のメモ帳を、俺たち三人の前で掲げる小さな少女。
俺たちはぴたりと動きを止め、梔子の動きを見守る。
『久栗くんに婚姻届を書かせるのはダメ』
澪と白々雪は、その文字に目を細めた。
「……べつに、ウチはツムギと結婚したいわけじゃないッスよ。ただツムギにやられたことをやり返すだけッス。まあそうじゃなくても、梔子さんにそんなこと言われる筋合いはないッスよね」
「そうそう。筋合いがあっても、それに従う理由はないよね」
『あるよ』
梔子は素早くペンを走らせる。
え、おい……まさか。
俺が危惧を覚えた瞬間、梔子は主張するかのように、メモ帳を高く掲げた。
そこには、こう書いてあった。
『だって私は、久栗くんの彼女だから』
「「……………………。は?」」
これは、平和と平凡をこよなく愛する俺の、苦渋の物語。
これから始まる夏休み。
その前半戦。
ラブコメが目の前に迫っているなんて、俺はまだ気付かなかった。




