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頼むからあの娘のべしゃりを止めてくれ!  作者: 裏山おもて
3巻 ゆうとうせいの、コイバナシ

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1話 知らぬが仏

 

 この日常、知らないことが多すぎる。



 ラブコメというジャンルがあるのは知っている。

 好きな本は本格推理。たまに雑学、ときどき詩学。

 そんな俺の日常読書では、ラブ&コメディなんて分野にかかわる機会なんてほとんどなかった。ひょっとしたら機会はあったのかもしれないが、俺の濁った両目じゃ流してしまうだろう。つまりそれは、ないということだろう。

 言語学的な考えだろうが、知ったこっちゃない。


『知らぬが仏』

『触らぬ神に祟りなし』


 だってほら、神も仏も、無関係が一番だってわかってるだろ?

 だからこそ一般庶民の俺は、ラブコメなんて無視するべきなのだ。



 考えてもみてくれ。

 そもそもラブなんて平和の大敵だ。

なにが愛だ。なにが恋だ。そんなものを主軸に置いた物語には、みずみずしい刺激と潤いが宿ってしまう。この日常できちんと青春してしまうではないか。

 ……青春、いやな言葉だ。

 それにコメディも平凡の旧敵だ。

 なにが喜劇。なにが笑い。そんなものを基軸に置いた物語では、あらあらしい個性と感受性が育ってしまう。この日常で、あっさり独自性を手にしてしまうではないか。

 ……独自性。怖い言葉だ。


 平和のために平凡をつらぬく。

 それこそが、俺の特技であり座右の銘である。

 ラブコメに興味を抱くなんてこと、これっぽっちもない。

 ラブコメに発展するなんてこと、これっぽっちもない。


 だからこれはラブコメではない。

 ただの修羅場だ。

 なんてことはない、ただの修羅場。

 そのはずだ。



「――さあ、どうするんスか?」



 まず、俺の正面に座るのは見慣れた顔のおしゃべり女。

 白々雪桜子。

 茶色がかった癖のある毛に、ゆるやかに曲線を描く垂れ目。猫のような長い睫毛に、シミひとつない肌。そして潤沢な唇。夏服が窮屈そうに胸のあたりで顔を伸ばしている。ボタンをひとつ、外してやったほうがいいのではないだろうか。


「――ねえ、どうするの?」


 つぎに、その隣に座るのは色白の美少女。

 澪=ウィトゲンシュタイン。

 氷が張った湖のような銀色の髪に、真っ白な肌。整った表情には隙がなく、ただしすこしばかりの童顔のために愛嬌が残る。ボタンをきちんと首元まで留めた彼女の首筋に、わずかに浮き出る汗の玉。だけど漂ってくるのはほのかに甘い香り。


『――久栗くん?』


 そして俺の隣に座る、小柄な黒髪。

 梔子詞。

 長すぎる前髪の隙間からのぞくのは、澄んだ大きな瞳。熱の籠っていない顔立ちだが、完全な無表情ではない。目だけには感情を宿している。わずかに熱を含ませたその恥ずかしげな視線は、すこし前まで見ることがなかったものだった。それは俺と南戸が取り戻した梔子の感情。


 怒気。

 三人とも怒っている。



『婚姻届』



 きのう俺が血判を押した用紙は、嘘に穢れていて恐ろしかった。

 今日の容姿は穢れのなき可憐な姿のまま。

 ただ、今日の要旨はなんだろう?


「なあ、おまえらいったいなにを――」

「書くんス」「書いてよ」『書いて』


 ずいっと詰め寄られる。

 彼女たちのその手には――――三枚の婚姻届。

 それをなぜか俺に突きつける少女たち。

 俺は限界まで後ろに体を反らして、やつらの視線から少しでも遠ざかる。


「お、おちつけお前たち。それは俺たちにはまだ早い」

「べつにウチが使うってわけじゃないッス。ただきのうまでウチに黙っていろいろやってたから、次からはそんなことしないように誓約するだけじゃないッスか。いわゆるこれは人質ッスよツムギ。そもそもコレを使おうとしたのはツムギじゃないッスか。なら、ウチも同じように使おうとするのは当然の帰結ッス」


 呆れたように言う白々雪。

 婚姻届。

 たしかに俺は、白々雪に黙っていろいろやった。結果的には意味がなくなったが、白々雪を騙そうとしたり蚊帳の外に置こうとしたのは事実。

 悪いと思っているのは、本当だ。

 だがしかし、想像しただけで恐ろしい。そこらのナイフより尖って見える。

 ……あれ? 婚姻届って戦術兵器だったっけ?


「オ、オーケイ。おまえの言い分はわかった。わかったからじっくりと話し合おうじゃないか。……だからひとまず、その手に持った凶器をさげるんだオーケイ?」

「凶器だなんてとんでもない。ウチは本気ッス」

「その狂気も一緒にさげろ」

「正気ッス。ほら、いつものウチっしょ?」

「じゃあいつもの好奇も一緒にだ」

「そんなことすれば好機を逃すッス」


 頑としてゆずろうとしない白々雪。

 ダメだ。

 こいつは俺に遠慮するやつじゃないのを忘れてた。

 つい、いつもの癖で助けを求めようと梔子へと視線を動かして――


『久栗くん』

「うおっ」


 もう一枚の婚姻届が目の前にあった。


『押して』


 ずいずい、とほとんど動かない表情で迫られる。

 とりもどしたばかりの感情を目だけに宿して、梔子が迫ってくる。すでに名前の欄は埋まっていて、やはり空いているのは俺の判を押す場所だけだった。

 ……どうやら梔子は怒っている。けど、その原因はわからない。


「ど、どうしたんだよ梔子……」

『約束』

「え?」

『久栗くんが、助けを求めたときの条件』

「あ……」


 失念していた。

 俺は梔子に不義理を働く代わりに、梔子の願いをなんでも聞いてやると言ったのだ。

 ……いや、だからといって婚姻届に判を押せってのはどうかと思うけどさ。

 ただちょっと違和感。


「ちょっとまて梔子……それ、ほんとうにおまえの意思か?」

『あのひとの命令』

「やっぱり……」

『でも』


 と梔子は瞳だけキランと輝かせ、


『私が久栗くんの手綱を握れば、浮気も怖くない』

「浮気っていうな!」


 さては南戸のやつ、新しい単語を覚えさせやがったな。

 ああ、俺の無垢な梔子が汚れていく。

 …………いや、まあ冗談だけどさ。


「浮気ってどういうこと? ツムギくん」


 と。

 ついにやってきた。

 やってきてしまった。

 婚姻届を持たせたらもっとも恐ろしい人間のターンが。


「ねえ、ツムギくん。どういうこと?」


 いままでうまく隠していたつもりだった。

 こいつの調査好きは、まだ可愛げのあるものでしかなかった。俺の行動や生活態度を調べていたのは笑える程度で、それなりに自制も効いていたのだろう、ストーカーと呼ぶほどにひどくはなかった。

 だが。

 ……この目はマズイ。


「わたしも怒ってるんだよツムギくん。ツムギくんは最初わたしに相談してきたよね? それなのにすぐに梔子さんに相談して、あまつさえ解決するまで頼り切るって、それはいったいどういうことなの? わたしが信頼できなかったってことでしょ? おかしいな、わたし、これからツムギくんのためならなんでもしてあげるって、助けてもらったときに言ったよね? それなのになんであっさり見捨てるのかなあ。おかしいなあ。なにかツムギくん隠してるんじゃないかなあ」


 ニコニコ笑う美少女が怖い。

 澪の視線がすばやく俺と梔子のあいだを走り抜ける。わずかな情報も漏らさないようにするその観察眼に、ぞくりと背筋が震えた。


「でもいいんだよツムギくんがなにを隠してても。わたし、黙って我慢するから」

「が、我慢する気ないだろ……」

「我慢するよ。おまえうるさいって言えば黙るよ」

「ああ黙るだろうな。うん。おまえはそういうやつだ」

「でしょ? 息するなって言われたら一生息しないよ」

「そうなりゃ俺がおまえを遺棄することになるけどな」

「犯罪はダメだよ。わたしが死んでもずっといっしょに居てね」

「死体を愛せというのか!?」

「愛したいよね? わたしの綺麗な体なら」

「…………アインシュタインと愛したいって似てるよな~」


 遠い目をして逃げておく。

 そもそも俺は死体愛好家(へんたい)じゃない。


「……てか澪、おまえってときどきとんでもないこと言うよな」

「牛でもないよ」

(とん)でもないとは言ってねえ!」


 ついでに言うと羊でも鳥でもない。


「人間なわたしは理性があるから、ツムギくんのためならなんでも我慢するよ?」

「そうか。じゃあ三回まわって――」

「わん!」

「――にゃんといえ。はい、おてつき、おまえの負け」

「ツムギくんってときどきイジワルだよね。まあいいよ、それで罰ゲームはなに? おしりぺんぺん?」

「前話の俺の思考を読みやがった!?」

「万が一書籍化されたら前巻だけどね」

「やめろ。そんな夢にあふれた夢のないセリフを言うな」

「書籍化されたら表紙でウェディングドレスを着たいなぁ」

「婚姻届を押しつけながら言うんじゃない!」

「ねえ、ハネムーンはどこにいく!?」

「……おまえ、ほんと積極的だよな……」


 ニコニコ。

 ニコニコニコニコ。


 上機嫌になったのはいいことかもしれない。

 だが、それはそれで怖い。

 だってほら、婚姻届を折ってハート型にしてやがる。


「ほらみて、上手でしょう? これでいつ子供ができても安心よね」

「その紙を折り紙感覚で軽々しく扱うんじゃない!」

「軽いよ、八グラムくらいだもの」

「物理じゃねえ! いいか、その紙一枚に人生をかけるやつだっているんだ! その場のノリで取り出していいものじゃない!」

「そんなに大事なの?」

「ああ。性格の不一致とか言って別れるやつらもいるんだ。婚姻のための準備は入念にしなければならないのだ!」

「わかったよ。はい」


 離婚届まで出しやがった!

 想像以上に入念な準備をしてやがるっ!

 親が泣くレベルだぞ(悲しみで)


「これでなにも問題はないでしょ?」

「おおありだばかやろう」

「なんで?」

「離婚する覚悟で結婚するやつがあるか」

「離婚しないよ? 婚姻届は結婚するまでの脅しの道具で、離婚届は死ぬまでの脅しの道具だもん」

「言っちゃったよ!」


 誰かなんとかしてくれ。

 いつもはストッパー役の白々雪ですらフォローしてくれない。白々雪が口を挟んでくれさえすれば、澪の怒りの矛先が白々雪に向くというのに! ああ、最近ふたりの喧嘩が少なくなったと喜んだ俺が間違いだったのか!? やはりプロレスは俺が見にいくべきだったのか!

 因果応報ってやつだな。


「でもだいじょうぶだよツムギくん。わたしは尽くすタイプだから。ツムギくんが働かなくたっていいようにがんばって働くもの。ツムギくんは家でのんびりしていればいいよ」

「え? ほんとか?」

「うん。わたしが仕事にいってる間は、家でごろごろしててもいいよ。帰ってきたら美味しいご飯つくるからいっしょに食べようね。でも疲れてたらときどきマッサージとか背中流したりとかしてね。そうすればツムギくんはなにもしなくていいから」

「おお、それはナイスな提案――」

「目を輝かせるなッス! このダメ男!」


 横から白々雪に殴られた。

 ハッとする。つい澪の提案に乗るところだった。

 危なかった。

 サンキュー白々雪。


「ちっ……せっかく籠絡できるところだったのに邪魔するなっての」

「聞こえてるッスよ黒澪ちゃん」

「ん? なにか言った白々雪さん?」

「ええ、都合のいい耳と口ッスねって言ったッス」


 よしよし。

 白々雪の介入は、やはり澪の言動の緩衝材になってくれる。

 このまま話題を逸らそうか、と俺が目論んでいると、


『――それはダメ』


 と。

 すっと横から割り込んだのは、梔子。


 さっきから、やはり怒りの視線を宿している彼女。

 梨色のメモ帳を、俺たち三人の前で掲げる小さな少女。

 俺たちはぴたりと動きを止め、梔子の動きを見守る。


『久栗くんに婚姻届を書かせるのはダメ』


 澪と白々雪は、その文字に目を細めた。


「……べつに、ウチはツムギと結婚したいわけじゃないッスよ。ただツムギにやられたことをやり返すだけッス。まあそうじゃなくても、梔子さんにそんなこと言われる筋合いはないッスよね」

「そうそう。筋合いがあっても、それに従う理由はないよね」


『あるよ』


 梔子は素早くペンを走らせる。


 え、おい……まさか。

 俺が危惧を覚えた瞬間、梔子は主張するかのように、メモ帳を高く掲げた。


 そこには、こう書いてあった。



『だって私は、久栗くんの彼女だから』



「「……………………。は?」」





 これは、平和と平凡をこよなく愛する俺の、苦渋の物語。


 これから始まる夏休み。

 その前半戦。


 ラブコメが目の前に迫っているなんて、俺はまだ気付かなかった。



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