10話 ストリームライン
結論から言おう。俺は初めから騙されていた。
まどろっこしいのは嫌いだ。犯人がバレバレなのに、動機の複雑さで解決を焦らそうとするミステリ小説などとくに好きじゃない。いくら理論がしっかりしていようとも、ダラダラとオチを先延ばしにするのはフェアじゃない。
だから言う。
俺は失敗した。
賭けには勝てなかった。
――梔子と俺の婚姻届。
あれはむろん、無効になる。
なぜなら俺の血判は、傷つけた指で押されたものだからだ。不完全な指紋。白々雪がそのことに気付いたなら、俺の意思に気づくはずだ。俺は梔子の婚姻届を受け取るように見せかけ、拒否したことを。
そりゃあ俺もまだ結婚なんてしたいとは思わない。相手が梔子ならなおさら、しっかりとお互いが納得するかたちでないとダメだ。そういう意思表示でもあった。
とにかく白々雪がどう思うか。
それがこの賭けの内容だ。
白々雪が『ツムギは梔子を選ばなかった』で終わるのか、『ツムギは他の誰かを選びたかった』まで思考が伸びてゆくのか。後者までいけば、あとは白々雪の妄想力にゆだねるだけだ。白々雪が両親についていくことを躊躇わせる方法は、けっきょくは彼女自身の思考による。
それくらいしか、俺には思いつかなかった。
だが、俺は賭けに勝てなかった。
白々雪が俺の狙いに気付かなかったわけじゃない。彼女はものの数十分で気付いて、帰宅中に電話をかけてきた。これはどういうつもりだ、と。梔子にはちゃんと説明して謝罪しているのか、と説教すらしてきた。じつに白々雪らしい物言いだ。
もちろん梔子にはメールしておいた。梔子が家につけば南戸に報告するだろう。俺の狙いなんて詐欺師のあいつからすれば二秒で看過できるに違いない。だから梔子には『後日説明する』と送っておいた。これで、いまはいい。
白々雪は俺の狙い通り、随分と頭を悩ませたようだった。いままで俺の恋愛話は気にも留めなかったくせに、このときばかりはしつこく食い下がった。俺らしからぬ行動に、もしや他に結婚したい相手がいるのか、とそれはもうしつこく。
そう考えれば、作戦は成功したといえる。
白々雪の好奇心を刺激してやることには成功した。
……だが、勝負には勝てなかったのだ。
いや、そもそも最初から勝負なんて存在していなかった。
俺がそれに気付いたのは、白々雪と電話が終わった直後。
歌音と母はふたりで買い物に出かけていて、誰もいないはずの家に帰りついた俺に小さな注射器が横からにゅっと伸びてきて、腕に突き立ってからだった。
「え」
玄関に立っていたのは、女性だった。
ウェーブのかかった癖っ毛に、垂れ目がちな表情。病的なまでに白い肌にはほとんど皺がない。それでも四十歳を過ぎているとわかるのは、俺が彼女を知っているから。
白々雪桜子の母親。
彼女は、俺の胸に突き立った注射器をぐっと押しこむ。
なにかが身体に侵入してくる。
ぐにゃりと視界が歪んだのは、そのすぐ直後だった。
足をもたつかせ、玄関に崩れ落ちる。
なにが起こったのか――それはすぐにわかった。
俺の頭を、そいつは踏みつける。
「……他愛ないわね、あなた。どうして二年前、あなたなんかに出し抜かれたのかしら? むかしの私が不甲斐ないわね」
俺は悟った。
――俺は初めから、騙されていた。
騙されていた。
手紙なんて、最初の一通目から、ただのブラフ。
娘に逢いたいという言葉は、ただのハッタリ。
酸いも甘いも経験した大人が、あんな露骨な手段で娘を取り返そうだなんて思わない。
目的は別にあったのだ。
手紙を囮に、娘への電話すら囮に。
彼女はここへやってきた。
俺の油断を作り出して、やってきた。
俺――久栗ツムギのもとへ。
殺意と狂気を眼孔に宿して。
十五年間、オカルトのために娘を育ててきたオカルト主義者はここへ来た。
「さて、神を殺したあなたの身体、思う存分調べさせて頂戴ね」
行動主義者の神秘狂い。
子どもの俺じゃ太刀打ちできない、聡明で姑息な大人。
南戸が言ったのは、まさにこのことだったのだ。
なんの薬だろうか、薬学どころか雑学にすら見聞がない俺にはわからない。
手足が痺れて動かない。首はかろうじて動く。舌も動く。だが、首から下はまったく動く気配がない。
リビングのソファに横たえられている。
俺を見下ろしている白々雪の母親は、その手にメスを握っていた。
メス。外科手術で使うそれだ。
医療ドラマでよく見る。
それを俺の胸にあてがい、くすりと笑う。
「気分はどうかしら? 桜子を守るためにいろいろと準備をしていたのでしょう? それがすべて無駄になった気分はどう? 自分の身は安全だと思い込んでいた気分はどう? 良好? それとも焦燥?」
「…………。」
「睨んじゃって、あらかわいい。このまま犯してあげたいくらいだわ。ああ、それもいいかもしれないわねえ。神を殺した少年の遺伝子……気になるわ」
裸の上半身を、メスの先と指の先で撫でられる。
ぞくりとする。白々雪が持つ純然たる好奇心。それがオカルトになると、これほどまでに俺の背筋を凍らせてくる。
「ふふふ、でもそれはいまじゃなくていいわね。いまはあなたの体を調べることが先決」
カチャ、とベルトが外される。
するすると制服のズボンを脱がされて、パンツ一丁になる。
恥ずかしいとは思わない。それよりも、屈辱が俺の胸を焼く。
白々雪母は俺の体をまさぐる。
触り、撫で、握り、舐め、嗅ぎ、噛み、叩き、曲げ、観察する。
気味が悪い。
「……ふうん、とくに外形には変化がないのねえ。てっきり不思議な変化が起こるものだとばかり思っていたけれど」
「俺は普通の人間だ。なにも成果はないから、はやく帰れ」
「なにを言ってるの? いまからが本番じゃないの」
彼女は俺の腹の上においてあった刃物を取る。
皮膚を切るつもり――ではなく、大きく振りかぶった。
「ちょっとまて、おまえ、なにを……」
「?」
振り上げた体勢のまま、白々雪母は首をかしげる。
「なにって、刺すのよ。体内組織が通常のままなら血が溢れる。だけどもし違えば、それは面白いものが見れるのじゃないかしら? さすがに切開している時間はないから、できるだけ効果的な手段を試したいと思わない?」
ぞっとする。
この街にいたころはまだ、ここまで猟奇的じゃなかった。いくらか人道的で、常識的で、探究心も理性で抑制できていた。すくなくとも生きている人間の腹にメスをつきたてるような人間とは思えなかった。
……いや、そうじゃない。
これは単純な好奇心じゃない。
俺に対する、復讐も含まれているんだ。
十五年間準備してきた神の降臨。娘の体を使った神の顕現。それを邪魔した俺が憎いのだ。そして娘も財産も仕事もすべて失って、遠くの地で生活を余儀なくされているいまが憎いんだ。
狂気と復讐。
そのために、こいつはここまで来たんだ。
人生を破綻させた俺を、破滅させに来た……。
「…………そうか」
「あら。抵抗はあきらめたのかしら?」
「そうじゃねえよ」
抵抗をあきらめたわけじゃない。
死ぬ覚悟があるわけでもない。
痛いのは嫌いだし、怖いのも嫌いだ。
だけど、狂気はともかくこの復讐は、俺が拒絶できることじゃない。
「……俺にも非があるからな。だからやるなら、さっさとやれ。こんなところ妹か母さんに見られたらおまえ、それこそ殺されるぞ?」
「あら、こんな状況で私のことを心配してくれているのかしら?」
「んなわけねえだろ。家族を犯罪者にしたくないだけだ。おまえみたいなかわいそうな大人にしたくないだけだ」
「ふうん、おかしな子ね。まあわかっていたけれど。それじゃあ覚悟はいいわね?」
白々雪母は、また小さく笑った。
そこからの言葉はいらなかった。
やることはただひとつ。
彼女はメスを、振りおろした。
迷いなく。
一直線に。
俺の胸に突き立ったメス。
ずぶり、という不快な感覚と痛みは――
――――こなかった。
「……あらら」
気の抜けたような白々雪母の声。
振りおろしたはずのメスは、そこにはなかった。
彼女が握っていたはずの刃物はそこになかった。
「物騒だねえ」
白々雪母の後ろに立っていたそいつの手のなかで、メスはくるくると弄ばれていた。
そいつは甚平姿で享楽的に嗤っていた。
「こんなもので刺そうとするなんて料簡、さっぱり理解できないぜ。これはあくまでも切る道具で、刺すのには向いてない。垂直にありったけの力を込めねえとほとんど刺さらねえぞ? いまみたいな握り方じゃあせいぜい皮膚の下止まりだな、内臓には届くまい。それに刃物にはそれぞれに適正用途がある。人間の体をきっちり奥まで刺したければ、小刀でも用意するんだな。素人が無理にやろうとすると人間も道具も傷つけちまう。人生経験そこそこのあんたがそこに思い当たらねえなんて、オカルト学には効率化ってもんが存在しねえのか?」
なぜこんなところにいる。
なぜ俺の家にいる。
梔子の家にいるはずのおまえが。
数年間、家から出たことのないひきこもりのおまえが。
「おいおい。引き籠りは死ぬまで家から出ねえのか? アタシはマンガやアニメのキャラじゃねえんだ、理由があれば外出くらいするし、ヒマがあれば人命救助にだって駆けつける。玄関があきっぱなしの家に入るくらいは容易いことだぜ?」
南戸はゆっくりと、俺の横まで歩いてくる。
いきなりの闖入者――その風貌を直視し、白々雪母は固まって動かない。動けない。いまごろは理性と本能が、南戸の美しさを受け入れるために戦っているのだろう。いくら大人であろうとも関係ない。南戸はそこにいるだけで、他人を魅了してくる。
そんな反応をさも当然とばかりに、南戸は俺の体の下に腕をすべりこませた。
甚平から、梔子の家の匂いがした。
「ま、間に合ってなによりだよ久栗クン。さくっと殺されてたらどうしようかと思っていたところだ。アタシはともかく、そんなことになればあの子の大きな痛手になる。まあ命あっての物種だぜ、無事でよかったな」
「……すまない」
「さてさて、それはともかくだ。このオバハンと決着をつける前に、ひとつ言っておこう」
南戸は俺の体を持ち上げて起こすと、にやりと口元を歪めた。
さぞかし楽しいのだろう。
その笑みは、初めから用意されていたものだった。
「――ほんと、キミは騙し易い」
頼りになる、美しくも、悪どい女。
それが南戸だった。




