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頼むからあの娘のべしゃりを止めてくれ!  作者: 裏山おもて
1巻 くちなしさんの、コトバナシ 〈上〉
2/86

2話 きづかない

 ふにっ。と。


 俺の手のひらに柔らかいものが触れる。弾力がある、張りのある肌だった。

 思わず心臓が跳ねる。暖かいというよりぬるい、太ももの温度。

「――っ!」


 ぴくり、と指先を動かしてしまう。滑らかな感触。雪のような白い肌。俺はいまそこに触れている。女の子の肌なんてふつう触れない。手のひらに吸いつくようだ。だが、スカートに阻まれてそれを目視することができない。なまじスカートのなかが見えないぶん、知性が、想像が、肉欲が、煩悩が、その体温が俺を貴賎な葛藤へと追い込む。心臓が高鳴るのを理性が抑え込もうとする。……理性には自信がある。本能に(そそのか)されて平和を崩すなんて考えられない。強靭な理性が俺の個性でもあると自負している。それに、ここは学校の図書室でまごうことなく公共の場だ。腰から下はカウンターのなかに隠れているとはいえ、ここでそんなことをするなんて聖なる図書室をなんだとわきまえてるんだ――――という背徳感には、しかし滅茶苦茶な威力があった。理性が根強いからこそ、はっきりと感じる特殊な状況。

俺はつい指先を動かしてしまい、白々雪の肌を撫でる。

 白々雪は「んっ」と小さくうめいた。

 俺はとっさに謝った。


「あ、す、すまん」

「……そ、それで、ウチのふともも……どうッスか? 初めて触る感覚ッスよね?」

「どうっておまえ……い、いきなりなにを、」


 動揺する俺。いったい何がしたいのか。まさか俺を誘ってるわけじゃあるまい。

 すると白々雪は色っぽい顔つきで、


「もうすこし奥に入れたらどうなるか……気になるッスか?」

 ごくり、と俺はつい唾を呑む。理性? 抑止力? そんなもの多少発達してようが、しょせん俺はまだ高校生で、餓鬼で、男である。思わずうなずきそうになって――


 だが。


 白々雪は、さすがにそこまでする気はなかったのか、腰を引いて手をスカートから抜いた。「ふう」と息をつくように大きく空気を吐きだした。


「えっと……その……つまりそれが好奇心ッス。ウチの恥ずかしい部分の感触を知りたい……そこはツムギにとって非日常の世界で未知の領域なんスから、つまり『奇』なんッスよ。それを知りたいのは知識欲でも支配欲でもなく、好奇心なんスよ」


 まだ手のひらに残る感覚。

 なるほど、この感覚の先になにがあるのか――たしかに、俺は気になった。知らない感覚に対する欲求は、たしかに大きい。もちろん好奇心のほかにも思春期特有の感情がその心を助長したけれど、それは言わない。


「それと同じなんスよ。ウチは、ツムギが図書委員になる理由が知りたいッス。ツムギが図書委員になるなんて、不自然で違和感で、それこそ奇怪なことに思えるッスから」


 なるほど。

 なぜ白々雪がそこまで俺の図書愛についてこだわるのか、ようやくわかった。

 だがそれでも、俺がそれを説明する義務はないし、それにいまは言わなければならないことがある。

 俺は白々雪をじっと見つめる。


「なあ、そのまえにひとつ言っていいか?」

「なんスか?」

「ごちそうさまでした」

「――ッ!」


 白々雪は顔を紅潮させた。自分でやったくせに、自分でやったことの意味を、ちょっと恥ずかしいくらいにしか考えてなかったのだろうか。ただ好奇心というものを論じるためにやったこととしては不必要なほど刺激が強いことだ。俺にとっても、白々雪にとっても。ほかにやりようはいくらでもあったのに。頭はいいけど阿呆なやつだった。


「い、いまのは、あの、そういう意味でやったんじゃなくてッスねっ」

「……おまえって、じつはエロいのな」

「誤解しないで欲しいッス! ウチも初めて男のひとに触られたッスから! ツムギが初めての相手ッスから!」

「待て待て。その言い方こそ誤解を生むぞ?」

「だからエロくなんかないッス! ウチは健全ッス! ぜんぜんまだまだ処女ッス!」

「おい落ちつけ白々雪」


 フーフーと興奮する白々雪を押さえつけて、俺は苦笑した。


『図書室では静かにしましょう』と入り口の扉に貼られた注意書きには、なんの説得力もなかった。


 白々雪の息が整うのを待ってから、


「まあ好奇心がどれだけ耐えがたい欲求なのか、よおくわかった」

「……わかってくれてよかったッス……代わりになにかを失ったッスけど……」


 どこか疲れたような表情の白々雪だった。


「けど、俺がおまえの質問に答える義理はないな。俺はなりたいから図書委員になってるんだよ。自分の意思で、自分で選択して。それでも気になるなら、とりあえずこう言っておくとする。……俺は、図書委員としての立場が気に入ってる」

「……そうスか。わかったッス。もう訊かないッス」

「よし。じゃあこの話は終わりだ」

「うい」


 白々雪は、脱力した体躯を、さらにグダらせて椅子にもたれかかった。

 無言になる。

 いまのことはとりあえず記憶の底に封印しておこう。俺は白々雪とは健全に関わりたい。すくなくとも白々雪に健全だと思われているうちは、そのとおりにするべきだろう。……健全な男子高校生なんて、どこにもいないのに。

 そこらへん白々雪は純粋だ。男子高校生のエロさくらい知っているはずだが、知識と認識がいい意味でずれているのだ。


 これは俺が、饒舌家なうえ理屈屋な白々雪をうとましく思わない大きな理由だった。白々雪は口うるさく語れど、なにか言えば返ってくるのは反駁はんばくばかりだけど、その視線はとても綺麗だ。悲観しても絶望しても呪っても、彼女はただ純粋に世界を恨むような少女だ。そこに計算や損得勘定はない。

 ……もしそれがなくなれば友達をやめるか、と言われればそうでもないので、最大の理由とまではいかないけど。


 友達。そう。それが俺たちの関係だ。あまり邪心をはさむな、俺。


 手持無沙汰になった俺は、ぐるっと図書室のなかを眺めた。

 それほど広くない図書室だ。図書室なので直射日光は入ってこないよう窓は北向きになっている。

 大粒の雨が、窓を叩いていた。

 完全下校時刻までほとんど時間がないから、利用している生徒はいない。


 ……いや、奥のほうにひとりいた。


 そこでようやく、本を読んでいるひとりの少女の姿に気付いた。


 かなり大声で白々雪と言い合っていたのに、そいつは一言も文句を言わず、ましてや物音ひとつたてなかった。黒い髪を伸ばし、前髪は目もとのすこし下で切り揃えている。髪の隙間から覗く大きな瞳が、やけに黒く、印象深い。


「……あれ、同じクラスの梔子(くちなし)さんッスよ」


 俺の視線に気付いた白々雪が耳打ちする。


「ほら、入学式の代表挨拶とき、なにも喋らなかったひとッスよ。それどころか声を聴いたってひともいないらしいッス。もう七月なのにそうとうな無口ッスよね。ウチなんかよりよっぽど図書室が似合うッスよ。無口な図書委員キャラ……ありふれた個性ッスけど、魅力的ッスよね~」

「……白々雪。おまえ自分が図書委員似合わない自覚あったのか?」

「そりゃあウチのわがままボディは図書室よりも保健室が似合うッスからね」


 と胸を張る白々雪。

 たしかに図書室には不似合いな双丘だ。図書室は胸のつつましい子がいるべき場所だろう。肉感的な体格は、なぜかあまり文学的とはいえない。……それもおかしな話だ。そういえばなぜだろう、川端康成や初期の谷崎潤一郎はそのありのままの下卑た欲望を隠さないことでも評価を得ているのに。現在の純文学という分類(カテゴリ)には、フィルター効果があるのだろうか。それとも俺の偏見だろうか……べつにどうでもいいか。


「……にしてもデカイ胸だな」

「あの……自分から自慢しといてなんスけど、あんまりまじまじと見ないでください……その、他意はないッスからね? ウチほんとにエロくないッスよ?」


 いかん見惚れてた。慌てて視線を逸らす。

 読書コーナーの一番を奥を見る。


 無口なことで知られている梔子はじっと座って、ぶ厚い本に目を落としていた。没頭するかのように読みふけるその横顔は、どことなく寂しそうにも見える。


「それにしても目立たない子ッスよね」


 白々雪も梔子を眺めた。


「そうだな。俺もいままで、本読んでるなんて気付かなかった」

「存在感がないっていうか、靄みたいな、霧みたいな感じッスよね。ここに入ってきたところを見てなかったらウチだって気付かなかったッスよ」

「いつ入ってきたんだ?」

「図書室開けてすぐッスよ。覚えてなかったッスか?」

「んなもん覚えてるわけないだろ。誰が来たかなんてすぐ忘れるよ。おまえが見たものぜんぶ忘れないのが凄いんだよ」

「忘れないんじゃないッス。覚えてるだけッス」

「同じだろ。その記憶力が羨ましい」

「そんなにいいものじゃないッスよ。……嫌なことだってぜんぶ覚えてるんスから」

「たとえば?」

「小学生三年、隣のクラスだったツムギに初めて話しかけられた言葉が『なあ、そこのデブ!』でした。胸がすこし膨らんでただけなのに、あれはひどかったッスよ?」

「…………すまん覚えてない」

「それから小学五年のとき、ツムギと二回目に話したんスけど『おまえそこになんか隠してるだろ?』ってツムギがウチの胸を掴んだこともあったッス。あのときはまだブラしてなかったから痛かったですし、ふつうにセクハラされたのがショックで、帰って泣いたッスよ」

「…………すまん覚えてない」

「あとこれも五年生のとき、ツムギと三回目に話した会話が『おまえ母乳でんのか?』だったッスよ。ガチでセクハラすぎて、それからずっとツムギのこと無視してたんスから。中三のときに助けてもらうまで、じつはツムギのこと嫌いだったんスよ。よく考えればあのときは小学生でしたし無邪気なだけだったとは思うんスけど……ツムギ、覚えてないッスか?」

「……ごめんなさい覚えてません」


 深々と頭を垂れる俺。

 白々雪は手をひらひらと振った。


「もういいッスよ。べつに、いまのツムギは嫌いじゃないッス。意固地に図書委員になるところとか意味わかんないッスけどね。……それに、自分で言っておいてなんですけど、ぜんぶ覚えてるっていうのも悪いことばかりじゃないッスよ?」

「まあ、テストとかおまえほとんど満点だったしな? ここの受験も寝坊してなかったら、おまえが新入生代表になってただろ」

「そんなのわかんないッスよ。それに、記憶力のおかげで満足なのはテストとか成績とか、そんなしょーもないことじゃないッス。もっと意義深いことッスよ。それはもうこの世界の神秘ともいえるほどウチにとっては重要なことですし、人間の深さ、味、価値……とにかく大切なことが脳裡に刻み込まれるんスから。このためにウチの記憶力が発揮されているといっても過言ではないッス。このためにウチのニューロンが繋がってると言っても大言壮語じゃないッス。むしろこのために世界があると豪語しても、ちっとも大風呂敷じゃないッス!」


 かなり仰々しく含ませる白々雪だった。

 つまり、どういうことだ?


「聴きたいッスか?」

「ああ。そこまで言われたら気になる」

「それそれ。それも好奇心ッスよ。ああ、それなら好奇心をこよなく愛する者として、その質問に答えないわけにはいかないッス。でも、ほんとは答えたくないんスよ?」

「……答えたくないのか?」

「ええ、だって、ウチがこれを答えることによりツムギに精神的損傷を与えてしまう可能性がなきにしもあらずですからね。ウチはツムギを傷つけることなんてしたくないッス。そんな気はこれっぽっちも、それっぽっちも、どれっぽっちもないッスよ?」

「じゃあ言わなくても――」


 なにやら嫌な予感がしたので制止しようとしたが、遅かった。

 白々雪はフフフと笑いながら、


「まだ網膜にこびりついてるッスよ。中学三年の夏、教室でツムギが全裸になって水着に着替えてたのが渡り廊下から見えたッス。視力はそこそこあるッスから、ちゃんと全身くまなく見れたッスよ……ああ、もうツムギは子どもじゃなかったんスねッ!」

「うおおいっ! 見たのか!? 俺の大切な部分を見たのか!?」

「いやはや、勉強になったッス。ごちッス」

「うそだあ聴きたくなかったあ」


 頭を抱える俺。


「ウチ、ほんとにツムギを傷つける気なんてないッスよ? でも内緒にしておくなんてできなかったッス! ウチは好奇心をこよなく愛するッスからね! わざとじゃないッスよ! わざとじゃないッスからね!」

「……確信犯だ……」

「せんないことッスよ。好奇心には勝てないッスから!」

「俺は負けなかったのに……」


 うなだれる俺と、上機嫌な白々雪だった。

 窓に叩きつけていた雨が弱まってきた。

 完全下校時刻までもう幾分もない。そろそろ図書室も閉めるとしよう。

 雨が小ぶりのうちに帰りたい。それになにより、なぜかきょうの白々雪はやけに蠱惑的だった。素材美人な白々雪に魅力を感じるのは正常な証拠だが、凹凸の激しい白々雪の肉体は、精神に優しいとは言いがたい。


「それじゃあ、そろそろ貸出ノートの整理するッスよ」


 白々雪も同じ考えだったようだ。俺は読書スペースの最奥で熟読している梔子を見つめてうなずいた。白々雪も、同じふうに視線を送る。


「にしても、ほんと気配のない子ッスよね。なんでなにも言わないんスかね~。気になるッスよ」

「なら訊けばいいんじゃないか?」

「とっくに訊いたッスよ。でも、なにも答えてくれないんス。無表情だし、なに考えてるのかもわかんないんで、気になるけどウチはもうあきらめたッス……」


 白々雪はため息をついて、視線を手元の漫画本に落とした。

 また沈黙が訪れる。


 静かな時間は好きだ。衣擦りの音すらしない、雨の音だけの図書室。


 俺は黙って、しばらく梔子の様子を眺めていた。

 梔子は完全下校のチャイムが鳴るまで本の世界に浸っていた。文学少女なのだろうか。そのまま読んでいた本を借りて帰っていった。一言も話さずに本をレンタルできるシステムなのは、喋らない梔子にとって喜ばしいことだろう。

 帰り際、カウンターにある貸出帳簿を見てみた。

 綺麗な文字で、梔子のフルネームとクラス、それから本のタイトルと返却期限が書かれてあった。


 梔子が読んでいたのは『古事記』だった。

 

 ……なんとも渋い趣味だった。



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