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第5話:緊急利上げで現役世代が逝きかけた件について

1ドル=170円。


日銀が世界最大級の外貨準備を切り崩し、数兆円のドルを市場に投下して築き上げた「絶対防衛線」は、自国民のNISA口座から放たれた無数の「円売りボタン」の連打によって、跡形もなく粉砕された。


パニックに陥った官邸と財務省は、外貨への資産逃避を物理的に止めるため、禁断の『海外投資信託の新規買い付け停止』や『個人資本取引の原則禁止(資本規制)』の検討に入ったと報じられた。

だが、佐藤はデスクトップの前で乾いた笑いを漏らした。


「バカめ。そんな規制を匂わせたら、まだ動いていなかった層までが『早く円を脱出させないと資産が国にロックされる』とパニックになり、取引停止の前に1秒でも早く円を売る暴走が始まるだけだ。規制しても円安、放置しても円安。完全に詰んでいる」


打つ手のなくなった日銀は、ついに最後のカードを切った。

──禁断の「緊急利上げ」の発表。

円の価値を死守するため、これまでの0.25%刻みの微調整ではない、市場の投機筋を焼き尽くすための強烈な利上げを断行したのだ。


これを見たテレビの解説者たちは「これで円高に反転する!」と色めき立った。

だが、シンガポールのオフィスでチャートを睨むエラン・ハザンも、そして足立区の自室にいる佐藤も、同時に冷酷な確信を抱いていた。


(始まったな。1992年のロンドンと同じ──『黒い水曜日』の再現だ)


かつてジョージ・ソロスがポンドを売り崩した際、イギリス銀行は数時間の間に政策金利を10%から15%へと引き上げる猛烈な利上げで防戦した。だが、市場は「景気後退に苦しむイギリスが、そんな金利を維持できるわけがない。自滅するだけだ」と見透かし、ポンドを売り続けた。結果、イギリス政府はわずか1日で白旗を上げた。


今の日本が置かれた状況は、当時のイギリスよりも遥かにグロテスクだった。


「経済の教科書しか読めない連中は、利上げすれば円安が止まると本気で信じている。だが、市場のアルゴリズムが見ているのは、日米の金利差なんかじゃない。この国の、手遅れな【人口構造】と【財政の癌】そのものだ」


佐藤はコンソールに、利上げがもたらすもう一つの「数式」を展開していく。


もし日銀が、市場の圧力に押されて大幅な利上げを続ければどうなるか。

円高になる効果は一時的だ。その裏で、住宅ローンの変動金利は跳ね上がり、企業の借入負担は激増する。何より、国と地方が抱える天文学的な借金の「国債の利払い負担」が政府財政の首を絞める。企業はコストを価格に転嫁して凄まじい値上げを始め、ただでさえ社会保険料で窒息寸前だった現役世代の負担は限界を突破する。


そして、このシステムの最大の歪みが牙を剥く。


【利上げによる富の再分配の歪み】

・若い現役世代 = 住宅ローン増、企業の業績悪化、物価高による「トリプルパンチの負担」

・高齢者世代 = 莫大な個人金融資産(預貯金)への金利付与による「ノーリスクの不労所得増」

金を毟られ続けた若い世代にさらなる鉄槌が下り、逃げ切り世代がさらに潤う。利上げという劇薬は、この少子高齢化社会においては、現役世代をジェノサイド(虐殺)するための即効性の毒薬にしかならないのだ。


「日銀は強い利上げを長く続けられない。構造的に、武器を奪われているんだ。市場のハゲタカどもは、その弱点(算数)を完璧に見抜いているからこそ、確信を持って円を売り崩してきている」


この円安の本質は、一時的な投機でも、為替のあやでもない。

数十年間、少子高齢化という構造問題を先送りし、現役世代の財布を都合のいい集金マシーンとして使い潰し続けた結果、ついに始まった「国家システムの壊死現象」そのものなのだ。


もはや、数兆円規模の為替介入など、破れかけたダムの穴を指で押さえるような気休めにすらならない。


市場から容赦なく浴びせられる「日本売り」の濁流。

利上げのアナウンスがあったにもかかわらず、ドル円チャートは一瞬だけ下落した後、ゴムパチンコが弾けたような猛烈な勢いで、再び170円の彼方へと垂直上昇を始めた。


国家の盾が、粉々に砕け散る音がした。

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