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【完結】この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第四部 最後の観測者
52/67

第51周 受け継がれる意思

「次へ行く。……停滞は許可されない」


マリユスの声には、もはや一片の色彩も残っていなかった。


怒りも、焦りも、恐れもない。

その横顔は、一寸の狂いも無い。

完璧な彫像のように冷たく均一で、迷いや躊躇いという、人間にしか持ち得ない揺らぎすら、演算を乱す不要なノイズとして削ぎ落とされているように見えた。


「マリユス、あなた……」


クリスティーナの指先が、彼の袖を掴もうとして、途中で止まる。

いつもなら、どんな窮地でも不敵な笑みを崩さない彼女の顔が、今は血の気を失っている。


自分と出会った日のことさえ、彼はもう遠くへ置いてきたのかもしれない。

その事実が、胸の奥を鋭く抉っていた。


ミーティアもまた、胸の前で両手を固く組み、祈るように彼を見つめていた。


声をかけたい。

止めたい。

触れて、人間の場所へ引き戻したい。


けれど、その優しさこそが、今の彼を完全に壊してしまうかもしれない。


マリユスの中で保たれている演算は、すでに限界を超えていた。

それでも彼は進んでいる。

自分の感情を、自分の記憶を、自分という形を、少しずつ切り捨てながら。


「チッ……クソが」


カイが低く舌打ちした。


その声には怒りがあった。

だが、それ以上に濃く滲んでいたのは、嫌悪と恐怖だった。

分かっているのに、止められない。


世界を守るために、人間が円環の部品へ変わっていく。

それは、この世界が繰り返してきた最悪の構造そのものだった。


六人は、なおも奥へ進んだ。

やがて通路の形が変わり始める。


壁面を走っていた演算式が沈み、代わりに古い石の質感が浮かび上がった。

金属と術式灯に満ちていた現代研究所の気配が薄れ、もっと古く、もっと深い時代の沈黙が空間を満たしていく。


次に彼らの前へ現れたのは、概念的な演算ではなかった。


圧倒的な物理質量を持つ、白い封印だった。


円形に整然と並ぶ十二本の巨大な石柱。

その中央に、取っ手のない重厚な扉が鎮座している。


ただそこにあるだけで、空間そのものを沈黙させるような圧迫感があった。

まるで何かが、何千年ものあいだ、主が戻る時を待ち続けていたかのように。


「……これは」


カイが警戒を露わにしながら歩み寄る。


「王家の封印です。血筋、あるいは生体情報の整合にのみ反応する」


セラフィウスが背後から告げた。その声は、いつになく厳かだった。


「王家? なら、俺の出番だな」


カイは迷わず、扉の表面へ掌を押し当てた。

低い振動が、石柱から地の底を這うように伝わってくる。


だが、扉は動かなかった。


「……開かねえ。どういうことだ」


カイの眉が険しくなる。


セラフィウスが無言のまま隣に立った。

彼もまた、長い時間を経た掌を扉へ触れさせる。

先ほどとは異なる複雑な波形が走る。


けれど、それでも封は解けなかった。


重苦しい沈黙が、冷たい通路に溜まっていく。


「……親父」


カイの声は低かった。


「これ、どういうことだよ。俺の血じゃ、格が足りねえって言うのか」


セラフィウスはすぐには答えなかった。

ただ、石柱に刻まれた古い文字を、どこか痛ましげに見つめている。


「単一の生体データでは、認証を完了できません」


やがて、彼は静かに言った。


「これは――正統なる継承を前提としている」


「継承……?」


「今の血と、過去の血。二つの異なる位相が重なり合うことで、はじめて鍵は回るのです」


カイの瞳が揺れた。

理解したくない。


この封印は、ただ王家の血を求めているのではない。

王家の血が、どこから来て、何を背負い、誰へ渡されたのか。

その連なりそのものを求めている。


「……つまり、あんたは、本当に……」


問いは、最後まで形にならなかった。


セラフィウスは視線を逸らさない。

ただ短く、義務を果たすように言った。


「同時に。行きますよ、カイ」


カイは奥歯が軋むほど歯を食いしばった。


「……くそッ」


吐き捨てながらも、手は離さない。


父と息子。

今を生きる血と、過去から流れ着いた血。


二つの王家の位相が、同時に扉へ注ぎ込まれる。


その瞬間、十二本の石柱が一斉に共鳴した。

深い重低音が空間を震わせる。封印が、幾何学的な光の粒へ分解されていく。

重厚な扉は、何世紀もの眠りから目覚めたかのように、ゆっくりと開いた。


扉の先へ足を踏み入れたところで、カイは荒い息を吐きながら父を睨みつけた。


「……親父。なんなんだよ、あんたは」


声が震えていた。


「なんで全部知ってる顔をしてるんだ。なんでここに来るのが最初から分かってたみたいに、迷いなく歩けるんだよ!」


それは怒りだった。

けれど、その奥にあったのは、もっと剥き出しの恐怖だった。

父が、自分の知らない場所へ行ってしまう。

自分の知らない顔で、知らない歴史を背負い、知らない罪を抱えている。

それが怖かった。


「俺の知らない顔で、俺を見るなよ……」


絞り出した声は、怒号ではなかった。

置いていかれた子どもの声だった。


セラフィウスの瞳が、一瞬だけ揺れる。


「……カイ」


それ以上は言えなかった。


今ここで語れば、まだ開いてはならない記録が確定してしまう。

言葉は、観測だ。観測されたものは、力を持つ。


それを、セラフィウスは誰よりも知っていた。


「……ふざけんなよ。いつもそうだ、あんたは。いつも一人で、全部隠して……!」


カイは拳を握りしめた。


けれど、それ以上踏み込むことはできなかった。

ここで父子の絆を壊してしまえば、この危うい旅そのものが崩れてしまう。

そのことを、彼自身が一番よく分かっていた。


セラフィウスは静かに、けれど逃れようのない歴史の重みを宿して告げた。


「……この先で、すべてが分かります。私の犯した罪も、君が背負うべき運命も」


「次へ行く」


背後から、マリユスの冷徹な声が落ちた。

その輪郭は、感情の余韻を最早持ちえていなかった。



六人は、さらに奥へ進んだ。


やがて、視界が唐突に開ける。

誰も、すぐには言葉を発することができなかった。

そこにあったのは、アエリス研究所の地下などではなかった。


古代王国の一部が、そのまま時間ごと封じ込められていた。


白い石造建築。

天高く伸びる回廊。

どこからともなく流れてくる、微かな花の香りを孕んだ風。

床の脇を静かに走る、水路の痕跡。


天井には巨大な観測円盤が埋め込まれ、淡い星図が数千年の時を超えてなお浮かび上がっている。

柱には王家の紋章と緻密な演算式が並び、神への祈りの文言と、冷徹な理論式が、同じ深さで刻み込まれていた。


現代研究所の、冷たい金属と人工的な術式灯に満ちた空間とは、空気の密度そのものが違う。

ここでは、技術と祈りはまだ分かたれていなかった。


世界を読むことも。

世界を守ることも。

誰かのために祈ることも。


すべてが、同じ一つの行為だった時代の静けさが、そこには残っていた。


「……帰ってきたみたい」


ミーティアが小さく呟いた。

その声は、泣き出しそうなほどに震えている。


彼女にとって、ここは故郷そのものではない。

けれど、この風の匂いを知っていた。この光の柔らかさを知っていた。

この場所に刻まれた祈りの形を、身体の奥で覚えていた。


アーロンもまた、胸を強く打たれていた。


古代で見た、あの美しい回廊。

風。

光。

失われたはずの、愛おしい時間。


その残響が、いま、目の前に確かに存在している。


けれど、最も深く足を止めたのはマリユスだった。

彼が何を感じているのか知るすべはもうない。

だが、冷たくなったその瞳で、長い時間その景色を見つめていた。


クリスティーナが、その横顔を見つめる。


名前を呼びかけようとして、唇を閉じた。

今の彼に届く言葉が、まだ自分の中に見つからなかった。


広間の中央には、低い円柱状の古代端末があった。

その表面を、淡い青白い光の粒子がゆっくりと巡っている。


マリユスは何も言わず、その端末へ向かった。

クリスティーナもすぐに隣へ並び、記録端末を起動する。

ミーティアは、足元の青い花がどの方向へ反応しているのかを確かめるように周囲へ目を凝らした。


そのわずかな空白の時間に、アーロンは意を決してセラフィウスへ歩み寄った。


カイも気づいていた。だが今回は止めなかった。

ただ少し離れた場所で、いつでも二人の間へ割って入れるように立っている。


「……聞きたいことがある」


セラフィウスがゆっくりと振り向いた。


そこにあるのは、いつもの穏やかで、どこか頼りない神父の顔だった。

けれどアーロンにはもう、その表情だけを信じることはできなかった。


「僕はこの場所で、あなたを見た」


沈黙。


足元の青い花が、かすかに揺れた。


「あなたは、最初からここへ戻る道も、その意味も知っていた」


アーロンは、まっすぐに彼を見る。


「あなたは、あの時代の当事者の一人だった」


問いというより、確信の告白だった。

言い切った瞬間、アーロンの胸の奥で、頼りなかった旅の目的が静かに定まっていく。


セラフィウスはすぐには答えなかった。


その横顔に、数千年の孤独を耐え抜いたような疲労の影が落ちる。

彼はまだ見えない最奥の闇を見つめ、小さく息を吐いた。


「……見たのですね」


否定しなかった。

その一言だけで、アーロンの中の散らばっていた線は、ほとんど繋がった。


「君が見たのは、今の私と同じであり、同時に、同じではない存在です」


アーロンは眉を寄せる。


けれど、不思議と意味は分かった。

完全に同じ人間ではない。

だが、魂の根底で切り離すこともできない。


記録。

残響。

あるいは、責任だけが形を変えて残ったもの。


「責任者だった、という言い方は正しい」


セラフィウスは静かに言った。


「だが私は、最後までその責任を果たせなかった」


 その声には、自己弁護よりも先に、深い悔恨があった。

 長い歳月でも摩耗しきらなかった、硬く鋭い痛みのようなものが、そこには残っている。


「だから今、私はここにいるのです」


アーロンは黙ってその言葉を受け止めた。


責めるべきなのかもしれない。

古代で見た、あの崩壊の気配。

最後の夜の絶望。

その中心にこの人がいたのなら。


けれど、実際に目の前へ立たれると、どうしても責めきれなかった。

あの時代の片隅で見たものは、冷たい責任だけではなかった。


誰かを切り捨てて世界を延命するのではなく、失われるものすべてを抱え込もうとした、不器用で、愚かで、けれど確かに人間らしい選択だった。


「……じゃあ、あなたは当事者?」


アーロンの問いに、セラフィウスは静かに頷く。


「ええ。案内役である前に、大いなる失敗を犯した当事者です」


その言葉に、離れて聞いていたカイが、とうとう耐えかねたように足を踏み出した。


「失敗、で済ませるのかよ」


低い声だった。


怒りがある。けれど、その奥で明確に震えていた。

ずっと掴めなかった父親の正体へ、ようやく指が届きかけた者だけが抱く怖さが、そこにはあった。


「親父、あんた何者なんだよ」


カイは、声を絞り出した。


「俺を育てた神父なのか。大昔の偉い人間なのか。それとも、もっと別の何かなのか」


喉が詰まる。


「俺にとってのあんたは、一体どれなんだよ」


セラフィウスは、まっすぐにカイを見た。


その目は一瞬だけ、確かに父親のものだった。

研究者でも、歴史の記録を抱えた怪物でもない。

ただ、一人の息子を前にした、無力な男の目だった。


「私は、セラフィウスです」


まず、そう言った。短く、揺るがない声で。


「それは変わりません。ですが私の中には、どうしても消えない古い記録が残っている。消えず、切り離せず、時に今の私の判断へ影を落とすほどに」


カイの喉が、小さく鳴った。


それがずっと聞きたかった答えだったのか。

あるいは、最も聞きたくなかった真実だったのか。

本人にも分からない表情を浮かべている。


「……じゃあ、そのせいで俺たちに黙ってたのか」


「半分はそうです」


セラフィウスは隠さずに答えた。


「もう半分は――言葉にした瞬間、それが現実として確定してしまうからです」


 アーロンは息を呑む。


「記録は、観測されることで力を持つ。私は、その恐ろしさを知っていた。知っていたからこそ、君たちを巻き込むのを、できる限り遅らせたかった」


それは卑怯な逃げでも、保身でもなかった。


この人が数千年の孤独の中で導き出した、ぎりぎりの責任の取り方だったのだと、痛いほど分かってしまう。

かつて果たせなかった責任を、今度こそ最後まで引き受けようとする者の声だった。


そのとき、前方で術式の光が強まった。


「開く。来い」


マリユスの無機質な声が告げる。


六人は再び歩き出した。

古代都市の中心部を思わせる壮麗な広間を横切り、最奥へと続く円形回廊へ足を踏み入れる。


その先にあったのは、他のどの構造物とも明らかに異質な巨大な扉だった。

扉というより、無数の記録媒体そのものが壁の形を取っているようだった。


石でもない。

金属でもない。

半ば透明な深い白の奥底に、青い花の紋様、天体の星図、そして終わりなき円環図式が幾層にも重なって沈んでいる。


近づくだけで、周囲の空気にかすかな残響が滲んだ。

誰かの声になりきれなかった記録が、耳の奥をかすめる。

セラフィウスが、その前で足を止めた。


「ここが――ログ保管庫です」


静かな声だった。


だが、その一言が落ちた瞬間、空間全体が生き物のように反応した。


カイが前へ出る。

王族の血が柱の紋章へ触れた瞬間、低い地鳴りのような振動が広がった。


マリユスが演算式を走らせる。

床の回路が淡く発光し、封鎖構造がパズルのように解かれていく。


ミーティアの足元で、青い花が一斉に花弁を開いた。

恩寵の流れが、扉へと収束する。


そして、アーロンが扉の前へ立った瞬間。


扉の表面に刻まれた円環図式が、一度だけ不規則に大きく揺らいだ。


世界を観測するシステムにとって、存在しない空白であるはずの彼を。

この古代の装置は、拒絶ではなく、空白として受け入れた。


次の瞬間。


巨大な扉が、音もなく開いた。


隙間から漏れ出してきたのは、ただの風ではなかった。

もっと古く、重く、凍りつくように冷たい――時間の流れそのものの気配だった。


通路の青い花が、一斉に怯えるようにそちらを向く。

闇の奥から、かすかな音が聞こえる。


記録音声なのか。

観測ログの断片なのか。

あるいは、遠い過去に失われた誰かの魂の残響なのか。


まだ判別はつかない。


ただ、確かに世界の真実がそこに保存されていると分かる、重い残響だった。


六人は、その深淵の前に立ち尽くす。

開いたのは、ただの扉ではない。

ここから先へ一歩でも進めば、もう誰も、以前と同じ自分ではいられない。


暗闇の奥で、真実を宿した白い光が、静かに、残酷に脈打っていた。

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