第50周 演算の果てに
空間は、まだ完全には揃っていなかった。
足音が数秒遅れて背後から返り、隣を歩く仲間の呼吸がわずかにズレて届く。
光が壁を叩いてから、影がその動きを追うまでに、明確な一拍の遅延が生じている。
世界が、まだ「ひとつの時間」に固定されていない。
六人は、物理法則が未確定な情報の奔流の中を、手探りで進んでいた。
やがて、通路の様相が劇的な変化を見せる。
継ぎ目のあった壁面は、ひとつの塊のように滑らかな白い石へと変質し、床に刻まれていた紋様が、生き物のようにゆっくりとうごめき始めた。
進むべき道が、足元からリアルタイムで書き換わっていく。
「……来たな」
セラフィウスが足を止めた。
その先――通路はもはや、通路としての体を成していなかった。
空間が折れ、重なり、ある場所では唐突に消え、また別の場所で現れる。
一本道でもなければ、分岐でもない。
そこにあるのは、空間そのものを変数として解き放った「演算」の結果だった。
「……迷路かよ。悪趣味だな」
カイが唾を吐き捨てるように呟いた。
「違う」
マリユスが、吸い寄せられるように前へ出た。
その瞳は、すでに仲間たちを映してはいない。
ただ、目前の「構造」のみを、凄まじい速度で走査している。
「位相演算回廊。分岐圧縮式、観測補助層……。なるほど、金星由来の調和論理を、あえて土星の遅延律で封じているのか。中枢へのアクセスそのものを、ひとつの大規模な認証プロセスに変換している」
マリユスの口から、専門的な用語が淀みなく溢れ出す。
理解している。完全に。
いや、あまりにも「理解できてしまう」のだ。
壁面が脈動するように光る。
古代語、星図、波形、そして王家の紋章。
すべてが巨大な論理回路として組み合わさり、侵入者を拒んでいる。
その瞬間。
空間が、激しく爆ぜるように揺れた。
否。揺れたのではない。「位相」が、切り替わったのだ。
視界の端で、白い回廊が石畳の市場へと姿を変える。
焼きたてのパンの香り。子供の賑やかな笑い声。
アーロンは反射的にそちらを見た。
そこには――古代の衣装を纏ったアステリオスとミーティアがいた。
二人の間には、小さな男の子。
ミーティアに似た美しい銀髪と、アステリオスに似た鮮やかな緑色の瞳を持つ子供だった。
「これ、持ちたい!」
無邪気な声。アステリオスが困ったように笑い、ミーティアが柔らかく微笑む。
――それは、本来ならあり得たはずの、誰も奪ってはならなかった幸福な未来。
ミーティアの呼吸が、完全に止まる。
「……これ……」
だが次の瞬間、景色が残酷なノイズとなって崩壊する。
市場が砕け、白い粒子となって剥離していく。
代わりに現れたのは、アエリス研究所の一室だった。
アーロンが、机に積み上げられた論文の山に埋もれている。
その隣で、マリユスが呆れたように眉を寄せていた。
「だから言っただろう。仮説式の順序が逆だ」
「でも、こっちの方が直感的で……」
「研究に直感を持ち込むな」
そう言いながらも、マリユスは彼の論文を手伝うために自然にペンを取っている。
アーロンが、息を呑んだ。
それは、戦いも、円環も、世界の終末すら知らない未来。
ただの研究者として、隣で静かに笑い合えたかもしれない可能性の残骸。
「っ……」
視界が再び歪む。
今度は、巨大な王城の玉座の間。
王族の正装を纏ったカイウス――カイが、厳かに玉座の前に立っていた。
その前には、旅装束のアーロン。
「面を上げろ、旅人」
王としての威厳に満ちた声。
だが、不敵に吊り上がった口元だけは、いつものカイのままだった。
「久しぶりだな、アーロン」
その声に、アーロンの胸が理由もなく痛む。
別の人生、別の役割、別の選択。選ばれなかった無数の美しい未来が、位相の裂け目から血のように溢れ出している。
さらに、景色が変わる。
小さな孤児院。
まだ幼いクリスティーナが、古びた机に突っ伏して無防備に眠っていた。
その隣では、少年の姿をしたマリユスが難解な本を気難しそうに読んでいる。
「マリユスー……おなかすいた」
「さっき食べただろ」
「育ち盛りなの」
「意味が分からない」
奥から現れたのは、まだ若い頃のセラフィウスだった。
「こら、二人とも。今日はもう寝なさい」
呆れたように笑う神父。温かな灯り。小さな食卓。当たり前の、人間らしい生活。
クリスティーナが、その光景を血の気が引いた顔で見つめたまま、掠れた声で呟く。
「……なんなのよ、これ」
「観測残響だ」
セラフィウスが重く、低い声で答えた。
「選ばれなかった可能性。歴史に固定されなかった位相の断片が、この回廊のエネルギーに当てられて実像として漏れ出している」
「じゃあ全部、“あり得た”っていうの……? 私たちの、別の未来だったって言うの……!?」
「ええ。世界は本来、もっと無数に優しく分岐していた」
だが、マリユスだけは一度も振り返らなかった。
彼は既に、目の前の凄絶な演算の海へと意識を沈めている。
「急げ。配置が閉じる」
マリユスが手をかざした。
彼が握りしめた金の懐中時計が、チチッ、と鋭い音を立てて逆回転を始める。
床の紋様が激しく書き換わり、複雑に折れ曲がっていた通路が一瞬だけ、ひとつの直線上へと収束した。
その瞬間。彼の呼吸が、明確に、かつ不自然に乱れた。
「マリユス」
クリスティーナが彼の異変を察知し、鋭く声をかける。
だが、反応が遅れた。
ほんのわずか、コンマ数秒の致命的な遅延。
演算の過負荷が、彼の脳の記憶領域を一時的に激しく圧迫する。
否。圧迫ではない。――『削除』だ。
マリユスの脳裏で、何かが音もなく、静かに剥がれ落ちていく。
幼い頃に貪り読んだ本の題名。
研究所へ初めて足を踏み入れた日の、雨の匂い。
クリスティーナと初めてくだらない内容で口論した、あの日の記憶。
些細な、だけど彼を「人間」たらしめていた記憶から順番に、白く、均一に消去されていく。
代わりに脳内へと濁流のように流れ込んでくるのは、膨大な位相演算式。星々の配置。時間軸の収束率。世界固定のための、冷たい計算結果。
脳が、人間の器のままでは耐えきれずに悲鳴を上げている。
「……誰だ」
マリユスの口から、自身の意識の混濁を疑うような掠れた言葉が漏れた。
全員の動きが、凍りついたように静止する。
直後、彼は一切の感情を排した機械的な正確さで、その言葉を上書きした。
「……いや、違う。クリスティーナ。何でもない、続きを急ぐぞ」
何事もなかったかのように歩き出す。
だが、クリスティーナの鋭い眼差しは、彼の決定的な変質を見逃さなかった。
「今、なんて言ったの? 私のことを、今、『誰だ』って言ったわね」
「何も言っていない。空耳だ」
即答。だが、その声には微かな温度すら、塵ほども残っていなかった。
以前の彼なら、鼻で笑って皮肉の一つでも返し、彼女を苛立たせて誤魔化したはずだ。
だが、今はそれすらしない。いや、返せないのだ。
余計な感情や会話に割くためのリソースは、すでに深淵なる星々の演算によってすべて食いつぶされている。
マリユス自身にも、分かっていた。
自分の中から、「自分」という個の輪郭が消えていく。
怒り。苛立ち。喜び。――そして、愛情。
そうした人間としての不確定要素が、演算効率を阻害する「不要ノイズ」として、容赦なく削ぎ落とされていく。
それでも。止められない。
ここで演算を止めれば、この世界は一瞬で崩壊する。
だから彼は、自らの魂を削る。
まるで、世界という巨大なシステムを維持するためだけの、摩耗品になるように。
「無理してるでしょ。演算を止めなさい……! 一度脳を休めないと、精神が焼き切れるわよ!」
「不要だ。進行の優先順位が最も高い。……それに、この『時計』が刻んでいるのはもはや私の時間ではない」
その言い方は、あまりにも冷徹な「処理」そのものだった。
懐中時計の蓋の裏で、惑星直列を模した指針が狂ったように回り続けている。
その針が一周するたび、マリユスの中の「人間」が肉を削がれるように摩耗していく。
ミーティアが、胸の前で祈るような手つきで一歩、彼へと近づいた。
「マリユス……大丈夫なの……?」
マリユスはゆっくりと、油の切れた機械のようなぎこちない動作で彼女を振り返った。
その瞳の奥が一瞬だけ激しく明滅し、奇跡のように、ほんの一条の迷いの光が走る。
「……ミーティア」
名前は、呼べた。
だが、その先に続くはずだった言葉が、形を成す前に霧消していく。
何か大切な感情があるはずの場所に、ただ真っ白な、底知れない空白だけが広がっている。
本当は。
その白銀の髪に、触れたいと思った。
怖い、と。
君を置いて消えたくない、と。一人の男として、叫びたかった。
だが、その感情の領域へ辿り着く前に、冷徹な演算式が先回りしてその全てを塗り潰していく。
【不要】
【非効率】
【優先順位外】
「問題ない。……続けよう」
彼の声に、かつての隠しきれなかった不器用な「優しさ」は、もう微塵も残っていなかった。
ミーティアの指先が、激しく震える。
触れたい、けれど触れられない。
今、彼の脳内で保たれているあまりにも繊細で危険な均衡に触れてしまえば、マリユスという「個」が完全に崩壊して精神の死を迎えることを、彼女は巫女の本能で悟っていた。
「……おい」
カイが苦々しく、だがどこか怯えたように舌打ちをする。
マリユスは答えない。
すでに視線は次の隔壁へと向かい、深層の演算を開始している。
数式を読み、解き、時空を固定する。
通路が開くたびに、彼の中の「人間」が削り取られ、冷たい数式へと代替されていく。
その時、カイの脳裏に、最悪な不吉の記憶がフラッシュバックした。
かつて、アエリス研究所で見た光景。
大規模な魔法処理の『道具』のように使われていた、数多の研究員たちの成れの果て。
感情を完全に削ぎ落とされ、ただ命令を実行するためだけに生かされていた、空っぽの、肉の操り人形。
(あいつ……あの時の、あの廃人どもと全く同じ顔をしてやがる)
かつて、グレイスと引き剥がされた時に見せた、あの魂の抜け落ちたような虚ろな瞳。
今のマリユスの横顔は、あれよりもさらに深く、取り返しのつかない深淵へと沈み込んでいるように見えた。
カイは恐怖に縛られたように、どうしても、マリユスの背中から目を離すことができなかった。




