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【完結】この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
例外ログ~二人旅編~
32/67

File③ 届くもの、届かないもの

焚き火が小さく爆ぜる夜だった。


爆ぜる音と、遠くで鳴く夜鳥の声以外、世界から音が消えたかのような静寂が二人を包んでいる。


「アーロン、何してるかな」


カイが焚火を見つめながら独り言のように呟いた。隣で荷物の整理をしているマリユスが作業の手を止めず話す。


「彼の事なら心配する必要はないだろう。人には好かれやすい人間だ」


「だな。しかしヒマだな。……たまには書くか」

カイが、膝に置いた手元を見つめたまま、ぽつりと言った。


「手紙か」


マリユスが顔を上げる。

その瞳には、ゆらゆらと揺れる火の色が映り込んでいる。


「ああ。クリスに。一応、生きてるって報告くらいはしとかないとさ。あの人、心配が極まると物理的に追いかけてきそうだし、そうなったら今度こそ俺の胃に穴が開く」


カイは荷物から少し歪んだ紙と、インクの掠れかけたペンを取り出した。

パチパチと燃える火の粉を避けながら、彼は不器用に、けれど迷いのない手つきで言葉を綴り始めた。


少し離れた場所で、マリユスは無言でそれを見ていた。


かつての彼なら「通信の効率」や「生存報告の論理的必要性」を説いたかもしれない。

けれど今の彼は、ただ静かに、カイが文字を刻む音に耳を傾けていた。



―カイの手紙―


クリスへ。


生きてる。

とりあえず、それが一番大事な報告な。

言わなくても分かるだろうけど、一応書いておく。


あとで「定期報告の義務を怠った」とか理詰めで怒られるのは、もうこりごりなんだ。


今、二人で旅してる。

マリユスは……まあ、相変わらずあいつだ。

頭がいいのは認めるけど、たまにマジで人間やめてる。


この前泊まった宿でも、隠し通路の構造を全部暴き出して、挙句の果てに「避難経路の効率化」とか言って勝手に観光ルート作ってやがった。宿の親父、泣いてたぞ。


俺は、普通にやってる。

たぶん、一番まともなのは俺だ。

……って書くと、お前は鼻で笑って「自己評価が高すぎる」とか言いそうだけどな。


あと、海に行く予定だ。

かなりの遠回りだけど、まあ、悪くない旅だよ。

そっちはどうだ。

研究に没頭して、飯食うの忘れて倒れたりしてないだろうな。

お前も意外と無茶するタイプだからな。


……まあ、死ぬなよ。

また王都で会ったら、なんか美味いもんでも奢れ。


――カイ



「心配しているのか。……彼女のことを」

「してねえよ。義務的な連絡だ」


「そうか。お前の脈拍は、嘘をつく時にわずかに加速する傾向にある」

「……黙ってろ、理屈の塊」


カイが不機嫌そうに封を閉じる。

けれど、その手つきはどこか丁寧だった。



その少し向こうで、マリユスは何も書いていなかった。


紙はある。

ペンもある。

アエリスから持ち出した、最高級の羊皮紙だ。


だが、彼の手はぴくりとも動かない。


「……お前は、書かないのか?」

カイが、封じ終えた手紙を横に置きながら声をかける。


「……必要性がない。報告すべき組織も、受理すべき上官も、今の私には存在しない」

短い答え。


カイが眉をひそめる。


「送る相手……一人くらい、いるだろ?」



沈黙が落ちる。



焚き火が、ぱちりと大きな音を立てて弾けた。


「……いないわけではない。ただ、受理される見込みがないだけだ」


マリユスは言う。

だが、その続きは語られなかった。


代わりに、彼は紙を一枚だけ手に取った。

しばらくその余白を見つめ、やがて――憑き物が落ちたような静かな所作で、文字を書き始めた。




―マリユスの手記(宛先不明)―


記録ではなく、手紙として記述する。

……この書式は極めて非効率だが、本件においては必要不可欠なプロセスであると判断した。


旅は継続している。

環境は、かつての研究室のような一定の定数ではない。

予測不能な雨、不快な泥濘、激しい寒暖差、そして劣悪な衛生状態。

いずれも、私の計算機的な美学においては「不快」の範疇にある。


しかし。

君がかつて口にしていた“美しさ”という不確かな概念は、確かに存在する。

定義は依然として未確定だが、観察自体は成功している。


例えば――。

激しい雨の日。

視界は遮られ、移動効率は最低まで低下する。

だが、水面に反射する光の屈折は、物理法則に従いながらも、二度と同じ輝きを再現することはない。

あれは……悪くない。


野営地。

非合理的で、不快要素に満ちている。

特に虫の存在は、依然として私の生理的許容範囲を超えている。


……だが。

火の揺らぎと、余計な音の消えたこの時間は、私の脳内にある思考のノイズを減少させる。

結果として、世界への観察精度が向上する。

これも、一定の価値があると言えるだろう。


人間について。

依然として理解不能な部分が多いが、同行者一名については特筆すべき点がある。

彼は、環境に対する適応が異常に早い。

理論的説明が困難なほど、直感で生き延びる。

私一人では到達し得なかった結論に、彼の「無駄な動き」が導いてくれることがある。

これは、認めざるを得ない事実だ。


君の言葉は、今の私の中で、命令としてではなく“選択肢”として残っている。

本来、私は最短経路を歩むべき個体だ。

無駄を極限まで排除し、目的に直結する道だけを進む。


だが現在、私は著しい「迂回」を許容している。

理由は明確ではないが、ただ一つ言えるのは――。


観察対象が、無限に増加している。

色、音、温度、移りゆく景色、そして、隣にいる男の予測不能な反応。

これらすべては、記録に値する価値がある。


……たぶん。

結論として。


君の言っていた世界については、完全には理解できていない。

だが、それが「誤りではない」可能性は、極めて高い。


ゆえに、この旅を継続する。

最後の瞬間まで。


以上。


――マリユス



書き終えた後、彼は石像のように動かなかった。


紙を見つめる。


そこには、感情の機微を削ぎ落とした、血の通わない報告書のような言葉が並んでいる。

それでも――


それが“誰か一人”に向けて書かれたという事実だけが、行間に深く刻まれていた。


「……書けたのか?」

少し離れたところで、カイが静かに立っていた。


マリユスは答えない。

ただ、紙を持ったまま、焚き火へと静かに手を伸ばす。


一瞬だけ、指先が止まった。

ほんのわずかな、未練にも似た逡巡。


――そして、彼はそれを火の中に放り込んだ。


火が紙を舐める。


綴られた文字が歪み、黒く焼け爛れ、やがて灰へと崩れていく。

煙が、細い一本の糸のように夜空へ昇っていく。

雲の向こう、星の瞬きさえ届かない、彼方の場所へ。


「……それで、いいのかよ」


カイが、消えゆく煙を見つめながら低く聞いた。

マリユスは、空を見上げたまま答える。


「これは、送るためのものだ」


風が、少しだけ強く吹いた。

煙が揺れ、夜の闇に溶けていく。


「届くかは、重要ではない。だが――」


ほんの一瞬だけ、凍りついた彼の声が、春の雪解けのように柔らかくなった。


「……観測は、されるはずだ。どこにいようと」


カイは、ふっと短く息を吐いた。

言葉にはしないが、それがマリユスなりの「儀式」であることを、彼は直感で理解していた。


火は静かに、二人の旅路を照らし続ける。

夜は深く、世界は残酷なほどに広い。


けれどマリユスは、迷いのない足取りでもう一度立ち上がった。


「行くぞ、カイ。目的地へのルートに変更はない」


短い言葉。

だが、その背中には、目に見えないほど細く、けれど決して切れない“約束の鎖”が繋がっていた。



二人は歩き出す。


まだ見ぬ景色の向こう、この不条理で美しい世界を見届けるために。

届かない手紙の続きを、その瞳に焼き付けるために。




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