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この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第一部 観測されない少年
16/17

第15周 切断処理

 時間は、壊れていなかった。 ただ――更新されていなかった。


ルミナリア村の北。

かつて子供たちが秘密基地を作り、猟師たちが獲物を追ったその場所は、もはや林や森ですらなかった。


「……空気が、動いていない」


アーロンが喘ぐように漏らした言葉は、物理的な真実を射抜いていた。

視界にある木々は、確かにそこに“ある”。しかし、どれほど強い風が吹こうとも、一枚の葉さえ揺れることはない。

陽光を透かすはずの葉脈は、まるで精巧なガラス細工か、あるいは質の悪いホログラムのように、そこにあるのに重さを持たなかった。


色彩は鮮やかなまま、存在感だけが摩耗している。

輪郭だけが世界に糊付けされ、その中身――質量や熱量、因果の連続性といった「実在の証」が、鋭利な刃物で削ぎ落とされたような、異様な静寂。

その最奥。森と「無」の境界線に、それは現れていた。


――“(ライン)”だった。


空間を縫うように走る、黒でも白でもない“否定の色”。

それは地面の起伏を無視し、大樹の幹を無慈悲に貫き、空気そのものを切り裂いて、ただ一直線に世界を分断している。


「あ……」


 アーロンの隣で、ひらりと一枚の枯れ葉が舞い上がった。

偶然にもその“(ライン)”に触れた瞬間、葉は粉砕されるのではない。音もなく「ほどけて」いった。

パズルのピースが崩れるように、あるいは文字コードの羅列に分解されるように、葉としての形を失い、純粋な情報へと還元されて消えていく。


「……これが、境界か」


 カイが斧の柄を握りしめ、低く呟く。その野性的な勘が、目の前の事象に最大級の警戒を鳴らしていた。


「違う」


隣に立つマリユスが、氷のような声で即座に否定した。


「これは“境界”ではない。――切断面だ」


その言葉が落ちた瞬間、周囲の空気が一段と冷たく張り詰めた。

マリユスの瞳は、感情を排した観測者(オブザーバー)のそれだ。


「この先は、もう“世界”として認識されていない」


クリスティーナが、震える手で記録板アーカイブ・スレートを展開した。

空間の歪みを検知し、数値を弾き出すはずの魔導デバイス。しかし、そこには絶望的な文字列が並ぶだけだった。


「……座標が、取得できない。深度、エラー。パケット、全損。存在はしているのに、この世界のシステムに属していない……」


「未定義領域だ」


マリユスは、冷徹な肯定を重ねる。


「この位相は、すでに切り離し待ちの状態にある。ゴミ箱に放り込まれる直前の、一時メモリのようなものだ」


「……じゃあ、ここから先は……?」


アーロンの声が震える。

彼は、(ライン)の向こう側に広がる自分たちの「故郷だったはずの風景」を見つめていた。

あそこには、昨日まで笑い声が響いていた。あそこには、まだ誰かの忘れ物があるはずだ。


「“削除される側”だ」


マリユスの答えは、残酷なほど即答だった。

沈黙が場を支配する。


 彼は、懐から金の懐中時計を取り出した。

意匠のない、古びた時計だ。

しかし、彼がその竜頭リューズに指をかけ、静かに引き抜いた瞬間、世界が、止まった。


――カチリ。


時計の刻みが、マリユスの心音を追い越す。


――否。止まったのではない。


彼を中心にして、周囲の色彩が一氷ひょうしてモノクロームへと沈み、全ての「動き」が、処理落ちを起こしたように極端なスローモーションへと変わったのだ。


 マリユスが時計の文字盤へ視線を落とすと、そこには時刻など刻まれていなかった。ガラスの奥で、無数の青白い数式が、狂おしい速度で渦巻いている。


彼が時計を空間へとかざすと、文字盤から溢れ出した数式の濁流が、彼の足元から空間そのもののレイヤーへと直接書き込まれていく。

幾何学的な美しさも、伝統的な魔法陣の様式美もそこにはない。

それは、世界の時間を強制的に掌握し、基底現実を根底から書き換えるための、純粋で暴力的な“演算”の塊。


懐中時計が刻むのは、未来ではなく、世界の終わりへの秒読み(カウントダウン)だった。

あまりに高次元な演算の負荷に、周囲の現実が悲鳴を上げ、視界の端々が細かくグリッチ(ノイズ)する。音が、熱が、その演算の重力に吸い込まれ、異様な静寂だけがそこにあった。


「クリスティーナ」


色彩を失い、停止しかけた世界で、マリユスの声だけが鼓膜に直接響く。


「……ええ、分かってる。こっちは最初からそのつもりよ」


彼女は、先ほどまで頼りにしていた記録板を、未練なく地面に捨てた。

代わりに、両手を空間へとかざす。

その指先から、細く、鋭い光の糸が幾千も伸びた。

糸は蜘蛛の巣のように森へと広がり、崩壊し、解けようとする森の構造を、強引に、一時的に“束ねて”いく。


「ログ、回収開始。構造データ、感情ログ、因果履歴――すべて圧縮対象に指定。一ビットも逃さないわ」


森が、断末魔のような震えを見せた。 木々の輪郭が一斉に波打ち、物理的な実体を捨てて、無数の光の粒子へと分解され始める。


「……っ、これ……全部……!」


アーロンが息を呑む。目の前で、思い出の詰まった森が「データ」という記号に変わっていく。


「ええ。村の“すべて”よ、アーロン」


クリスティーナは振り返らない。その額には大粒の汗が浮かび、過負荷オーバーロードに耐える苦悶が滲む。


「消す前に、残す。バックアップを取る。それが私の仕事」


その言葉に、一点の迷いもなかった。彼女は、この世界の「終わり」を受け入れ、その死に顔を記録することを選んだのだ。


「圧縮率、最大まで引き上げる。パリティ誤差は許容する」


「……っ、は。許容できる誤差じゃないわよ、これ。心の一部が欠けるかもしれないわ」


「分かっている」


マリユスは即答した。


「だが、それでも残す価値がある。すべてを無に帰すよりは、歪な断片であっても残すべきだ。それが、ここで生きた者たちへの、せめてもの返礼だ」


一瞬だけ、クリスティーナの唇が、自嘲気味に、あるいは慈しむように笑った。


「……ほんと、身勝手な論理ね。科学者気取りなんだから」


「そうだな。否定はしない」


 マリユスの足元の式が、さらなる変形を遂げる。

光の円環が、幾重にも展開する。


しかし、それは神々しい円ではなかった。

何重にも重なり、歪み、ズレた――それは、まるで“壊れかけた円環”のように見えた。


かつて、この世界の調和(システム)は「恩寵(グレイス)」と呼ばれた。

天から降り注ぐ秩序を信じ、そのゆりかごの中で生きることこそが正解だと、彼もまた教え込まれてきた一人だった。


(……さらばだ、美しい監獄)


マリユスは、内なる声で密かに告げる。 目の前の「削除」は、救済の放棄ではない。管理という名の停滞からの、暴力的な自律だ。

彼は、自身の内側に残っていた「システムへの甘え」――正解がどこかにあると信じたいという祈りを、今、目の前の空間と共に切り裂くことを決意した。


「……切断準備、開始」


その瞬間、境界線が鼓動するように激しく脈打った。

森の半分が、完全に“向こう側”――存在しない領域へと落ちる。

そこには音も衝撃もない。 ただ、胃の底が冷え切るような「世界が薄くなる感覚」だけがあった。


「カイ!」


マリユスの鋭い声が飛ぶ。

「お前の役割は一つだ。論理ロジックで抑えきれない物理の反動を、その身で食い止めろ!」


カイは、愛用の斧を、骨が鳴るほど握り直した。


「……分かってる。御託はいらねえ」


彼は境界線の直前に立ち、その太い腕を突き出した。

崩壊しようとする空間の圧力は、もはや重力や風圧といった次元ではない。

「消えようとすることわり」が、無理やり存在させようとするマリユスの術式に反発し、強烈な負荷となって押し寄せる。


「……くそ、重てえな……これ……! 世界を担いでる気分だぜ!」


カイの足元の地面が、その圧力に耐えかねて砕け散る。

空間そのものが、古い家屋が軋むような悲鳴を上げていた。


「逃がすな」


マリユスが、演算の速度を上げながら叫ぶ。


「一瞬でも固定がズレれば、クリスティーナの糸が切れる。そうなれば、全てが霧散するぞ」


「任せろよ……!」


カイは、歯を剥き出しにして笑った。

その頬を切断線の余波が掠め、血が流れる。だが、彼は一歩も引かない。


「こういう泥臭いのは、俺の得意分野なんだよ……!」


その背中が、崩壊する世界と踏みとどまる世界の境界において、唯一の“支点”となっていた。

彼が倒れれば、この場所そのものが「削除」の連鎖に飲み込まれるだろう。


「アーロン」


マリユスが、冷徹な瞳のまま、最後に残った少年を振り返る。


「前へ来い」


アーロンは動けなかった。

足が震え、胃の腑がせり上がる。

目の前で起きていることは、彼の理解を遥かに超えていた。

故郷が消える。友の記録がデータに変わる。そして、自分はどうなるのか。


「……僕は……僕はどうすれば……」


「選べ」


マリユスの声は、どこまでも平坦で、だからこそ重かった。


「ここに残り、世界と共に“削除”されるのを待つか。それとも、すべてを捨てて“次”の(レイヤー)へ行くか」


だが、マリユスよりも先に、世界が、断末魔の軋みを上げる。

クリスティーナの光の糸が、一本、また一本と、過負荷で弾け飛んでいく。 カイの足元はもはや形を留めず、彼は空中に浮きながら、必死に空間の端を繋ぎ止めていた。


「……っ……あああああ!」


アーロンが、絶叫と共に一歩、前に踏み出した。

恐怖に抗い、過去を切り離し、不確かな未来へと手を伸ばす。


「……行く。僕は、行くんだ!」


小さく。

だが、その決意は確かに、崩壊する世界のノイズを突き抜けてマリユスに届いた。


 彼の瞳の奥で、青白い数式が加速するたびに、鮮やかな色彩を伴った「記憶の断片」が灰のように崩れ、演算の火床へと消えていく。


演算が臨界に達した瞬間、マリユスの視界から「色」の意味が剥落した。

燃え上がる森も、仲間の悲痛な叫びも、彼にとってはもはや感情を揺さぶる対象ではない。

それらはすべて、書き換えを待つ「座標」と「エネルギー量」という無機質な記号の羅列に成り果てた。


「……マリユス? 今、あなた……何を燃やしたの?!……」


隣でマリユスの異変に気が付いたクリスティーナが顔を上げ、マリユスの横側を見た。

その瞬間――。

マリユスの展開していた全ての式が、収束し、完成した。


「全ログ回収、完了。切断処理、実行エグゼキュート


 境界線が、爆発的な光を放ち、そして閉じた。

視界が白に染まる。 音も、重さも、感情も、すべてがゼロに還る。



 次に目を開けたとき。

そこには、ただ平坦な、何もない荒野が広がっていた。

振り返れば、先ほどまであった森は、ナイフで切り取られたように消失し、空虚な空間が空を映しているだけだった。


世界は、二つに分かたれた。

そして彼らは、残された側の、頼りない「現在」に立っていた。


 アーロンが消えゆく故郷を思って膝を突き、涙を流す傍らで、マリユスはただ、無造作に懐中時計の蓋を閉じた。


「……カチリ」という音と共に、世界に色が戻る。


「……演算は成功だ」


彼の声には、先ほどまでの緊迫感も、郷愁も、一欠片の「痛み」すら混じっていない。


 その金の瞳は、もはや人間を映すものではなく、ただ事象を処理するだけの、空虚な機械のレンズ、そのものだった。


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