第14周 父の手
マリユスは何も言わず、教会の奥へと続く勝手口へ向かって歩き出す。
感情の読み取れない横顔。その拒絶に近い静けさに、アーロンの胸にざわついた不安が広がった。
「待って、マリユス……!」
アーロンは慌ててその後を追った。
薄暗い廊下を抜け、開け放たれた扉の先――そこは、教会の裏庭だった。
止まった夕陽の赤が、影を長く、残酷に伸ばしている。
庭の真ん中で足を止めたマリユスの正面に、アーロンは息を切らして駆け寄った。
「マリユス……!! ねえ、今の……どういうこと……?」
声は、震えていた。
問い詰めるというより、悪い冗談だと言ってほしくて、必死にすがりつくような響きだった。
目の前の現実を、心がどうしても拒絶している。
「この世界は救えないなんて……そんなの、嘘だよね……?」
マリユスは瞬きひとつせず、肯定した。
「事実だ」
「……っ、そんな」
アーロンの視界が、一瞬だけ歪む。
「じゃあ、あの人たちはどうなっちゃうの? ……あの子も、村のみんなも……。ねえ、他に何か方法はないの? 僕、なんでもするから……。全部を元通りにする方法が、どこかにあるはずだよ……!」
マリユスは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。だが、その声はどこまでも透き通って、冷たい。
「固定される。この位相は、崩壊ではなく“未完のまま保存”されるんだ。つまり彼らは、明日を迎えることも、死ぬことさえもできず……“終われないまま”そこに残り続ける」
それは、死よりもなお過酷な停滞だった。
「……ひどいよ」
アーロンの拳が、白くなるほど強く握りしめられる。
「それじゃあ……救うどころか、閉じ込めるだけじゃないか! 助けられるのに、諦めちゃうなんて……そんなの、僕は嫌だよ……!」
「助けられない」
マリユスは、淡々とその言葉を訂正した。
「この世界を維持しようとすれば、円環は永遠に閉じる。……アーロン、君が願う『すべて』は、最初から共存できない構造なんだ。一方を掴めば、もう一方は指の間から零れ落ちる。それがこの世界の理だ」
アーロンは理解してしまった。マリユスの瞳に、一ミリの迷いもないことを。
だからこそ、やり場のない悲しみが、言葉にならない叫びとなって拳に宿った。
「じゃあ……見捨てちゃうの? この世界ごと、全部」
マリユスの瞳を、正面から見つめる。
「そうだ」
肯定が、マリユスの唇からこぼれた瞬間。
アーロンの拳が、空を裂いた。
乾いた音が響く。
マリユスの頬が、衝撃でわずかに揺れた。
だが彼は、避けることもしなかった。
「……っ、なんで……!」
アーロンの声が、ついに崩れる。
「なんでそんな顔して、平気で言えるの……! 僕たちが、一緒にいた場所なのに……っ!」
アーロンの手の中には、空っぽの空気しかなかった。
どれほど願っても、世界を覆すような知恵も力も、今の「僕」にはない。
それでも。
「……それでも僕は、捨てたくなんてないよ」
絞り出すような、掠れた言葉。
それは正論ではなく、アーロンという心の、最後の抵抗だった。
マリユスは、その儚い願いを否定しなかった。
ただ、静かに、ひどく穏やかな声で告げた。
「……だから、君を送るんだ」
アーロンの瞳が、驚きに揺れる。
「この世界を捨て、汚れを背負うのは、私たちだ。君ではない」
その言葉は、アーロンに向けられた最大の慈悲だった。
同時に、世界を背負って生きろという、あまりにも残酷で、気高い宣告でもあった。
アーロンの拳の感触が、指先に残っていた。
骨に当たった鈍い衝撃と、ぶつけようのなかった感情の重さだけが、やけに現実的だった。
風のない世界で、沈黙だけが広がる。
やがて、アーロンは何も言わずその場を離れた。
――それぞれが、それぞれの「答え」に向き合うしかないと、分かってしまったからだ。
そして、同じ時間の中で。
別の場所では、同じ問いに、別のやり方で向き合っている男がいた。
カイは薪割り場の隅に立っていた。
普段なら無心で振り下ろすはずの斧は、半ばまで割れた丸太に突き立てられたまま、放置されている。
カイの大きな手は薪を掴むことをやめ、ただじっと、境界線の向こう側に広がる動かない森を見つめていた。
「……反吐が出るぜ」
カイは吐き捨てるように言い、動かない太陽を見上げた。
あまりに完璧すぎるその光景は、眺めているだけで喉の奥がせり上がるほどに不自然だった。
「……全部、あんたの知ってることなのかよ」
振り返らずに、カイは背後の気配へと言葉を投げた。
重い静寂の中から、衣擦れの音が微かにした。
「仕業、というほど大層なものではないよ、カイ」
そこには、いつものように穏やかな微笑を浮かべた神父が立っていた。
使い古された法衣が、風もないのにわずかに揺れたように見えた。
その穏やかな声は、この異常な光景にあまりにも馴染みすぎていて、かえって不気味だった。
「全部、知ってんだろ」
カイは突き立てられた斧の柄に手をかけ、ゆっくりと神父の方を向いた。
「この村のことも、風が止まった理由も……最近、林のあちこちで不気味に光り始めた、あの青い花のことも、マリユスの野郎が言ってた『世界の寿命』ってやつもな。あんた、ずっと前から気づいてたんだろ」
神父は否定しなかった。
ただ、少しだけ困ったように眉を下げ、愛想笑いを浮かべる。
「……全てを理解しているわけではないがね」
「そういうところが嫌いなんだよ、あんたの」
カイは鼻で笑った。
苛立ちが、腹の底でドロドロとした熱い塊となってくすぶっている。
「決めねえところだよ、親父」
沈黙が落ちた。
風のない夕暮れは、あらゆる音を容赦なく吸い込んでいく。
「知ってるくせに、知らないふりをして笑ってる。できるくせに、何もしない。マリユスの術式をあんなに簡単に手助けできる力があるくせに、あんたはただ、高いところから見てるだけだ」
カイの声は、激昂してはいなかった。むしろ、氷のように冷たく、静かだった。
それは長年、血の繋がった父として、そして村の守り手として慕ってきた男に対する、純粋で残酷な「失望」だった。
「……あんたは、逃げてるだけだ」
その言葉は、重く、鋭い刃となって神父の胸を貫いた。
神父はすぐには答えなかった。
彼はゆっくりと顔を上げ、カイが見ていたあの「作り物の夕日」を仰ぎ見た。
「……そうだな」
神父はあっさりと認めた。
そのあまりに軽い肯定に、カイの眉がわずかに動く。
「否定しねえのかよ。もっと、適当な理屈で丸め込めばいいだろ」
「否定できるほど、私は立派な父親ではないということだよ。……君が言う通り、私は逃げ続けてきた。この止まった時間の陰に隠れて、終わるはずのものを無理やり引き延ばし、その代償から目を背けてきたんだ」
神父の声は、懺悔のようでありながら、どこか遠い場所から響いているようだった。
言い訳ではない。ただ、自分の手元にある「空虚」を淡々と述べるような、そんな響き。
カイは、少しだけ言葉を失った。
「……じゃあなんでだよ」
カイは斧の柄を強く握りしめ、絞り出すように問う。
「なんで、あんたほどの男が、何もしねえんだよ。目の前で世界が痩せ細っていくのを、なんでただ黙って見てられるんだ」
神父はゆっくりと、自分自身に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「何かをする、ということは……何かを選ぶ、ということだ。カイ」
「だから何だよ」
「一つを選べば、別の何かを永遠に失うことになる。天秤の片方を持ち上げれば、もう片方は必ず地面に叩きつけられる。……その重みに、私は耐えられなかった」
その言葉に、カイは一歩踏み出した。突き立てられた斧が土を跳ね上げる。
「当たり前だろ! 全部守れるわけねえんだから。何かを捨てなきゃ、一番大事なもんは守れねえ。ガキでもわかることだ」
神父は、ゆっくりと首を振った。
「違うんだ、カイ。……私は、一度それをやったのだよ」
空気が凍りついた。
カイは初めて口を閉ざし、神父の瞳を凝視した。
その目は、今ここにある現実を見ていない。もっと遠い、数え切れないほどの「再生」と「崩壊」を繰り返した、気の遠くなるような時間の果てを見つめていた。
「守ろうとした。救おうとした。……私は、自分の意志で天秤を動かし、一つを選んだ。そして……」
神父の声が、わずかに、だが致命的に揺れた。
「失ったのだ。……私が、私であるための最後の理由を」
それは、重すぎた。
具体的に何を失ったのか、彼は言わなかった。だが、その声に含まれた絶対的な喪失感は、言葉以上の質量を持ってカイの胸にのしかかった。戻らないもの。二度と触れられない温度。
「……それでも」
カイは、低く、しかし断固とした拒絶を込めて言った。
「それでも、あんたは選ぶべきだったんだ。逃げるくらいなら、間違えてでも、選んで傷つくべきだったんだよ。あんたは……俺たちの『先』にいるはずの人間だろ」
神父は答えず、ただ静かに目を伏せた。
「逃げんなよ、親父」
カイの声が、子供のような震えを帯びた。
彼は拳を握りしめ、自分の胸の奥にある、爆発しそうな想いを言葉に変える。
「俺は……。俺は、守りてえんだよ」
それは叫びではなかった。
風の止まった世界で、自らの心臓を叩いて風を起こそうとするような、祈りだった。
「全部守るなんて、そんな大層なことは言えねえ。俺が間違ってるのかもしれねえ。でも……でも、目の前で笑ってる奴や、泣いてる奴、……マリユスやクリスティーナ、それに、あいつ……アーロン。あいつらの居場所くらいは……守りてえんだよ。それができないなら、俺がここに生きてる意味なんてねえんだ」
沈黙。
夜の底で、カイの決意だけが熱を持って輝いていた。
神父はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、先ほどまでの虚無が嘘のように穏やかだった。いや、それは穏やかというよりも、長い彷徨の果てにようやく答えを見つけた者の、静かな「救済」の色だった。
「……そうか」
神父が、一歩、カイに近づく。
「ならば、お前がやれ」
カイが顔を上げる。
「私には、できなかった。選ぶたびに心が削られ、最後には何も残らなくなった。……だが、お前ならできる。今のその、馬鹿正直な熱さを持ったお前なら」
その言葉は、責任の押し付けではなかった。
それは、重すぎる歴史と呪縛を、次世代という名の「光」に託す、継承の儀式だった。
「……俺に、面倒なこと全部押し付ける気かよ、勝手な父親だぜ」
カイは、泣き出しそうなのを隠すように、皮肉っぽく苦笑した。
「そう聞こえるなら、そうだろうな」
神父も、少しだけ、本当に少しだけ、かつて友と笑い合っていた頃のような顔をして笑った。
「だが、それが継承というものだ。……親の呪いを受け取り、それを祝福に変えるのが、後に続く者の特権だ。やってみるがいい」
その瞬間、止まっていたはずの風が、わずかに動いた。
カイの頬を、一筋の震えるような空気がなでる。
「……ああ、くそ。めんどくせえ話だな、本当に」
カイは乱暴に頭をかき、突き立てられていた斧を力任せに引き抜いた。
鉄の刃が夕日を反射し、鋭く煌めく。
「……だが、お前はそういう顔をしているな」
「どんな顔だよ」
「決める者の顔だ。あるいは……風を呼ぶ者の顔だ」
カイの中で、何かがストンと落ちた。
理解したわけではない。理屈で納得したわけでもない。
ただ、一人の「カイ」として、泥にまみれてでも足掻き続けるという覚悟。
「……わかったよ。じゃあ俺がやる。あんたが逃げた分まで、俺が全部背負ってやるよ」
カイは神父を真っ直ぐに見据えた。
「間違えて、世界をめちゃくちゃにしちまっても、知らねえぞ」
神父は、満足げに頷いた。
「それでいい。……それがいいんだ、カイ」
夕陽が、わずかに揺れた。
世界はまだ、崩壊の淵にある。システムは冷徹に停止し、人々は大切なものを失い続けている。
だが、この教会の裏庭から、確かな「ノイズ」が生まれ始めていた。




