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この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第一部 観測されない少年
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第14周 父の手

マリユスは何も言わず、教会の奥へと続く勝手口へ向かって歩き出す。

感情の読み取れない横顔。その拒絶に近い静けさに、アーロンの胸にざわついた不安が広がった。


「待って、マリユス……!」


アーロンは慌ててその後を追った。

 薄暗い廊下を抜け、開け放たれた扉の先――そこは、教会の裏庭だった。


止まった夕陽の赤が、影を長く、残酷に伸ばしている。

 庭の真ん中で足を止めたマリユスの正面に、アーロンは息を切らして駆け寄った。


「マリユス……!! ねえ、今の……どういうこと……?」

 

声は、震えていた。

問い詰めるというより、悪い冗談だと言ってほしくて、必死にすがりつくような響きだった。

目の前の現実を、心がどうしても拒絶している。

 

「この世界は救えないなんて……そんなの、嘘だよね……?」

 

マリユスは瞬きひとつせず、肯定した。

 

「事実だ」

 

「……っ、そんな」

 

アーロンの視界が、一瞬だけ歪む。


「じゃあ、あの人たちはどうなっちゃうの? ……あの子も、村のみんなも……。ねえ、他に何か方法はないの? 僕、なんでもするから……。全部を元通りにする方法が、どこかにあるはずだよ……!」

 

マリユスは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。だが、その声はどこまでも透き通って、冷たい。

 

「固定される。この位相は、崩壊ではなく“未完のまま保存”されるんだ。つまり彼らは、明日を迎えることも、死ぬことさえもできず……“終われないまま”そこに残り続ける」

 

それは、死よりもなお過酷な停滞だった。

 

「……ひどいよ」

 

アーロンの拳が、白くなるほど強く握りしめられる。


「それじゃあ……救うどころか、閉じ込めるだけじゃないか! 助けられるのに、諦めちゃうなんて……そんなの、僕は嫌だよ……!」

 

「助けられない」

 

マリユスは、淡々とその言葉を訂正した。


「この世界を維持しようとすれば、円環は永遠に閉じる。……アーロン、君が願う『すべて』は、最初から共存できない構造なんだ。一方を掴めば、もう一方は指の間から零れ落ちる。それがこの世界の理だ」

 

アーロンは理解してしまった。マリユスの瞳に、一ミリの迷いもないことを。

だからこそ、やり場のない悲しみが、言葉にならない叫びとなって拳に宿った。

 

「じゃあ……見捨てちゃうの? この世界ごと、全部」

 

マリユスの瞳を、正面から見つめる。

  

「そうだ」

 

肯定が、マリユスの唇からこぼれた瞬間。

アーロンの拳が、空を裂いた。

 

乾いた音が響く。

マリユスの頬が、衝撃でわずかに揺れた。

だが彼は、避けることもしなかった。

 

「……っ、なんで……!」

 

アーロンの声が、ついに崩れる。


「なんでそんな顔して、平気で言えるの……! 僕たちが、一緒にいた場所なのに……っ!」

 

アーロンの手の中には、空っぽの空気しかなかった。

どれほど願っても、世界を覆すような知恵も力も、今の「僕」にはない。

 

それでも。

 

「……それでも僕は、捨てたくなんてないよ」

 

絞り出すような、掠れた言葉。

それは正論ではなく、アーロンという心の、最後の抵抗だった。

 

マリユスは、その儚い願いを否定しなかった。

ただ、静かに、ひどく穏やかな声で告げた。

 

「……だから、君を送るんだ」

 

アーロンの瞳が、驚きに揺れる。

 

「この世界を捨て、汚れを背負うのは、私たちだ。君ではない」

 

その言葉は、アーロンに向けられた最大の慈悲だった。

同時に、世界を背負って生きろという、あまりにも残酷で、気高い宣告でもあった。


アーロンの拳の感触が、指先に残っていた。

骨に当たった鈍い衝撃と、ぶつけようのなかった感情の重さだけが、やけに現実的だった。


風のない世界で、沈黙だけが広がる。

やがて、アーロンは何も言わずその場を離れた。


――それぞれが、それぞれの「答え」に向き合うしかないと、分かってしまったからだ。


そして、同じ時間の中で。


別の場所では、同じ問いに、別のやり方で向き合っている男がいた。



 カイは薪割り場の隅に立っていた。  

普段なら無心で振り下ろすはずの斧は、半ばまで割れた丸太に突き立てられたまま、放置されている。

カイの大きな手は薪を掴むことをやめ、ただじっと、境界線の向こう側に広がる動かない森を見つめていた。


「……反吐が出るぜ」


 カイは吐き捨てるように言い、動かない太陽を見上げた。  

あまりに完璧すぎるその光景は、眺めているだけで喉の奥がせり上がるほどに不自然だった。


「……全部、あんたの知ってることなのかよ」


振り返らずに、カイは背後の気配へと言葉を投げた。  

重い静寂の中から、衣擦れの音が微かにした。


「仕業、というほど大層なものではないよ、カイ」


 そこには、いつものように穏やかな微笑を浮かべた神父が立っていた。

使い古された法衣が、風もないのにわずかに揺れたように見えた。

その穏やかな声は、この異常な光景にあまりにも馴染みすぎていて、かえって不気味だった。


「全部、知ってんだろ」


カイは突き立てられた斧の柄に手をかけ、ゆっくりと神父の方を向いた。


「この村のことも、風が止まった理由も……最近、林のあちこちで不気味に光り始めた、あの青い花のことも、マリユスの野郎が言ってた『世界の寿命』ってやつもな。あんた、ずっと前から気づいてたんだろ」


神父は否定しなかった。

ただ、少しだけ困ったように眉を下げ、愛想笑いを浮かべる。


「……全てを理解しているわけではないがね」


「そういうところが嫌いなんだよ、あんたの」


 カイは鼻で笑った。

苛立ちが、腹の底でドロドロとした熱い塊となってくすぶっている。


「決めねえところだよ、親父」


沈黙が落ちた。  

風のない夕暮れは、あらゆる音を容赦なく吸い込んでいく。


「知ってるくせに、知らないふりをして笑ってる。できるくせに、何もしない。マリユスの術式をあんなに簡単に手助けできる力があるくせに、あんたはただ、高いところから見てるだけだ」


 カイの声は、激昂してはいなかった。むしろ、氷のように冷たく、静かだった。

それは長年、血の繋がった父として、そして村の守り手として慕ってきた男に対する、純粋で残酷な「失望」だった。


「……あんたは、逃げてるだけだ」


その言葉は、重く、鋭い刃となって神父の胸を貫いた。

神父はすぐには答えなかった。

彼はゆっくりと顔を上げ、カイが見ていたあの「作り物の夕日」を仰ぎ見た。


「……そうだな」


神父はあっさりと認めた。

そのあまりに軽い肯定に、カイの眉がわずかに動く。


「否定しねえのかよ。もっと、適当な理屈で丸め込めばいいだろ」


「否定できるほど、私は立派な父親ではないということだよ。……君が言う通り、私は逃げ続けてきた。この止まった時間の陰に隠れて、終わるはずのものを無理やり引き延ばし、その代償から目を背けてきたんだ」


神父の声は、懺悔のようでありながら、どこか遠い場所から響いているようだった。


 言い訳ではない。ただ、自分の手元にある「空虚」を淡々と述べるような、そんな響き。  

カイは、少しだけ言葉を失った。


「……じゃあなんでだよ」


カイは斧の柄を強く握りしめ、絞り出すように問う。


「なんで、あんたほどの男が、何もしねえんだよ。目の前で世界が痩せ細っていくのを、なんでただ黙って見てられるんだ」


神父はゆっくりと、自分自身に言い聞かせるように言葉を紡いだ。


「何かをする、ということは……何かを選ぶ、ということだ。カイ」


「だから何だよ」


「一つを選べば、別の何かを永遠に失うことになる。天秤の片方を持ち上げれば、もう片方は必ず地面に叩きつけられる。……その重みに、私は耐えられなかった」


その言葉に、カイは一歩踏み出した。突き立てられた斧が土を跳ね上げる。


「当たり前だろ! 全部守れるわけねえんだから。何かを捨てなきゃ、一番大事なもんは守れねえ。ガキでもわかることだ」


神父は、ゆっくりと首を振った。


「違うんだ、カイ。……私は、一度それをやったのだよ」


 空気が凍りついた。

カイは初めて口を閉ざし、神父の瞳を凝視した。

その目は、今ここにある現実を見ていない。もっと遠い、数え切れないほどの「再生」と「崩壊」を繰り返した、気の遠くなるような時間の果てを見つめていた。


「守ろうとした。救おうとした。……私は、自分の意志で天秤を動かし、一つを選んだ。そして……」


神父の声が、わずかに、だが致命的に揺れた。


「失ったのだ。……私が、私であるための最後の理由を」


 それは、重すぎた。

具体的に何を失ったのか、彼は言わなかった。だが、その声に含まれた絶対的な喪失感は、言葉以上の質量を持ってカイの胸にのしかかった。戻らないもの。二度と触れられない温度。


「……それでも」


カイは、低く、しかし断固とした拒絶を込めて言った。


「それでも、あんたは選ぶべきだったんだ。逃げるくらいなら、間違えてでも、選んで傷つくべきだったんだよ。あんたは……俺たちの『先』にいるはずの人間だろ」


神父は答えず、ただ静かに目を伏せた。


「逃げんなよ、親父」


 カイの声が、子供のような震えを帯びた。

彼は拳を握りしめ、自分の胸の奥にある、爆発しそうな想いを言葉に変える。


「俺は……。俺は、守りてえんだよ」


それは叫びではなかった。


風の止まった世界で、自らの心臓を叩いて風を起こそうとするような、祈りだった。


「全部守るなんて、そんな大層なことは言えねえ。俺が間違ってるのかもしれねえ。でも……でも、目の前で笑ってる奴や、泣いてる奴、……マリユスやクリスティーナ、それに、あいつ……アーロン。あいつらの居場所くらいは……守りてえんだよ。それができないなら、俺がここに生きてる意味なんてねえんだ」


沈黙。


 夜の底で、カイの決意だけが熱を持って輝いていた。

神父はゆっくりと顔を上げた。

その瞳は、先ほどまでの虚無が嘘のように穏やかだった。いや、それは穏やかというよりも、長い彷徨の果てにようやく答えを見つけた者の、静かな「救済」の色だった。


「……そうか」


神父が、一歩、カイに近づく。


「ならば、お前がやれ」


カイが顔を上げる。


「私には、できなかった。選ぶたびに心が削られ、最後には何も残らなくなった。……だが、お前ならできる。今のその、馬鹿正直な熱さを持ったお前なら」


その言葉は、責任の押し付けではなかった。

それは、重すぎる歴史と呪縛を、次世代という名の「光」に託す、継承の儀式だった。


「……俺に、面倒なこと全部押し付ける気かよ、勝手な父親だぜ」


カイは、泣き出しそうなのを隠すように、皮肉っぽく苦笑した。


「そう聞こえるなら、そうだろうな」


神父も、少しだけ、本当に少しだけ、かつて友と笑い合っていた頃のような顔をして笑った。


「だが、それが継承というものだ。……親の呪いを受け取り、それを祝福に変えるのが、後に続く者の特権だ。やってみるがいい」


その瞬間、止まっていたはずの風が、わずかに動いた。

カイの頬を、一筋の震えるような空気がなでる。


「……ああ、くそ。めんどくせえ話だな、本当に」


カイは乱暴に頭をかき、突き立てられていた斧を力任せに引き抜いた。

 鉄の刃が夕日を反射し、鋭く煌めく。


「……だが、お前はそういう顔をしているな」


「どんな顔だよ」


「決める者の顔だ。あるいは……風を呼ぶ者の顔だ」


カイの中で、何かがストンと落ちた。

理解したわけではない。理屈で納得したわけでもない。

ただ、一人の「カイ」として、泥にまみれてでも足掻き続けるという覚悟。


「……わかったよ。じゃあ俺がやる。あんたが逃げた分まで、俺が全部背負ってやるよ」


カイは神父を真っ直ぐに見据えた。


「間違えて、世界をめちゃくちゃにしちまっても、知らねえぞ」


神父は、満足げに頷いた。


「それでいい。……それがいいんだ、カイ」


夕陽が、わずかに揺れた。  

世界はまだ、崩壊の淵にある。システムは冷徹に停止し、人々は大切なものを失い続けている。  

だが、この教会の裏庭から、確かな「ノイズ」が生まれ始めていた。

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