7-3
うなだれるあたしたちの前を、多くの人が行き交う。
みんな自分の行き先に向かって、人のことなど見向きもしない。
あたしのお兄ちゃんのことも、ヒビキの家族のことも、あと三か月しか生きられないレイジのことも……誰も気づかない。
だけどそれが当たり前なのだ。
あたしはそっと隣を見る。
うつむいたままのヒビキが手で目元をこすって、肩を震わせている。
そんなヒビキから視線をそらし、あたしはじっと前を見つめる。
息を吐くように声を漏らした。
カサカサに乾いた声は、メロディーとなって冷たい空気に溶ける。
生きたまま死んでいたあたしを、ほんの少しだけ救い上げてくれたレイジの歌。
外からの音を遮断して、イヤホンから聴こえる声だけがあたしの頼りだった。
その歌を聴いているときだけは、自分が自分でいられた。
だけどあたしは何も救えない。
レイジの病気を治すことも、ヒビキの家族を元通りにすることも。
それなのにあたしにできることがあるかもなんて……ずうずうしいことを考えていた。
隣のヒビキが顔を上げて、あたしを見たのがわかった。
恥ずかしくて逃げ出したくなったけど、あたしはどうにもならない無力さを歌にして吐き出す。
『つぐみって鳥はね、とても綺麗な声で鳴く鳥なんだよ』
お父さんはそう言ったけど。
つぐみは日本ではほとんど鳴くことがない。
いつも口をつぐんでいるから、『つぐみ』っていう。
まるで歌を歌わなくなったあたしみたいだと思っていた。
「つぐみ……」
あたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。
低くて、でも柔らかくて、あたしの好きな声。
あたしの好きな、ヒビキの声。
その時、あたしの前に立つ人の姿に気がついた。
ハッと顔を上げると、数人の人が立ち止まってあたしを見ている。
その中のひとりの人が、拍手をした。
わけがわからず、ぽかんとするあたしの前で、他の人たちもパラパラと手を叩き出す。
もしかしてこの人たち……あたしの歌を、聴いていた? それで拍手をしてくれてるの?
急に怖くなって隣を向いた。ヒビキはじっとあたしの顔を見つめている。
「ご、ごめんなさい」
何をやっているんだろう、あたし。
歌なんか歌うつもりはなかった。
ただ何もできない自分が情けなくて……気づいたら、レイジの歌を歌っていた。
「すごいね、あの子」
「綺麗な声」
「誰の歌だっけ? なんか聴いたことある」
かぁっと身体が熱くなった。立ち上がったら足が震えていた。
そのままあたしは逃げるように走り出す。
「あ、つぐみ! 待てよ!」
背中にヒビキの声が聞こえた。だけどあたしは立ち止まらずに走った。
走って走って息が切れて……それでもとにかくここから逃げ出したくて、あたしは必死に走った。
「つぐみちゃん? ご飯できたけど食べない?」
家に帰ると、あたしは自分の部屋に閉じこもって布団の中で丸くなっていた。
なんであんなバカなことをしてしまったのだろう。人前でいきなり歌を歌うなんて。
しかもヒビキに聴かれてしまった。情けなくて涙が出る。
窓の外は雨が降っていた。さっきあたしがバスに飛び乗った途端、降ってきたのだ。
ヒビキはきっと濡れて帰っただろう。
あたしのスマホには、ヒビキからのメッセージがいくつも入っていた。
連絡が欲しいと言っている。
「どうしたの? ヒビキくんと喧嘩でもした?」
糸ちゃんが部屋に入ってきた。
あたしは仕方なく布団から顔を出し、首を横に振る。
「そんなんじゃない……」
「じゃあ何があったの?」
あたしのベッドに腰をおろした糸ちゃんが、優しく微笑んで首をかしげる。
あたしはベッドの上に起き上がり、黙ったままうつむく。
あたしはもうヒビキに会えない。
ヒビキが殺したいほど憎んでいる人と、あたしのお兄ちゃんは同じだ。
そんなお兄ちゃんの妹のあたしは、もうヒビキに会うことはできない。
だけど……レイジのことは心配だ。
レイジにはまだ命をあきらめて欲しくない。
だったらあたしはどうしたらいいのだろう。
「糸ちゃん……」
あたしはゆっくりと顔を上げた。
薄暗い部屋の中、雨の音がしとしとと耳に聞こえ、目の前には糸ちゃんの顔が見える。
今、あたしが頼れる人は、糸ちゃんしかいない。
「糸ちゃんに……聞いて欲しい話があるの」
あたしは糸ちゃんに、レイジの病気の話をすることに決めた。
ヒビキから聞いたレイジの話を、糸ちゃんに話した。
糸ちゃんは真剣な表情で、あたしが全部話し終わるまで黙って聞いてくれていた。
そして最後まで話し終えると、深く深く息を吐き出した。
「なんだか全然信じられないんだけど……」
あたしだってそう思った。
「でもあの人らしいね」
糸ちゃんはそう言って、小さく微笑む。
「あたし、レイジに病院に行って欲しいの。病院に行ってちゃんと治療して欲しいの。ヒビキも何度も言ってるらしいけど、言うこと聞いてくれないって。でももしかしたら糸ちゃんからお願いしてくれれば……」
「わたしが? どうして?」
「糸ちゃんは……大人だから。糸ちゃんが言えば、聞いてくれるかもしれない」
あたしの言葉に糸ちゃんがまたふっと笑う。
「たぶん誰が言っても同じでしょう? ああいう人は」
「でも……」
「それにわたしは少しわかる。あの人の気持ち。わたしだってどうせ死ぬなら、好きなことやって死にたいって思うもの」
あたしは黙って糸ちゃんを見てから口を開く。
「だけど残された人は……どうすればいいの?」
糸ちゃんが静かにあたしを見つめる。
「本人はそれでよくても、残された人は……すごく悲しいよ」
震えていたヒビキの背中。
『どうしよう……レイジが死んだら……俺、またひとりになる……』
少しでも希望が持てるのなら、ヒビキのために治療を受けて欲しい。
「そうだね」
糸ちゃんがつぶやく。
「つぐみちゃんとヒビキくんの気持ちもわかるよ。だけどあの人の人生はあの人のものだから……決めるのはレイジだよ」
あたしは何も言えなくなる。
「ごめんね、つぐみちゃん。わたしからあの人の人生に口出しはできない」
糸ちゃんの声を聞きながら、持っていたスマホをぎゅっと握りしめる。
画面にはまた新しいメッセージが届いている。
【もう一度、会いたい】
ヒビキからの言葉。息が苦しくなる。
胸の奥から熱いものが込み上げて、それをぐっと飲み込む。
「つぐみちゃん……」
うつむくあたしの背中を、糸ちゃんが撫でてくれた。
胸にかかったガラスのペンダントが、照明の灯りに照らされて光っている。
あたしはそれ以上何も言えなくて、あふれそうになる涙を必死に堪えていた。




