3話
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。
ユウリは、目を開けた。
一瞬、ここがどこだったか分からず――すぐに思い出す。
王立魔導学院。学生寮の個室。
ゆっくりと上体を起こすと、ベッドの軋む音が静かな部屋に響いた。
窓の外から、遠くで誰かの足音が聞こえる。
まだ早い時間らしい。
ユウリはそのまま立ち上がり、顔を洗うために洗面台へ向かった。
冷たい水が、指先を伝う。
鏡に映った自分の顔を、少しだけ眺める。
寝癖はついているが、目はしっかり開いていた。
「……うん」
それだけ言って、タオルで顔を拭く。
枕元に置いていた荷物に手を伸ばし、位置を確かめる。
昨夜と変わらず、そこにある。
それで十分だった。
窓を少し開けると、朝の空気が流れ込んできた。
冷たくて、澄んでいる。
遠くから、学院の鐘の音が聞こえた。
ユウリは私服のまま、荷物を整え始める。
入学式までは、まだ数日ある。
この静かな朝も、きっと今日で終わりだ。
――そう思いながら、ユウリは部屋を出た。
それから数日後。
学院の鐘が、少し長めに鳴っている。
朝の静けさが完全にほどけ、敷地内に人の気配が増えていく。
今日は入学式の準備日――新入生は事前説明と、制服の最終調整を受けることになっている。
ユウリは案内に書かれていた通り、指定された講堂へ向かっていた。
いつもより人が多い。
私服の新入生らしき姿と、制服の在校生が混じって行き交っている。
(……これが全員学生なのか、さすが学院って感じだな)
講堂前の広場では、すでに列ができ始めていた。
名前を呼ばれ、順に中へ案内されていく。
ユウリは列の後ろに並び、ぼんやりと周囲を見渡す。
その時だった。
視界の端で、明らかに雰囲気の違う人物が動いた。
背は高くない。
だが、姿勢がいい。迷いがない。
周囲を見てはいるが、きょろきょろしていない。
――服装が、違う。
王国の流行とは明らかに異なる意匠。
布の重ね方、装飾の位置、色の選び方。
どれもこの国の「やりたい放題」とは方向性が違う。
(……他国、か)
その人物――少女は、列を確認しながら、ユウリのすぐ前で足を止めた。
一瞬、視線が合う。
灰がかった淡い色の瞳。
感情を探らせない、静かな目。
ほんの一拍遅れて、彼女が口を開いた。
「……ここ、新入生の列?」
発音は流暢だが、どこか癖がある。
王国の共通語ではあるが、母語ではないとすぐ分かる。
「あ、うん。多分」
ユウリが答えると、少女は小さく頷いた。
「助かる。ありがとう」
それだけ言って、彼女は列に並ぶ。
距離は近いが、妙に圧を感じない。
少しだけ、風向きが変わった気がした。
(……変わった人だな)
そう思った瞬間、今度は彼女の方から視線が戻ってきた。
「あなたも?」
唐突だった。
「え?」
「服。実用寄り。王都育ちじゃない」
昨日聞いたような指摘に、ユウリは思わず苦笑する。
「王国だけど、北の辺境。ノースヴェルグ」
そう答えると、彼女は一瞬だけ目を見開いた。
「……北」
短く、それだけ呟く。
「私はリナ。列島諸国からきたの」
それ以上は語らない。
だが、それで十分だった。
名前。
出身が「王国外」だという事実。
それだけで、この学院において彼女がどれほど特殊な存在かは伝わる。
係員の声が響き、列が動き始めた。
「じゃ、また後で」
リナはそう言って、自然に前を向いた。
たったそれだけのやり取り。
会話と呼ぶには短すぎる、すれ違いに近いものだった。
それなのに――
ユウリは、前を向いたはずの彼女の背中から、なぜか視線を外せずにいた。
(……なんだろう)
理由ははっきりしない。
印象的な言葉を交わしたわけでもないし、特別なことが起きたわけでもない。
ただ、
あの場にいた他の誰とも違って見えた。
辺境出身だと見抜かれたことか。
異国の訛りか。
それとも、感情をほとんど見せない目か。
どれも決定打ではない。
それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残ったまま、消えない。
――そう遠くないうちに、また会う気がする。
そう思った自分に、ユウリは少しだけ戸惑いながら、列の流れに身を任せた。
――北。
列に並びながら、リナはその言葉を頭の中で反芻していた。
王国の北。
地図の端。
それ以上の情報は、ほとんど残っていない場所。
(……まだ、人が暮らしていたんだ)
彼女は前を向いたまま、表情を変えずに息を整える。
この学院には、予想外が多い。
だが――あの少年は、その中でも少しだけ、気になる分類だった
ちらりと、後ろを振り返る。
すでに彼は前を向いていて、こちらを見ていない。
実用一点張りの服装。
余計な動作のない立ち方。
視線は落ち着いているのに、どこか警戒が抜けていない。
(……向こうも、気づいてる)
何に、とは言語化しない。
必要ない。
列が進み、視界から彼の姿が少しずつ遠ざかる。
――まあ、いい。
この学院にいる限り、
また、どこかで会うことになるだろう。
リナはそう結論づけて、何事もなかったように前を向いた。
◇
列は、思ったよりも早く進んだ。
講堂の中は広く、天井が高い。外観ほどの装飾過多はなく、音が不思議と吸われていくような静けさがある。新入生たちは等間隔に配置された机に案内され、係員の指示に従って腰を下ろしていった。
ユウリも空いている席に座る。
周囲を見渡すと、私服のままの生徒がほとんどだった。王都風の洒落た服装の者もいれば、旅装に近い実用的な格好の者もいる。出身地も、育ってきた環境も、ばらばらなのが一目で分かる。
(これが、全員同じ学院の仲間たち……。)
小さく息を吐く。
講堂の前方に、事務局の職員が数名並んだ。全員、制服とは異なる落ち着いた色合いのローブ姿で、どこか研究者のような雰囲気を纏っている。
「それでは、新入生の皆さん。入学準備の説明を始めます」
淡々とした声だったが、不思議とよく通る。
内容は事務的なものが多い。
学生証の発行。
履修登録の大まかな流れ。
寮生活に関する注意事項。
学内施設の利用時間。
だが、その合間に挟まれる一言一言が、辺境育ちのユウリには新鮮だった。
「学科によって、立ち入り制限区域が異なります」
「研究目的での設備破損は、原則として不問です」
「降霊術学科の実習棟は、日没後の使用を禁止します」
(……最後の、さらっと言う内容じゃないだろ)
思わず心の中で突っ込む。
周囲からも、わずかにざわめきが起きた。
だが、事務局員はそれ以上説明することなく、次の項目へ進んでいく。
やがて、学科ごとに名前が呼ばれ、簡単な確認が行われた。
「降霊術学科、ユウリ・カミナギ」
「はい」
立ち上がると、数人分の視線が集まるのを感じた。
好奇心、警戒、無関心――その混ざり合った空気。
だが、すぐに収まる。
この学院では、“珍しい”こと自体が珍しくないのだろう。
全体説明が終わると、新入生は小グループに分けられ、施設案内へと移動することになった。案内役は、事務局所属の職員だ。
「ではこちらの班、ついてきてください」
呼ばれて立ち上がる。
同じ班には、年齢も性別もばらばらの新入生が数人いた。
廊下を歩きながら、職員は要点だけを簡潔に説明していく。
「こちらが共用講義棟。学科横断の座学は主にここで行われます」
「食堂は三食対応。栄養設計は錬金術学科監修です」
「寮は完全個室。門限はありませんが、騒音結界を破った場合は即指導対象になります」
さらっと物騒な単語が混じるのも、この学院らしい。
◇
一通り学院内の案内が終わり、講堂に戻ると、そこには新入生用の制服と教材がすでに準備されていた。
「次は制服の支給と最終調整です。番号順に移動してください」
淡々とした声に従い、ユウリは割り振られた区画へ向かう。通路を進むにつれて、空気が少し変わっていくのが分かった。
布の匂い。
金属が触れ合う、かすかな音。
そして、人の視線。
様変わりした講堂内には、同じ色合いのローブが整然と並んでおり、だが近くで見るとどれ一つとして“同じ”ではない。
(……全部、微妙に違う)
丈。
肩の落ち方。
袖の長さ。
布の厚み。
あらかじめ個人情報を元に調整されているのだろうが、それだけでは説明がつかない精度だった。
「ユウリ・カミナギ」
名前を呼ばれ、前に出る。
担当の職員は、年配だが背筋の伸びた人物だった。
視線は鋭いが、どこか研究者めいた落ち着きがある。
「北の辺境。体格は平均よりやや細身……だが、姿勢がいい」
独り言のように呟きながら、棚から一着を取り出す。
「試してみなさい」
手渡されたローブは、見た目以上に軽かった。
羽織った瞬間、肩にかかる重さがすっと消える。
(……馴染む)
まるで、最初からそういう形だったかのように。
「問題なし」
職員は即座に判断を下す。
「このローブには簡易的な適応結界が組み込まれている。動きを妨げず、魔力の流れも阻害しない。降霊術学科の学生には特に重要だ」
その言葉に、周囲の空気がわずかに変わった。
視線が、集まる。
露骨ではない。
だが、確かに“向けられている”。
(……もう、知られてるな)
降霊術学科。
人数の少なさ。
扱うものの性質。
ここでは、それだけで十分な理由になる。
胸元に留められた銀色のバッジが、淡く光った。
まだ学科紋様は簡易的なものだが、それでも意味は明確だ。
――王立魔導学院の学生。
――降霊術学科所属。
その二つを、否応なく示している。
講堂を出ると、すでに制服に着替えた新入生たちが通路に増えていた。
私服の時とは、雰囲気がまるで違う。
背筋が伸びる者。
落ち着かなく裾をいじる者。
鏡を探してきょろきょろする者。
同じ服を着ているはずなのに、出る色はバラバラだった。
(……不思議だな)
制服は“揃える”ためのもののはずなのに、
むしろ個人差が強調されている気がする。
ふと、視線の先に見覚えのある後ろ姿があった。
灰がかった淡い髪。
無駄のない立ち方。
リナだった。
彼女もすでに制服に身を包んでいる。
だが、その印象は私服の時とほとんど変わらない。
違和感がない。
――最初から、ここに属していたかのようだ。
リナは誰かと短く言葉を交わし、視線を巡らせた。
一瞬だけ、ユウリと目が合う。
言葉はない。
彼女は小さく頷き、すぐに視線を戻した。
それだけ。
だが、ユウリは胸元のバッジの存在を、はっきりと意識していた。
午後。
制服支給が終わると、新入生たちは学科ごとに分かれて移動するよう指示された。
通路に並ぶ案内板の前には、それぞれ小さな人だかりができている。
錬金術学科。
魔導工学科。
戦技魔法学科。
どの方向も、人の流れが途切れない。
――その中で。
降霊術学科の案内板だけが、少し離れた場所に立っていた。
(……やっぱり、特別扱いなんだな)
示されているのは、北側の旧講義棟。
人通りの少ない区画だ。
ユウリが指定された部屋へ向かう頃には、すでに何人かが集まり始めていた。
一人で立っている者。
小声で会話する二人組。
壁際で黙って腕を組んでいる者。
数は――ざっと見て、二十人前後。
(思ったより、多い)
だが、賑やかさはない。
誰もが必要以上に口を開かず、視線だけが忙しく動いている。
互いを値踏みするようでいて、同時に距離を取っている。
降霊術学科、という名前が生む空気だった。
やがて、扉が開く。
現れたのは、細身の女性だった。
年齢は判然としない。だが、姿勢と視線の置き方だけで、
「長くここにいる人間」だと分かる。
「――では、始めましょう」
声は低くも高くもない。
抑揚も少ないはずなのに、不思議と耳に残る。
「降霊術学科主任講師、エルドです」
ざわつきは起きない。
むしろ、空気が一段階引き締まった。
「今年度の新入生は、二十名。
当学科は単一クラス制です。クラス分けは行いません」
その言葉に、わずかに視線が交錯する。
二十人。
多すぎず、少なすぎない。
だが――逃げ場のない数でもある。
「まず、最初に理解しておいてほしい」
エルドは、ゆっくりと教室全体を見渡した。
「この学科では、“才能があるかどうか”は、評価基準にあまり関係がありません」
何人かが、わずかに表情を動かす。
「重要なのは、降霊術を理解すること。
――2度と同じ悲劇を繰り返さないために」
一拍。
「降霊術は、力を振るう学問ではない。
力に振るわれないための学問です」
静かだが、重い言葉だった。
ユウリは、胸元のバッジの存在をはっきりと意識する。
(……二十人、か)
この中で、全員が最後まで残るとは限らない。
それだけは、直感的に分かった。
「では着席してください。
今日は顔合わせと、最低限の説明のみ行います」
椅子を引く音が、あちこちで響く。
二十人分の音が重なっても、教室は静かなままだった。
――降霊術学科。
数はいるが。
この場にいる全員が、どこか孤独だった。
ユウリは、その一人として席に腰を下ろし、
これから始まる説明に耳を傾けるのだった。




