15話 過去の記憶
燃える匂いがした。
何度も、何度も見る夢。
――もう何年も、忘れられない夢。
鼻の奥に残る、焦げた木と土の匂い。
赤く染まる夜。
叫び声。
――逃げろ。
誰かの声。
でも、足が動かない。
低く、しなやかな影が視界を横切る。
豹のような――
光の獣。
それが走るたび、闇が裂ける。
次の瞬間。
「……もう、大丈夫」
その声に包まれて――
ユウリは、はっと目を覚ました。
「……また、か」
天井を見つめながら、小さく呟く。
あの夜の夢は、今も消えない。
始まりの記憶だった。
◇
当時、ユウリは七歳だった。
山と森に囲まれた、辺境の小さな村。
何もない。
でも、穏やかな場所。
「ユウリ、センリ、起きなさーい」
朝を告げる母の声。
「いただきます」「ごちそうさまでした」
3人で朝食を済ませる。
母は、戸口で一度だけ立ち止まった。
胸の前で手を重ね、
小さく目を閉じる。
「……今日も、お借りします」
誰にともなく、そう呟く。
山に。
森に。
水に。
この村では、
それが当たり前だった。
父はすでに狩に出発したようだ。
ユウリは、父と母、それから2歳年下の弟センリの4人で暮らしていた。
村の外れの草原。
「待てー!センリ!」
「やだー!つかまらないー!」
センリは、手に木の棒を持って走り回っている。
「それ、剣のつもりかよ」
「そうだよ!ぼく、ゆうしゃ!」
「じゃあ俺は?」
「まほうつかい!」
「微妙だな……」
文句を言いながらも、ユウリは追いかける。
二人で転んで、草まみれになって、笑った。
何でもない時間。
当たり前の、毎日。
ユウリたちの村は、山と森に囲まれた小さな集落だった。
人口は百人ほど。
農業、狩猟、簡単な魔導具加工。
どれも派手ではないが、自給自足で生きている。
そして――
ここでは、日常に戦いが溶け込んでいた。
「そこ、姿勢が甘い!」
「腰を落とせ!」
広場では、大人たちが若者に槍の稽古をつけている。
弓の音。
魔術の詠唱。
結界術の練習。
日常の風景だ。
広場の端には、
昨日倒した魔獣の骨が並べられていた。
白木の板。
小さな花。
酒を一滴。
子供でも分かる形で、
弔われている。
「……ちゃんと、返すんだよ」
祖母が、そう言っていたのを思い出す。
もらった命は、
山へ返す。
それが、この村のやり方だった。
「兄ちゃん、みて!」
センリが、小さな弓を構える。
「当たるかな?」
「……ちゃんと狙えよ」
――ひゅん。
矢は、的の端に刺さった。
「当たった!」
「すげぇじゃん」
頭をくしゃっと撫でる。
「ユウリも、午後は訓練来いよ」
通りがかった青年が声をかける。
「はーい」
「最近サボりすぎだぞー?」
「……あそびたいんだもん」
苦笑する。
この村では、戦えることは「特別」じゃない。
生きるための、当たり前。
守るための、当たり前。
だからこそ――
誰も、この平和が壊れるなんて、
まだ、思っていなかった。
◇
それは、夕方のことだった。
訓練を終えた大人たちが、汗を拭いながら広場に集まっている。
「今日は暑かったな……」
「熊型の魔獣、また山に戻ったらしいぞ」
「はは、あれもしつこいよな」
いつも通りの会話。
いつも通りの夕方。
ユウリは、センリと並んで木陰に座り、干し肉をかじっていた。
「ねえ兄ちゃん」
「ん?」
「今日さ、森、ちょっと静かじゃない?」
「……そうか?」
耳を澄ます。
確かに、鳥の声が少ない気もする。
でも――
「気のせいだろ」
「暑いから、みんな休んでるんだよ」
「ふーん……」
センリは納得していない顔だったが、それ以上は言わなかった。
その時。
見張り台から、短い笛の音が鳴った。
――ピィ。
一回。
「お、どうしたー?」
「何かいたのか?」
誰かが気軽に言う。
少しして、見張りの男が降りてきた。
「森の奥で、群れっぽい動きがある」
「また魔獣か?」
「多分な」
ため息交じりの声。
「まったく、忙しいな」
「飯の前に片付けるか」
笑いながら、槍を取る者もいる。
誰も、深刻には受け取っていない。
いつものことだから。
「子供は、念のため家に戻しとけー」
「はいはい」
軽い調子。
母が手を振る。
「ユウリ、センリ、戻ってきなさい」
「はーい」
センリの手を引いて歩き出す。
母は、ユウリの肩に手を置いた。
「……帰ったら、また祈ろうね」
「え?」
「今日も、生きてるって」
その意味を、
ユウリはまだ知らなかった。
後ろを見ると、大人たちはもう配置についていた。
慣れた動き。
迷いのない足取り。
――この村は、強い。
何度も、何度も、
魔獣を退けてきた。
だからこそ。
誰も思っていなかった。
今日の“それ”が、
いつもと違うなんて。
◇
最初の悲鳴は、森の方角から聞こえた。
「来たぞー!!」
見張り台の男の叫びが、夕焼けを切り裂く。
次の瞬間。
――ヒュゥッ。
空を裂く音。
火の矢が、柵に突き刺さった。
炎が走る。
「火矢だ!!」
「消せ!!急げ!!」
ざわめきが広がる。
森の奥から、影が溢れ出す。
ずんぐりとした体格。
粗末な鎧。
武器を構えた魔獣。
――オーク。
隊列を組み、統率された群れ。
「……多すぎる……」
百体以上。
いや、それ以上。
村長の声が響く。
「迎撃準備!!」
「弓隊、配置!」
「魔術班、後方支援!」
「結界、展開!」
瞬時に陣形が整う。
それは、長年積み上げてきた習熟の証だった。
前線に立つ大人たち。
男も、女も。
この村に鎧などの防具は無い。
代わりに、露出した肌には――
幾何学模様の刺青。
腕に。
背に。
胸に。
淡く、魔力を帯びて光っている。
それは、生まれた時から刻まれる、
“守る者”の証だった。
「……行くぞ」
父が、低く呟いた。
右腕に刻まれた紋様が、淡く輝く。
隣には、母も立っていた。
短槍を握り、
迷いのない目で前を見ている。
「放て!!」
矢の雨。
火球。
氷槍。
魔術が炸裂する。
先頭のオークが倒れる。
「いいぞ!」
「数を減らせ!」
一瞬、希望が灯る。
だが――
止まらない。
倒れても、
踏み越えて、
押し寄せてくる。
盾兵が前へ。
弓兵が後方へ。
――戦術。
「統率されてる……!」
第二波。
火矢が降り注ぐ。
屋根が燃える。
倉庫が燃える。
家が燃える。
「子供を避難させろ!」
「地下倉庫へ!!」
叫びが交錯する。
ユウリは、母の背中を見ていた。
戦場に向かう背中。
迷いのない背中。
――逃げない。
誰一人、逃げなかった。
――ドン!!
衝撃。
防柵が砕けた。
「突破された!!」
丸太を担いだオークが突進する。
――ドゴォン!!
木片が飛ぶ。
煙が舞う。
そこから――
黒い奔流が流れ込んだ。
「侵入された!!」
「迎え撃て!!」
「うおおおおおお!!」
剣が鳴る。
槍が裂く。
血が飛ぶ。
女も、男も。
歯を食いしばり、
最後まで立ち続ける。
炎と煙の中。
平和だった村は、
一瞬で戦場に変わった。
ユウリは、呆然と立ち尽くしていた。
胸の奥が、冷たくなる。
分かってしまった。
――これは、
大人たちでも、勝てない。
初めて、
そう思ってしまった。
それでも。
大人たちは、退かなかった。
誰一人。
◇
炎と怒号が、背後で渦巻いていた。
「ユウリ!こっち!!」
母の声。
裏山への細道。
子供たちが次々と走らされる。
「センリ、離れるな!」
「う、うん!」
手を引く。
必死で。
枝に引っかかり、
転び、
それでも走る。
――ガサッ。
背後。
草が揺れた。
「……っ」
嫌な気配。
低い唸り声。
振り向いた瞬間――
いた。
牙。
斧。
赤い目。
オーク。
「……来てる……!」
センリが震える。
「兄ちゃん……」
「大丈夫」
震える声で。
「俺が――守る」
一歩、前に出る。
棒切れ一本。
武器にもならない。
でも。
退かなかった。
オークが、斧を振り上げる。
視界の隅で光輝くものが見えた――
その瞬間。
黒い影が、駆け抜けた。
低く。
速く。
しなやかで。
獣の形。
豹のような青白い光を放つ獣。
それが通った場所だけ、
空気が裂ける。
重たい夜が、
一瞬だけ消えた。
――ズンッ!!
衝撃。
オークが吹き飛ぶ。
「……え……?」
次いで、フードの男が躍り出る。
短剣が閃く。
視線を奪う。
その瞬間――
背後から、
青白い光が襲いかかる。
速い。
合図もない。
言葉もない。
なのに――
最初から決まっていたみたいだった。
男と獣が、
一つの意思で動いている。
……四体。五体。
あっという間に、
オークが倒れていく。
足音。
ゆっくり。
近づいてくる。
影の中から、
人の輪郭が浮かぶ。
フードの男。
顔は、よく見えない。
ただ――
声だけが、はっきりしていた。
「……もう大丈夫」
その言葉で。
張りつめていたものが、
音を立てて崩れた。
膝が落ちる。
視界が揺れる。
あたたかい腕に、
包まれて――
音が、遠ざかる。
光が、にじむ。
世界が、ほどけていく。
――そこで、意識が途切れた。
◇
目を覚ました時。
空は、もう白み始めていた。
「……あ……」
体が、重い。
頭が、ぼんやりする。
「ユウリ!」
母の声。
駆け寄ってくる。
「よかった……目を覚まして……」
父も、すぐ後ろにいた。
二人とも――無事だった。
それだけで、
胸がいっぱいになる。
「……村は……?」
恐る恐る、聞いた。
父は、少しだけ視線を伏せる。
「……見た方が早い」
手を引かれる。
村へ戻る。
そこにあったのは――
瓦礫。
焼け焦げた家屋。
崩れた柵。
黒く染まった地面。
昨日までの風景は、
どこにもなかった。
「……」
言葉が、出ない。
倒れた家の前で、
泣き崩れる人。
毛布に包まれた――
動かない影。
数は、多くない。
でも。
確かに、
失われた命があった。
「……勝ったんだよな……?」
誰かが呟く。
「……ああ」
「追い払った」
「でも……」
続きを、誰も言えなかった。
ユウリは、
拳を握りしめた。
――守れなかった。
守ったつもりで、
何も守れていなかった。
◇
夕方。
応急処置と後片付けが一段落した頃。
村外れで、
一人の男が荷をまとめていた。
フードの旅人。
あの夜の――
「……あの」
気づけば、
ユウリは声をかけていた。
「……助けてくれて……ありがとう」
男は、少しだけ振り返る。
顔は、まだ影の中だ。
「……シオンだ」
短く名乗る。
「礼はいらない」
「偶然、通りかかっただけの旅人だ」
淡々と。
本当に、
それだけのことのように。
「……でも……」
言葉に、詰まる。
「……俺……何も……できなくて……」
視線が落ちる。
棒切れ。
小さな手。
無力だった自分。
シオンは、
しばらく黙っていた。
やがて――
「……十分だ」
「逃げずに立った」
「それだけで、大したもんだ」
「……え?」
「大人でも」
「できない奴は多い」
淡々とした声。
でも、
どこか本気だった。
ユウリは、
思い切って聞いた。
「……どうしたら……」
「あなたみたいに……なれますか?」
シオンは、
一瞬だけ目を細めた。
「……なりたいのか?」
「……なりたいです」
即答だった。
「……守れるように……なりたい」
沈黙。
風が、吹く。
草が揺れる。
やがて――
「……簡単じゃない」
「痛いし」
「苦しいし」
「失うこともある」
「……それでも?」
「……それでも」
シオンは、
ふっと小さく息を吐いた。
「……なら」
「目を逸らすな」
「弱い自分からも」
「世界からも」
「逃げなければ――道は見える」
それだけ言うと、
背を向けた。
「……また、会える?」
思わず叫ぶ。
シオンは、
振り返らないまま答えた。
「……生きていればな」
そして。
森の中へ、
溶けるように消えた。
◇
その夜。
ユウリは、
眠れなかった。
焼けた家。
倒れた人。
豹の光。
全部が、
頭から離れない。
布団の中で、
拳を握る。
「……強くなる……」
違う。
ただの強さじゃない。
「……守れるように……」
命を。
魂を。
奪わずに。
歪ませずに。
「……絶対に……」
七歳の少年は、
その夜――
“正しい力”を、
求め始めた。




