第1話:覇王、現代に舞い降りるも「フリック」に屈す
第一章 第六天魔王、四角い黒鏡を手に入れる
本能寺の煤煙と熱気が、嘘のように遠い。 燃えさかる炎の中で自害したはずの第六天魔王・織田信長は、あろうことか現代日本の高校生・織田信也として目を覚ました。
最初は困惑した。だが、天下を狙う覇王の順応性は凄まじい。 この「現代」なる世は、刀や槍で合戦をする時代ではない。情報こそが兵であり、ネットワークこそが戦場なのだと、信長は即座に理解した。
「なるほど……この『すまーとふぉん』なる四角い板こそが、現代における最強の兵器というわけか」
自分の部屋の机に向かい、信長は手のひらに収まる漆黒の端末――スマートフォンをじっと見つめた。 四角い鏡のような画面に触れると、光がともり、色とりどりの絵が入った小箱が並ぶ。 この小さな板一つで、世界中の情報を手に入れ、何万人、何百万人の人々へ一瞬で言葉を届けることができるという。かつて伝令を走らせ、狼煙を上げ、あるいは飛脚を跳ばしていた時代から見れば、まさに神仏の如き神通力であった。
「フハハハ! よいぞ、実によい! この端末を制すれば、兵を一人も動かさずして『天下布武』が成し遂げられるではないか!」
信長は高らかに笑い声を上げた。 目指すは、SNSなる現代の広場での天下統一。世界中の人間を自らのフォロワーとし、言葉ひとつで天下を動かすのだ。
だが――覇王の野望の前に、人類史上類を見ない凶悪な障壁が立ちはだかることになろうとは、この時の信長は知る由もなかった。
第二章 「あ」の呪縛
「ぬぐぐぐ……っ!?」
信長の額に、ダラダラと冷や汗が伝う。 画面には、現代の連絡ツール『OLINE』のアカウント設定画面が開かれていた。まずは自らの名を刻み込み、世に宣戦布告をせねばならない。
『名前を入力してください』
画面の下半分には、ひらがなが書かれた小さなマス目が並んでいる。 「あ」「か」「さ」「た」「な」……。 信長は人差し指をピンと立て、まずは「う」の文字を探した。
「ふむ。『う』か……。ほう、『あ』のマスの中に『う』の影が見えるぞ。ならば、この『あ』を押せばよいのだな?」
信長は意気揚々と「あ」のボタンを強く押し込んだ。
『あ』
「む? 『あ』ではないか。そうか、連続して押すのだな?」
信長はトントンと画面を叩いた。
『ああ』
「ぬ……『ああ』となったぞ!? なぜだ! 『う』はいずこへ参った!?」
『あああ』
「えぇい! なぜ『あ』ばかり連打されるのだ! 余は『う』と打ちたいのだぞ! 『う』へ参るにはどうすればよいのだ!?」
苛立った信長が、画面上の「あ」を強く擦るように指を上へ滑らせた。 すると――奇跡が起きた。画面に『う』が表示されたのだ。
「おおっ!? 出た! 『う』が出たぞ! 左様か、上へ払えば『う』になるのだな!?」
信長は歓喜した。なるほど、この操作こそが噂に聞く『ふりっく入力』というやつか。十字の方向に指を払うことで、文字を撃ち分ける仕組みらしい。
「フハハ! カラクリさえ分かれば恐るるに足らず! 次は『の』じゃ! 『の』は……『な』の右か!?」
信長は『な』のマスに指を置き、勢いよく右へ指を滑らせた。 しかし、力が入りすぎた指先は画面の枠外へはみ出し、変な場所をタップしてしまう。
『うあになね』
「な、何ぃぃッ!?」
画面には、謎の呪文のような文字が躍っていた。 信長は慌てて消去ボタンを探すが、うっかり決定ボタンを押してしまい、名前が『うあになね』で確定してしまう。
「無礼者めがッ! 画面が……画面が余の指の速さについてこぬわッ!!」
バシィン! と机を叩く信長。 かつて桶狭間の戦いで奇襲を成功させ、長篠で鉄砲三段撃ちを編み出した戦国の天才が、わずか数センチ四方の液晶画面の前で、屈辱の涙を呑んでいた。
第三章 忠臣との再会
翌日。私立第六天学園の教室。 信長は自身の席で、死んだような目をしながらスマホの画面を睨みつけ、人差し指でツンツンと画面を突いていた。
「……あ……い……う……え……お……。ぬぅ……指が太すぎるのか? いや、画面が滑りすぎるのだ。もっと滑り止めを塗るべきではないか……」
「あの……信也くん?」
不意に、上から鈴を転がすような可憐な声が降ってきた。 振り返ると、そこにはショートボブの似合う小柄で美しい女子生徒が立っていた。 クラスメイトの森蘭。
――いや、信長には分かっていた。 その澄んだ瞳、まっすぐな立ち姿。間違いない。前世で最後まで自分に仕え、本能寺で共に散った最愛の小姓・森蘭丸の生まれ変わりである。
「蘭丸……いや、蘭か!」 「え? らんまる……?」 「あ、いや! なんでもないぞ蘭! よいところへ来た。少しこの『すまーとふぉん』の指南をしてほしいのだ」
信長は藁にもすがる思いで、スマホを蘭に突き出した。 蘭は首をかしげながら信長の画面を覗き込み、思わず吹き出した。
「ふふっ、信也くん、プロフィール名が『うあになね』になってるよ? それに……文字入力、もしかしてガラケーみたいに連打して打とうとしてたの?」
「む……! 連打ではない! 上や左に払おうとしたのだが、どうにも狙った文字が出ぬのだ。余の指は槍も刀も自在に扱えるというのに、なぜこの薄い板一枚に制せられねばならんのだ!」
悔しそうに拳を握りしめる信長を見て、蘭は優しく微笑んだ。
「そっか。信也くん、フリック入力が苦手なんだね。大丈夫、コツさえ掴めば簡単だよ。……ほら、ちょっとスマホ貸して?」
第四章 フリック道場、開眼……?
蘭は信長の隣の席に座ると、自分のスマホを取り出し、手本を見せるように画面に指を置いた。
「いい? あ行のキーを押すと、十字型に『い・う・え・お』って浮かび上がるでしょ? 左が『い』、上が『う』、右が『え』、下が『お』。これはどの行でも同じなの。『か行』なら左が『き』、上が『く』……って感じ」
蘭の細くしなやかな指先が、流れるような動きで画面の上を滑る。 トントン、スイスイ。 まるで舞を踊るかのように軽やかな手さばきだ。画面には一瞬で『よろしくお願いします!』という文章が打ち出された。
「な……なんという速さだ……! まるで電光石火!」
信長は目を見張った。蘭丸め、現代に転生してこれほどの神技を習得していたとは。
「はい、じゃあ信也くんもやってみて。『おだしんや』って打ってみて?」
「う、うむ……!」
信長は背筋を伸ばし、スマホを両手でしっかりと保持した。まるで名刀を構えるかのような真剣な眼差しだ。
「まずは『お』じゃな……。『あ』を押して……下へ払う!」
『お』
「おお! 出たぞ! 『お』が出た!」 「そうそう! 上手! 次は『だ』だよ。『た』に濁点ね」
「『た』を押して……左へ払って『ち』……ではない! 『た』は払わずにそのままでよいのか!?」 「うん、そのまま離せば『た』になるよ」
『た』
「そして、濁点……濁点は左下のこのボタンかッ!」
『ただ』
「ちがーう! 『ただ』になっちゃってる! 『た』のあとに濁点ボタンを押すだけでいいの! 連打しないで!」
「ぬあああッ! ややこしいわッ! なぜ『だ』という独立したボタンを作らんのだ! わざわざ『た』を経由せねばならんとは、二度手間でなさけ容赦もない仕組みではないか!」
「落ち着いて信也くん! ほら、消去ボタンで一文字消して!」
「消すボタン……これか!?」
焦った信長は、勢い余って画面を長押ししてしまった。 せっかく入力した文字が、ズババババと音を立ててすべて消え去っていく。
『 』
「………………」 「あっ……全消去しちゃった……」
静まり返る教室。 信長はゆっくりとスマホをデスクの上に置き、天を仰いだ。
「絶望じゃ……」
「えっ?」
「余は……絶望したぞ、蘭よ。かつて今川義元を討ち取った時も、浅井・朝倉の包囲網に窮した時も、これほどの絶望は味わったことがない……」
「話の規模が大きすぎるよ信也くん!?」
「画面を見つめ、指先を数ミリ単位で制御し、濁点や小文字の概念に怯えながら文字を打つ……。このような拷問の如き作業を、現代人は皆、平気な顔で行っているというのか……!? 恐ろしい世の中じゃ……現代人は皆、忍びか何かなのか……!?」
ガクッと肩を落とす信長。 天下布武の野望は、SNSの入口である「名前入力」すら突破できず、早くも暗雲が立ち込めていた。
第五章 覇王の決意
「でもね、信也くん」
蘭は励ますように、信長の肩をぽんと叩いた。
「最初からうまくできる人なんていないよ。毎日触っていれば、指が自然に覚えるから。信也くんなら絶対にできるようになるよ」
まっすぐな瞳で自分を信じる蘭の姿に、信長の胸の奥で、消えかけていた薪に再び火が点いた。
(そうだ……余は織田信長。一度志した天下を、たかだか『ふりっく入力』ごときに阻まれて諦めてなるものか!)
信長は力強くスマホを掴み直した。
「よく言った、蘭! 左様、余は諦めぬ! この四角い板を伏せさせ、余の指の僕として見せる!」
「う、うん!(何言ってるかよく分からないけど、元気出たならよかった!)」
「蘭よ、余にフリックの特訓を課せ! 朝から晩まで、指の皮が剥けようとも打ち続けてやるわ!」
「ええっ、そこまでしなくてもいいと思うけど……じゃあ、まずはクラスのグループOLINEに参加することから始めよっか?」
「ぐるーぷLINEとな!?」
「うん、みんなで雑談するチャットだよ。そこに挨拶を投げ込めれば、第一段階クリアかな!」
「ふむ……! クラスの者たちへ、余の存在を知らしめる最初の陣というわけだな。よいだろう!」
信長はギラギラとした野望の光を瞳に宿し、スマホの画面を睨みつけた。
フリック入力という名の未開の地。 いま、第六天魔王の新たな戦いが、静かに火ぶたを切ったのであった。
(つづく)




