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 海を見ると想いだします。『流れ椅子』と題された小さな詩を。

 この『流れ椅子』という詩は、明治生まれの詩人にして作詞家、西條八十(さいじょうやそ)なる人物が書いた、ごく短い作品です。昭和歌謡屈指(くっし)のヒット曲、『青い山脈』の作詞家としても知られ、哀切あいせつなメロディに魂をもってゆかれそうになるノスタルジックな名曲、『蘇州夜曲(そしゅうやきょく)』を生み出した人としても有名です。童謡なら、『かなりあ』が忘れがたい傑作という方もあるでしょう。

 ともあれ、名を()せた、これら数々の傑作の影に隠れがちな小品、『流れ椅子』ではありますが、これはこれでなかなかに味わい深く、幻想と寂寥(せきりょう)に満ちた逸品(いっぴん)と言えそうです。



 時は夜。月に照らされる銀色の海。三角の波に翻弄(ほんろう)されながらも、やっと浜辺に漂着したのはボロボロに朽ちかけた一脚の椅子。

 流れ椅子だけに水面に浮かび、椰子(やし)の実のように海流に乗って旅してきたのです。

 人のいない海に風がびょうびょうと鳴りやまず、煌々とひかる月に照らされ、椅子の背にはカモメが一羽、止まっている……。



 詩に書かれているのは、海辺に漂着した椅子の印象的なワンシーンだけ。かの椅子のその後の消息については語られることはありません。

 だけどもし、流れ椅子が実在し、私たちの暮らしの(かたわ)らに流れ着いたとしたら?

 さらにもし、恋の予感を告げるメッセンジャーとして旅をしているのだとしたら?


 それは旅を運命づけられた椅子でした。

 波にさらわれて再び沖合いに運ばれていった椅子は、新たな出会いを求めて果敢(かかん)に航海をつづけていったことでしょう。

 古びた椅子は、はてさて、いずくにか流れ着いたのやら?



 ※



 ある初夏の朝の出来事でした。

 やわらかな新緑をすかし、まばゆいばかりに陽がこぼれだします。きれいな光に満ちたそんな美しき園生に一人の青年がやってきました。


 青年はお邸に住みこんで働く庭師でした。ひろびろとした邸宅で丹精したのは、園芸に適した草木ばかりではありません。林檎(りんご)(あんず)、スグリなどの果樹の林の実りもゆたかで、珍しい植物をおさめた温室もあり、なかでもハーブ類が群生する階段状になったテラス花壇の威容は壮麗なものがありました。蝶がゆきかい、蜜蜂が震わせる翅音(はねおと)も実に賑やかな輝けるガーデンだったのです。


 さらに庭の一角に薔薇園がみえます。

 ご承知の方も多いかもしれませんが、薔薇は肥料喰いとして知られる植物です。しかも病害虫に弱く、驚くほどデリケートにして我儘(わがまま)なフローラといえます。それだけに愛おしさも、ひとしおでした。

 手塩にかけた分だけ、みずみずしくも気品に満ちた芸術品を咲きこぼす。薔薇の花とは、優雅さをたたえた一つの完成された宇宙であり、造化の神の指によって彫琢(ちょうたく)された奇蹟に他なりません。


 とはいえ彼のお気に入りはマニア垂涎(すいぜん)のレアな品種ではありませんでした。

 それはごくささやかで平凡な薔薇。(つる)をのばし、からませる白い小さな花でした。


 その白い薔薇が今や盛りとばかりに咲き誇っています。まるで雪をおもわせる(しと)やかな貴婦人ですが、やはり薔薇であることに変わりなく、それなりに手を焼かされます。


 早朝からの仕事がようやっと一段落するお昼前、小さな薔薇の貴婦人とともに過ごすひとときが青年の、ささやかな慰めとなっていました。それだけ彼女を愛していたのです。


 蔓をからませるアーチになった棚を称し、パーゴラと呼びます。庭で青年が真っ先に立ち入るのは白薔薇のアーチの下でした。


 そして見つけたのです。アーチをくぐって少し離れたところに先客が(たたず)むのを。

 客といいましたが、人ではありません。もうおわかりでしょう。それは一脚の古びた木製の椅子でした。

 背年は首を傾げるとつぶやきます。


「おかしいな。こんな椅子、見覚えがないな。もちろん僕が置いたわけではないしね」


 お邸の庭のことなら背年はすべてを掌握(しょうあく)しているつもりでした。ペンキ塗りや簡単な大工仕事ならお手のものですが、雨樋(あまど)いの金属部分の劣化にともなう水漏れなど、彼の手に余るものは専門の修理業者に依頼しなくてはなりません。樹や草花の手入れだけでなく、業者を呼んでの采配(さいはい)も青年に与えられた役割でした。

 ですが、もしかしたら彼が知らないあいだに第三者が入ってきて椅子を置いていったのかもしれません。ありえないことですが。


「たしかめないと」


 薔薇園に無断で入られては困ります。絶滅を危惧された品種も少なからず栽培していますから、心ない愛好家から狙われるリスクも考慮に入れなければなりません。


 彼は薔薇園を出ると靴を()き替え、裏口から邸内の台所へと向かいました。メイドのシロナガヨシさんに事の次第をたしかめようと思ったのです。


「シロナガヨシさん、シリナガヨシさん」

 青年は声をかけます。外部からの取り次ぎはすべて彼女の仕事でした。それと調理をふくめた厨房での仕事も任されています。


 メープルシロップとバター、それにこんがり焼けたパンケーキの素敵な(かお)りが漂います。メイドのシロナガヨシさんは台所で特大サイズのミルク(びん)を抱えながらピッチャーに注ぎ入れている最中でした。


「あ。漆原(うるしばら)さん、おはようございます」

 少女は恥ずかしそうに顔を赤らめました。もしかしたら青年のことが好きなのかもしれませんね。


「お庭の薔薇園の方ですが」

「はい? 薔薇園がどうされましたか?」 

 ステンレス製のピッチャーを、よいしょっとテーブルの上に置くと、羞恥に頬をほんのり染めながらも青年に向き直りました。


「ええ。白薔薇のパーゴラの下にどなたかが椅子を置いているのです。何か知りませんか?」

「いえ、覚えはありませんね」

 上気した頬に右のひとさし指をあて考えこむシロナガヨシさんです。


「そうですか」

「でも奥様なら何かご存知かもです。リビングにおられますよ」


「わかりました。早速、お訪ねすることにしましょう」

 青年が立ち去りかけますと、


「ちょっと待って」

 とシロナガヨシさんが呼び止めます。


「はい?」

「お一つ、いかが?」

 焼き上がったばかりのパンケーキの一切れをフォークにさし、青年の口もとへと差し出してきます。――いえ、僕は、と断りかけましたが、空きっ腹が哀れっぽく鳴いてしまいましたので誤魔化しようがありません。


「えへへ、漆原さん、お腹の虫は正直ですよ? はい、あーん、してくださいな。一切れ、召しあがれ」

 思わず、ぱくりと食べてしまう背年です。

 もぐもぐ咀嚼しながらではありましたが、思わず感嘆の声が上がります。

「おいしい!」

「それは良かった」

 腰の後ろで手を組むと、シロナガヨシさんはにっこり笑いました。


 瞳をキラキラ潤ませて見送ってくれる彼女に軽く手を振り、青年は奥様のおられるリビングへとむかいました。

 白髪のきれいなご婦人がリビングで一人、(くつろ)いでいます。老眼鏡をかけて見入っているのは、物理や天体などの最新情報を美しい写真やグラフィックでもって彩ったサイエンス誌でした。


 広壮なお邸のわりには、ずいぶんこぢんまりとして可愛らしいリビングです。

 奥様は籐椅子(とういす)に腰かけ、採光のいい部屋で庭を一望しながら朝食を摂るのが習慣となっていました。


「奥様、おはようございます」

 量子コンピュータを特集した科学雑誌から眼を上げると、奥様も青年に挨拶します。

「おはようございます。それにしても漆原さん、珍しいわね。こんな時間に」

「すみません。突然、お邪魔したりして」

「どうなすったの?」


 と、そこへ軽く会釈してシロナガヨシさんがワゴンを押しながらリビングに入ってきました。

 テーブルにナプキンを敷くとナイフにフォークを慣れた手つきで揃えてゆきます。それからパンケーキが載ったお皿やフルーツの盛り合わせなどを配膳(はいぜん)してゆきました。


「白薔薇のパーゴラの下に見たこともない椅子が放置してありまして、何かご存知ないかと」

「椅子ですか?」

 お庭のことなら漆原さんの方が、……と言いかけながら奥様は藤を編んだ椅子から立ち上がります。別の眼鏡に掛けなおしますと青年の指し示す方向に眼を向けました。


「たしかに。椅子があるわ」

 赤い鼈甲(べっこう)の眼鏡の奥が(すが)められました。カーテンがふわりと風をはらみ、レースをすかして葉っぱの緑に白い花を散らしたアーチが見えます。


 そのあとは沈黙がつづきました。馥郁(ふくいく)と薫る搾りたてのオレンジジュースと牛乳の入ったグラスを置くシロナガヨシの配膳の音だけがひそやかに聴こえるだけ。やがて彼女は悪戯っぽく頭をちょこんと下げ、お盆を胸に抱くと部屋から出てゆきました。


「あれは何でしょうか?」

 と青年は思わず訊いていました。もとより答えは期待していませんでしたが。籐椅子にふたたび腰を落とす奥様は言いました。

「知っているわ」

 期待していなかっただけに青年は驚きました。


「どなたかの椅子ですか?」

「いいえ。あの椅子は誰にも属していないのです」

「は?」

「流れ椅子って知ってる?」

「いえ、知りませんが」

 初耳ですと断る青年に奥様は深くうなずきました。


「西條八十という詩人の書いた詩なのよ。その詩に、あの椅子のことが書いてあってね」

 そこで奥様は言葉を区切ると童謡の一節を静かに口ずさみました。


 青年はイメージします。

 誰もいない海。一脚の椅子が波打ち際に斜めに傾いて置かれ、砂にわずかに埋もれた脚は波に洗われています。

 聴こえるのは潮騒と風ばかり。

 月光はまばゆく、背もたれに止まるカモメの白い翼を輝かせています。


 寂しい風景です。が、それでもどこか旅情めく憧れを感じさせてくれるのです。なぜかというと、それは旅を宿命づけられた椅子でしたから。椅子は銀に光る波頭を超え、椰子(やし)の実みたく海流に乗って、はるばる遠くから流れ着いたのですから。


 まだ見ぬ異国の珍しい風物、南の島の花やカラフルな鳥のさえずり、半裸の美しい娘たち、会ったことのない人々への想いが募り、青年の胸は憧れでいっぱいになりました。彼は旅した経験がすくなく、いつか一人で遠方に行ってみたいと夢みていたのです。でも庭の世話が気がかりで遠出することをためらい、控えているのでした。


「童謡でもあるの。曲をつけた人がいるのよ。だから歌ってみたわ」

 その口ぶりに乙女じみた含羞(がんしゅう)をふくませながら瞳を伏せます。

「旅をする椅子なんですね」

 と青年が言うと奥様も応じます。

「そう、西條八十はそういう種類の椅子が現実に存在すると知って詩に残したのかもしれないわね。言ってみれば、――流れ椅子現象。荒唐無稽(こうとうむけい)ではあるけれど、でも、とってもノスタルジックで心躍る不思議な怪現象ではないかしら」


「とはいえ、なぜここに椅子が流れ着いたんでしょう? 海もないし」

「海のあるなしは問題ないかもよ。あの椅子は触媒(しょくばい)として出現した……」


「触媒? 化学反応でも起こそうとしているんですか? 何のために?」

 首をひねる青年です。

「塩をひとつかみ落とせば、それを触媒にして何かが生まれる。椅子がその塩となってくれるのね。この宇宙もそうやって誕生したのかもしれないわ」


「奥様は、あの椅子と前にも出会ったことがあるんですか?」

 青年の問いかけですが、奥様は答えることをしませんでした。その代わり、暖炉の上に飾られている額装の絵画に眼を向けました。

 奥様の視線につられ、青年も絵を見ます。そして息を呑みました。


 油彩の絵には椅子が描かれていましたから。しかも流れ椅子の背後には蜃気楼(しんきろう)めいた空間がひろがり、一人の怜悧(れいり)そうな顔をした少女が立っていました。どうやら昔の薔薇園のようです。


 もう五年近く、このお邸で庭師としてお仕えしてきましたが、今のいままで暖炉の絵には気づかなかった青年です。


 それからテーブルの上の科学雑誌のグラフィカルな表紙に眼を落とすと、――量子コンピュータ特集とありましたが、実に愉しそうに奥様は微笑むのでした。



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