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02

 旅する椅子と奥様から聞きましたが、それからも椅子はどこにも行かず、薔薇園にとどまり続けました。旅をやめてしまったのでしょうか。季節はほんの少しだけめぐり、八月となりました。


 庭の草木はますます萌え盛り、命の灯をほとばしらせています。陽炎がゆらゆらと立つ昼下がり。パーゴラの白薔薇のむこうの椅子の上に青年は見ました。一つの蜃気楼(しんきろう)を。


 ここいらは山の手の美しい住宅地です。広壮な邸宅が高い塀と鬱蒼とした森に囲まれ、鎮まりかえっている、そんな場所でした。


 だから青年はとてもありそうにない蜃気楼を幻視していたのです。

 椅子の上にあったもの。

 青空とスカイスクレイパー。

 天を()する楼閣(ろうかく)、と書いて摩天楼(まてんろう)といいます。


 碧空の下、硝子の超高層建築がスカイブルーを反射し、巨大な樹々みたいに何本もそそり立っている光景が青年を驚かせました。それはこれまでの人生で青年がテレビや写真でしか見たことのない大都会ならではの風光だったのです。


「なんで高層建築が……」

 奇妙なことに椅子に近づきすぎると幻想は消えてしまいます。

「う。消えた。どういうことなのかな?」


 もしや、と思い、一歩二歩と小刻みに距離を調節し、試してみると。

「ううむ」

 青年はうなりました。超高層のビルディングは消えてしまいましたが、そのかわり別の蜃気楼があらわれたのです。


 次に見えたもの。それが何なのか、理解するのに少し時間がかかりました。

「お」

 すぐに合点がゆきました。


 列車の吊り革が規則正しくゆれています。吊り革はすぐに消え、アルミボディの銀色車輛の外観が浮かび上がりました。でも、それも束の間のこと、わずかな時間で蜃気楼から消えてしまいます。あとは高架になったコンクリートの殺風景な橋梁(きょうりょう)が見えているばかり。


「列車か。行ってしまったけど……。ちょっと待ってみよう」

 つぶやく青年です。


 五分くらい薔薇園の同じ場所でじっと(たたず)んでいました。そうするとまた吊り革が見えました。今度は乗客の顔までわかります。顔は数秒で流れ去ってゆきました。あとはさっきと同じパターンの繰り返しです。遠ざかってゆく列車の後姿をとらえ、やがて車輛は小さくなって消えました。音は聴こえませんでした。


「面白いな」

 椅子から離れたり、近づいたりするたびに見える風景が変わるのです。


 雑居ビルの外階段で泣いている女の人があらわれたと思ったら、地上に舞い降りる途中の鳩の群れが椅子の上に忽然と出現することもありました。


 ガラスと金属とコンクリートで都会はできています。笑ったり、涙を流して抱き合ったり、時には殴り合いの喧嘩をする人たちが浮かび上がりました。人々の喜怒哀楽はどこでも変わらない、と青年は思いました。


 青年の立っているところから椅子との距離を調節することで蜃気楼の中身がいろいろと移ろい、変化するようです。

 だとしたらカメラのピントを合わせる仕組みとおんなじかも、と思いました。

 椅子との距離を歩幅でもって測ることによって、たまさかピントが合ったものが像を結ぶ、と青年は考えたのです。

 椅子は一つのカメラ、あるいは望遠鏡として機能しているようでした。


 ですが、それは一般的な光学望遠鏡のスペックを凌駕しています。スカイスクレイパーはここからでは遠すぎたからです。


「不思議だけど、やっぱり面白い」

 青年は夢中になりました。三日ばかり椅子との距離を探っては、庭仕事の合間の休憩時間を使い、あらわれる映像を次々にスライドさせ、愉しんだのです。


 やがて、とあるビルの一室に一人の女性を見つけだしました。ですが断りなく若い女性を盗み見するなんて気が(とが)めます。青年が眼をそらそうとした時です。

 と。

 彼はギョッとしました。その女性は青年が見えるらしく、おや、という表情で首を傾げたのです。それから彼に向って微笑みかけてくれました。


「画廊?」

 どうやらそこは普通のオフィスではなさそうでした。床は板張りで他に調度や什器(じゅうき)らしい品物はなく、がらんとしています。そして壁には額装された絵がかかっていました


「もしかして僕が見えているのかな?」

 彼女は青年に向けて手を振っているからです。


「本当に?」

 あり得ない。青年はみずからの言葉を疑いました。だって相手は蜃気楼です。


「おーい。君は僕のことが見えるのかぁ?」

 手のひらをメガホンみたいな形にすると青年は叫びます。彼女もまた耳に手を添え、彼の声を聴くゼスチャーで答えてくれました。もっとも声は届いてはいないようです。さすがに距離がありすぎました。


 その日は身振り手振りで意思疎通をはかろうとこころみましたが、上手くいったかは自信がありません。そのうち彼女はいなくなりました。


 その翌日のこと。あの画廊が再び浮かび上がりました。

 彼女がいました。青年はホッとしましたし、女の人から華やぐ風が吹きつけてくる気がして胸の高まりを覚えました。青年と同い年くらいの女性でしょうか。メイドのシロナガヨシさんより二つ、三つ年上のように見受けられます。


「画廊だし。僕も絵でも描いてみるかな」

 青年は思い立つとお邸の屋根裏部屋に向かいました。二階の廊下に行って天井から梯子を下ろし、屋根裏へと上がってゆきます。

 そこは意外にひろく、明かり取りの窓から夏の陽射しが入ってきています。


「ここいらに置いたかな?」

 奥様の許可を得て青年を屋根裏部屋に荷物を置かせてもらっていました。


 差し込む青い光に(ほこり)が浮かんでいます。屋根裏部屋には独特の雰囲気があって好きでした。年代物の洋箪笥(ようだんす)、古い椅子、陶器やガラスの花瓶が3ダースほどもあり、さらに他にも旅行鞄(りょこうかばん)、おもちゃを入れた箱、それから本棚に入りきらなかった本や雑誌が紐掛(ひもが)けされて置いてあります。屋根裏部屋の魔力とでも呼べばいいのでしょうか、興味のおもむくまま、そこで時を過ごしたい誘惑に駆られてしまう青年です。


 しかし、後ろ髪を引かれる思いをこらえ、彼はガラクタの山からイーゼルを引っ張りだしました。

 イーゼルとはカンバスを置くための三脚のことです。


 それから埃まみれになった道具箱をサルベージします。なかには油彩の絵の具やテレピン油、パレットに筆が入っているはずです。そして最後に比較的、保存がよさそうな無地の真っ白なカンバスを取り出しました。


 これらの道具にふれるのは本当に久しぶりのことです。美術学校を卒業して以来のことですから、すでに五年近くの歳月が経っていました。


 ともあれ、絵を描く道具をすっかり薔薇園に運びだした青年です。

 イーゼルを立たせてカンバスを置き、椅子との距離を小刻みに調節しながら構図選びに時間をかけます。そしておおまかな構図が決まると、白いカンバスに鉛筆を走らせました。


 イーゼルを置いた場所からは、背景に青空に浮かぶ氷の塔のようなスカイスクレイパーの群れが出現し、――まるでガラスの山脈がうねうねとスカイラインを形成しているかのよう、そして前景には例の画廊が明るい茶色に縁どられながらあらわれました。

 そう、あの女性をモデルにして肖像画を描こうというのです。


 彼女の顔貌(がんぼう)のデティールまではわかりません。それでも微笑みをたやさない女性に勇気づけられ、誰に頼まれることなく、ただひたすら絵筆をふるいました。まるで示し合わせたかのように彼女は絵のモデルになってくれたのです。


 ある日、奥様が珍しく薔薇園にやってこられ、青年の肩越しに絵を覗きこみました。

「そろそろ完成のようね」


 うららかに晴れわたった朝です。空は高く、うろこ雲が浮かんでいました。

 奥様は長袖のブラウスの上にストールを羽織っていました。そういえば、今朝は急激に気温が下がり、秋の入り口へと移ろったことを告げていました。夏は終わり、そして絵はあともう一息で完成します。


「素敵な絵ね」

 誉めてくださる奥様の言葉に偽りはありません。

「はい」

 青年も素直にうなずきました。


「絵が描きあがったら、あなた、どうするつもり?」

「え、どうするつもりって? 考えてもみませんでした」

 奥様からの唐突な質問に困惑するばかりです。

「なら、その絵。リビングに飾らせてくれないかしら。もちろん額装はわたしの方でしますから」


 願ってもないことです。描き上げた絵にとっても、それが幸せなことに違いありません。しかも額に入れられてリビングに飾られるとなれば、お邸に客人として招かれる多くの人の眼にふれることになるでしょう。誰にも顧みられることのない絵は可哀想です。奥様のご厚意に甘えることになりますが、絵のこれからの運命を想うならそうすべきです。


「ありがとうございます。そんなに上手な絵ではないですが」

 謝意をのべる青年です。でもその言葉を遮るように奥様は一方的に断定しました。

「あら謙遜ね。モデルになってくださったお嬢さんに失礼ですよ」

 絵の傍らで奥様は笑います。

「そうですね。反省します」


 画布の上で微笑む女性に目線を落とします。青年はおもいます。――それにしてもこの女性は誰で、どうして僕はこの娘のこと、描こうとしたのだろう、とひとりごちるのです。


「リビングの暖炉の上のあの絵だけど」

 奥様の声に我にかえると青年は顔を上げました。

「あ、はい。あれも流れ椅子の絵ですね」

「そうなの。主人が描いてくれたのよ」

「え、ご主人が?」

「ええ。プロの絵描きだったのよ」


 青年は、このお邸の旦那様のことは知りません。もう亡くなられて、かなりの年月が経っていたからです。画家であったとは初耳でした。


「ここから二千キロ離れた場所でね、流れ椅子の上にあらわれた蜃気楼のわたしをモデルにしたのよ」

「ということは?」


「今から六十年も前のお話ね」

「そうだったんですか」


「主人は当時、台湾で活躍していた画家でした。わたしはまだ子どもだったけど」

 たしかに賢そうな少女の肖像ですが、奥様の面影がありました。

「不思議ね。大人になったわたしは科学者になり、画家である主人とひょんなことから出会って結ばれたの。絵が描かれてから二十年ばかり経過していたけれど」

 青年は息を吐きました。返す言葉がなかったのです。


「わたし、この画廊を知っているわ」

「え?」

 意外な言葉に青年は凍り付きます。

「主人の絵を専門に扱っていてくれている東京の画廊よ。この絵のモデルになってくれた女性はきっと画廊主のマダムの娘さんね。面差しが彼女ととてもよく似ているもの」


 奥様は、青年の肩にそっと触れ、やわらかな微笑みの余韻を残すと薔薇園を後にしました。


 初秋の朝のことです。絵が完成したそのすぐあと、蜃気楼は消えました。流れ椅子が旅立っていったからです。

 モデルになってくれた女性も青年の視界からいなくなってしまいました。



 リビングの暖炉の上には二枚の絵が飾られています。

 ひとつは少女時代の奥様と椅子。そしてもう一枚は画廊主の娘。


 いまは冬。外では雪が降っています。春にむけての剪定(せんてい)を終え、クリスマスはもうすぐです。冬の間、庭でする仕事もさほどなく、青年は暇を持て余し気味になります。退屈しのぎに奥様から頂いたミステリ小説を読んで無聊(ぶりょう)を慰めるのですが、最近はどうも読書に気乗りせず、気が付けば火の気のないリビングにきて絵を見上げているのです。


「気になるんですか?」

 奥様の許しを得てリビングにいる青年の傍らに寄り添う人影があります。


「シロナガヨシさん?」

 挨拶もなくシロナガヨシさんは唐突に語りかけてきました。


「漆原さん。白薔薇の花言葉って知っています?」

 そういえば絵には白薔薇も描かれていました。

「知りません。どういう意味があるんですか?」

「漆原さんなんかに教えてあげません」

 そっけない態度のシロナガヨシさんです。


 窓からみる薔薇園もまたすっかり雪化粧されています。夏のノスタルジックな想い出はいまは白一色に封印され、静かに凍り付いているのでした。


「こんなところにずっといると風邪、引きますよ」

 捨て台詞を残してシロナガヨシさんはリビングから出て行ってしまいました。

 冬。庭木についた蕾はまだ固く、春の訪れも遠い。でも必ずやあたたかな西風は吹きはじめ、恋の女神はやってくるのです。




 消えてしまった椅子ですが、いずこへ旅立っていったのでしょう。その消息は(よう)として知れません。

 やはり気になるのは恋の行方です。青年と、絵のモデルになってくれた女性、そしてシロナガヨシさんの未来について。

 でも、一番たいせつなのは椅子が運命を決めるのではないってこと。

 恋の結末を見届けることなく流れ椅子は旅をつづけるのでした。


 



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