第二話 命震わす風の国――2
町に踏み込んですぐ、晴香と光貴は揃って渋い顔をした。というのも、町の関所を潜ってすぐ、ものすごい雑音にも似た喧騒が耳に飛び込んできたからである。それは人の声だったり、太鼓や笛、鈴といった楽器の音だったり、動物の鳴き声だったりした。故郷とは違う、むせるほどの熱を纏う雑踏がどこまでも続いている。
さらにいえば人の熱気と強い日差しのおかげでかなり暑い。
「うわああ」
晴香は薄汚れた布地を顔によせ、そううめいたほどである。
ちなみに今更であるが、四人とも日差しと砂埃をふせぐため、服の上から分厚い布をまとっている。
他方のラッセルとノエルは思いのほか冷静だった。
「うん。これはすごいな」
「まー……相変わらずといえば相変わらずですかね」
二人揃って呆れたように呟いていた。その様子を見て、光貴が訊いていた。
「二人とも、来たことあるのか?」
彼らの答えは微妙に違っていた。
「まあ、俺はそうそう来ないが」
「僕は『彼』との会談のためにしょっちゅう来てました。あと、先代『神聖王』の付き添いとか」
二人の会話に晴香は奇妙な違和感を覚えた。あまり心地よくないものだったが、すぐにそれは解決する。先代『神聖王』、その言葉を初めて聞いたからだ。そういえば晴香はもとより、張本人である光貴でさえ、先代のことはよく知らない。
どんな人だったんだろう、と思考しているうちに話は進む。
「じゃ、俺はまず城に顔を出してこよう」
「一人でですか?」
からりと言ったラッセル。ノエルが聞き返すと、彼はうなずいた。
「陛下から連絡がいってるはずだ。話をつける程度なら一人でも問題ない。いきなり全員で行くのもちょっとどうかと思うし、かといってこの兄妹を異国の地に放置するわけにはいかないだろ」
「まあ、確かに」
目を細めたノエルは、続けて言う。
「それじゃあ僕はこの二人についていればいいんですね」
「うむ、頼んだぞ」
いきなり厳かに返したラッセルはそのまま歩いていき、人混みの中に消えていった。ノエルほど頻繁に訪れないとはいえ、道を把握してはいるらしい。足取りに迷いがないことからそれがうかがえた。
ラッセルの赤毛を見送ったノエルが、やにわに二人を振りかえる。
「それでは、僕らは適当にぶらついているとしましょうか。絶対に僕からはぐれないようにしてください。あと、抜け目ない連中も多いので気をつけて」
「分かった」
「了解」
『預言者』たる少年の言葉に、二人は短い同意を返す。それから歩き始めた。
この街を行き来する人は、ほぼ全員が晴香たちと同じような格好をしている。この気候なので仕方がないだろう。ところどころで楽器の音が耳に入るから、どこかで路上演奏会でもしているのかもしれない。あるいは大道芸か。
「なんか、国が違うと音楽の雰囲気も違うね」
国外に来るのが初めての晴香は、そう言って嘆息した。音楽だけではなく、飛び交う言語も、充満する香りも、ピエトロとは違った。同じエクティア地方であればここまで大きな差異はないだろうが、ここはエクティアからは離れた地域である。
「……そういえば、僕も初めてピエトロに来たときは驚きましたよ。なんだか、それを思い出しますね」
彼の何気ない呟きに、晴香と光貴は顔を見合わせた。それから晴香が率先して口を開く。
「ノエル君がいた国にも、行ってみたいなあ」
すると彼は目を瞬いてから、照れくさそうに笑った。
「じゃあ、いつかその時が来たら僕が案内役をします」
「ほんと?」
答えながら、晴香は自らの表情が緩んでいることに気づいていた。珍しい彼の年相応の姿に嬉しくなっていた。が、横合で光貴がわずかに笑んでいるのが見えて、すぐ意識はそちらにいく。少女の瞳が剣呑な光を帯びた。
「――何さ?」
「なんでもないない。兄は嬉しいよ」
彼は笑顔を崩さないまま手を振る。わざとらしいその態度に、晴香は怒るより先に顔を赤らめた。内心を見透かされていると知ったからだ。
――前を歩く彼に、「特別な思い」を抱き始めたのはいつからだったのだろう。今となってはもう定かではない。きっかけとなる出来事はたくさんあったと思うが、そのうちのどれが本当のきっかけだったのか。そしてこの思いすら、まだ曖昧である。ただ一つ確かなのは、この思いがもはや抑えきれるものではない、ということくらいだ。
「うー、気にしない気にしない」
兄にも聞かれないくらいの小声で呟き、首を振った彼女は勇んで歩きだした。しかし、人混みにもみくちゃにされそうになって、すぐその勢いは衰えた。
先導するノエルは、視線を左右に動かしている。何か目ぼしいお店を探しているというが、一方で不埒な輩がいないか確認をする意味合いもあるのだろう。そうして周囲をうかがっていた彼は、あるところでいきなり目を止めた。ただし、歩みは止まらない。
「どうかしたの、ノエル君?」
「いえ、ちょっと気になるものが」
歯切れの悪い返答に違和感を覚え、彼の視線を追ってみる。それからぎょっとした。
「何、あれ」
人混みの中に見えるレンガの壁に、赤い塗料と思しき液体で乱暴に書かれた文字が見える。それは明らかにジブリオの言語だった。
「なんて書いてあるの? えっと、王……の一族、あ、王族ってことか」
「それと争い、今、女王、を、支持……なんだこれ?」
兄妹は連続して読んでいく。二人とも旅の間、ジブリオの言語を中心にあらゆる言葉を学んでいたため、多少なら読めるのだ。悔しいことに光貴の方が達者だが。
二人のたどたどしい訳を聞いたノエルはしっかりと渋面をつくった。
「やはり問題が発生していますか。これは嫌な予感がしますね」
少年の台詞に、晴香の顔が憂いを帯びる。
「大丈夫かなあ、ラッセルさん」
小さな小さな呟きは、すぐに雑踏にまぎれて消えていった。
「アレクに会えない!?」
城の前で、ラッセルは思わず叫んでいた。その叫び声に驚いたのだろうか。あるいは単に、ピエトロの宮廷魔導師の怒りに触れて怯えたか。いずれにしろ、城門を守る衛兵が気まずそうに言った。
「え、ええ……」
「なんでだ!」
ラッセルはすぐさま詰め寄る。衛兵から細い悲鳴が上がったが、知ったことではなかった。
せっかく苦労してここまで来たというのに、しかも一応こちらの都合とはいえジブリオの行く末も左右しかねない情報を持ってきたというのに、これではあんまりである。
すっかり怯えきった衛兵は、ぺこぺこと頭を下げつつも主張を変えなかった。
「も、申し訳ございません! しかし、今は何人も通すことができないというので……」
「なんっ――」
とんでもないにもほどがある内容に、ラッセルの顔がゆがむ。彼は一度衛兵から顔を離すと、改めて問いただした。
「陛下からそちらに連絡が行っていたはずだろう? そしてそのとき、正式な許可が下りたと聞いた。なのに、なぜだ」
疲れのにじんだ声音を聞いたせいか、衛兵が目を伏せる。迷いが見えたが、事情を知らない訳ではないらしい。何せこの兵士は平兵士といえども門を守り取次を行う役目を担っているのだから。
「確かに、あのとき陛下は正式な許可をなされました」
やがて、か細い説明があった。
「しかし事態が急変したのです。この一カ月の間に。それゆえ」
もっと続けたかったのだろうが、声は尻すぼみに消えた。だがそんなことはどうでもよく、発言の内容にラッセルは眉根をよせた。
「事態が急変? そういえばノエルもジブリオが妙だのなんだのと言っていたが……この国でいったい、何が起こっている?」
問うてみたものの、衛兵はそれ以上口を割ろうとしない。そして結果として慇懃無礼に追い返されてしまった。
人の波が絶えることのない市街地を歩きながら、ラッセルは苛立ちをおさえて考え込んだ。
「このジブリオで何かが起きていて、国際社会に目を向けてる暇がないってか。しかも」
衛兵が与えてくれたわずかな情報が、頭によぎる。
「……当のアレクが城にいないって、どういうことだ」
本当なら叫びたいところだが、通行人の目があるので控えて、代わりに辺りを見回す。すると往路では人混みのおかげでまったく見えなかった文字を見ることができた。それは赤や茶色、紫、黒といった色の塗料で乱暴に壁などに書きなぐられたジブリオの公用語である。それが、いくつか確認できた。
「『争うひまがあるなら国民に目を向けろ』、『女王支持』、『王弟派万歳、女王は即刻退位を』」
口の中で読んでいくうちに頭にのぼっていた血が少しずつ抜け、冷静さを取り戻していく。ラッセルは知らず知らずのうち、不敵な笑みをもって呟いていた。
「なるほどね、そういうことか。そりゃ、アレクも気が気じゃないだろうよ」
そして歩みを止めていたことを今さら悟った彼は、他の人に押されないうちに隙間を見つけて歩き出す。歩みを進めながら、なおも独語を続けた。
「さーて、これからどうしよう。まずはあいつらに相談だな。つーかあいつら、どこにいる?」
ぶつぶつと言い続けた彼は周囲の人から好奇の目を向けられ続けたが、幸いにして彼が宮廷魔導師ラッセル・ベイカーだと見破る通行人は一人としていなかった。




