第一話 日常という名の間奏曲――2
時計塔の鐘が、重々しく八時を告げる。それを聞いた晴香はふうっと息を吐いた。
「なんだろう。そんなに長い旅じゃなかったはずなのに、すごく懐かしい」
「そうだろうな」
呟きは、兄にも聞こえていたらしい。彼は妹の視線を意に介さず巨大な塔を仰いだ。彼にとっては二年ぶりのクリスタだ。いったい、何を思っているのだろう。
「おーい、二人ともー」
間の抜けた声に振り返った晴香は、ついつい頬をゆるめて問いかけた。
「何疲れ切った顔してるの、ライル?」
すると、自宅に訪れたときよりも疲労している幼馴染が二人の手前で止まって肩をすくめる。
「うん、その話なんだけどさ。まずはうちに来てもらえないかな?」
「……なんでだ」
腕組みしながら光貴が問うと、その光貴をライルは指さした。
「兄ちゃんが帰ってきたってことうっかり家で漏らしたら、すごい騒ぎになっちゃってさあ。それでまあ、兄ちゃんに犠牲になってもらおうというわけだ。ごめんね?」
さらりとそう告げたライルに、犠牲って、という言葉とともに呆れ顔を向けた光貴は、しかしすぐに晴香の方を振りかえった。
「いいか?」
短い問いに、彼女はうなずく。
「問題なし。お兄ちゃんだけじゃなくて私もだいぶ心配かけたと思うから、顔見せにいこう」
「よし、決まり」
サクッと答えてサクッとうなずき返された晴香は、家の方に足を向けるライルを追う形でかけだした。見ていたわけではないが、その後ろから兄がのろのろとついてくるのも分かった。
馴染みの肉屋に着くまで、大した時間はかからない。
そこからライルが勝手知った様子で奥に入り、古めかしいドアノブをにぎる。そして戸を開くと声を上げた。
「ただいまー。あと、北原兄妹つれてきたよー」
その呼び方はなんだと突っ込みたくなった晴香だが、どうせそんなことをしても無駄なので早々に諦めた。
すると薄暗い部屋の奥から足音が聞こえてくる。しばらく足音を聞いていると、見慣れた女主人が姿を現した。
「あ、おばさん。お久しぶりです、こんにちは」
目を丸くしている彼女に晴香が控えめに挙手して言った。相手のふくよかな顔は、だんだん紅色に染まっていく。
「ハルちゃん! それに……光貴くんも!」
「ど、どうも。二年ぶり、です」
対して光貴の顔はやや引きつっていた。
それを見たこの家を取り仕切る女は、ついにこらえきれなくなったのか、固まる少年を抱きしめた。
「もう、心配かけちゃって! この子は!」
「す、すいませ……ぐえっ」
力いっぱい締め付けられて、兄はどこか情けない声を上げている。晴香とライルはその様子を傍観しながら他人事のように苦笑していた。
「憐憫の眼差しが痛かったぞ」とは、のちの光貴の言葉である。
「おかえりなさい」
扉を開けるなり、部屋の奥からそんな声がする。訝しげに眉をひそめたラッセルは、しかし声の主に当たりをつけて返事をした。
「ただいま。相変わらず勤勉だな、緑君」
「いつまでその呼び方を続けるつもりなんです、あなたは?」
部屋の奥で自分の椅子に腰かけて本を読んでいたノエルが、顔を上げて睨みつけてきた。ラッセルがいつものように笑んでごまかすと、彼は再び本の方に視線を戻す。
「どうでした?」
先程までの様子を尋ねる少年。青年はその声に、顔をしかめて赤毛をかいた。
「どうもこうも。予想通りの尋問だったさ。まあ……一通り答えておいたけどな」
「晴香さんと光貴さんの状況も含めて、ですか」
もちろん、と答えたラッセルは、しかしふとその鳶色の目を鋭く光らせた。
彼の脳裏に、先程あるじが口にしていた内容がよぎる。
「ところで、『神聖王』凱旋の噂が、すごい勢いで諸外国に広まっているらしいぞ」
言いながら彼は、近くにある椅子を引いてきて腰かけた。椅子は短い悲鳴を上げる。ノエルの目は、あいかわらず本から外れることがない。
「すごいですね。だれにもそうと知られず帰還したはずなのに」
「おい」
あっけらかんと切りかえすノエルの声を、ラッセルは厳しくさえぎった。表情も厳しいまま緑色の髪をねめつける。
「とぼけてんじゃねえ。おまえだろ?――同盟五大国に、意図的に情報を流したのは」
ノエルはやっと本から目を外した。殺傷力さえありそうなラッセルの目を見てくる。
「さあ、なんのことでしょう?」
「てめえっ……」
「別に、悪いことをしようと思ったわけではありません。各国の守護天使に伝えるだけ伝えておこうと思っただけです。そこからどう広まったにしても、僕に責任はありませんよ」
今にも椅子を蹴って立ち上がりそうだった宮廷魔導師を、『預言者』の冷やかな声がさえぎる。まるで他人事のような言いようだ。旅に同行した晴香などからはもっぱら優しいと評価されている少年だが、この声を聞くかぎりとてもそうとは思えなかった。
ラッセルは眉をひそめて、しかし椅子に座り直す。
――いけしゃあしゃあと言いやがって。
思いながらも、問いかけた。
「どうだったんだ、あいつらの様子は」
ノエルはついに本を閉じて言う。
「だれもかれも忙しそうではありました。それぞれにやることが山積しているみたいですね。特に今、ジブリオ国は何か騒がしいことになっているみたいです。詳しいことは分かりませんでしたが」
騒がしいこと、と聞いたラッセルの眉間のしわが深くなった。
「なんだ、それは。内紛でも起きたか」
「だから分かりませんってば」
返ってきたのは、深いため息であった。
その後ノエルとたわいもない話をしてから、ラッセルは再び部屋を出た。今の廊下は人気が少ない。そのせいか、大理石の床から聞こえる靴音はよく響いた。
渋面を深くしながら歩いているうち一人の男とすれ違う。ラッセルは特に気にも留めず過ぎ去ろうとしたが、相手の方が足を止めた。
「ラッセル。ちょっと良いか」
呼び声に振り返る。
彼を呼びとめたのは、中年の男だ。たくましい体躯といかめしい顔つきは騎士を連想させるが、彼は外交官の一人であり、外務院の長を務める人物である。
「おう、アーチャーのおっさんか」
ラッセルが肩をすくめると、相手は白い歯を見せて笑った。
「『夜空の首飾り』奪還の任務、終わったんだな。なんか災難だったな」
「ああ……。俺よりもっと災難な奴がいるから、文句は言えんが」
外交官――アーチャーの口調は、彼の立場からすると宮廷魔導師に対するそれではない。しかしラッセルはまったく構わない。むしろそれを推奨するくらいだ。堅苦しいのが嫌いな彼の影響で、彼に気易い城勤めの人間は多い。
「で、なんか用か」
ラッセルが改めて訊くと、今度はアーチャーが肩をすくめた。
「いや、用というほどのもんでもない。うっぷんが溜まってたんで、ついつい呼びとめてしまっただけでなあ」
「なんだ、そりゃ。つーか俺らのいない間にうっぷんが溜まるようなことがあったのか?」
さりげなく問うと、まあな、と苦笑が返ってくる。内容を思い出したかこちらの小賢しさに呆れたか、あるいは両方か、そんな感じの笑顔だった。
ラッセルが続く言葉を待っていると、相手はおもむろに話し出す。
「実は最近、街で妙な噂がはやってるらしくてなあ。住民の単なるゴシップならいいんだが、どうもそんな感じじゃないし、外務院としても無視できないんでちょっと調査させてるんだよ」
「噂? なんだろうな」
内容次第では北原兄妹から詳しいことが聞けるかもしれないと思いつつ、なんの気も無しに訊いた。しかし問われたアーチャーの表情は険しくなる。
「――シオンとヴィスターテの二国が、同盟組むって噂だよ」
思わぬ返答にラッセルは絶句した。外交官は、彼の様子に気づかないまま続ける。
「もちろんシオン帝国は味方じゃないが敵でもない。だがヴィスターテとうちは土地の利権でもめている最中だろ? 噂が真実だとすれば、今後下手にどちらかの機嫌をそこねれば国の経済に影響が出かねんし……」
「あー、悪い。アーチャー」
愚痴を述べるように言う彼をさえぎり、ラッセルは手を上げた。顔の筋肉が引きつっているのを自分で感じていた。
訝しげなアーチャーに、申し訳ないと思いつつ一撃を叩きこむ。
「俺、いや俺たち、ついこの間シオン帝国を敵に回したかもしれんのだよ」
引きつっていたせいか、変な口調になってしまう。
しかし今度は、アーチャーがそれどころではなく沈黙していた。顔にはでかでかと「なんてことしやがる」と書いてあった。
ラッセルはとりあえずがりがりと頭をかきむしる。すると、アーチャーが辛うじて言葉をしぼりだした。
「……説明、求めて良い話か?」
瞬間、青年は悩んだ。王への報告をつい先ほど済ませてきたばかりである。その状況で下手なことを口走って良いものか。しかし暴露してしまったものは仕方がない。
ラッセルは腹をくくった。
「そっちに情報はいってないよな。でもいずれ分かるだろうから、話しておく」
これこそ外務院が無視できる話じゃないし、と前置きしたラッセルは語った。『夜空の首飾り』消失が本当に盗難によるものであったこと。その盗難の犯人が奇妙な二人組であったこと。さらに、彼らがシオン帝国の上層部に食い込んでいる可能性が高い、ということ。
「途中でシオンの刺客らしき人間が襲ってきたこともあったみたいだからなあ。本当かもしれないぜ?」
ラッセルがそう締めくくると、アーチャーは頭を抱えた。
「かーっ! なんてことだ」
本気で参っているその姿を見ると、なんだか居たたまれなくなってくる。
「悪いな」
「気にすんな。おまえらのせいじゃねえよ」
ラッセルが顔をしかめていることに気付いたのか、アーチャーは慌てて姿勢を戻し、手をひらひらと振った。しかしすぐ、眉間に深い縦じわが刻まれる。
彼はそれを隠すかのように窓の方を見やった。薄い膜のような白光の向こうには、青い空が広がっていた。
ふいに男は呟く。
「しっかし、あれだなあ。嫌な予感がするなあ」
外交官の勘だろうか。単なる呟きには思えない言葉に、ラッセルはついうなずいていた。
彼もまた、胸の中で確かなざわめきを感じているのだ。この正体が何か分からない。アーチャーと同じ「嫌な予感」だろうかと思っていた。
そして二人の男の「嫌な予感」は翌日、はっきりとした形で的中することになる。




