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君の罪を喰う  作者: 座間あぜん


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プロローグ 罪喰い

腹が減っていた。ノームは街道の脇に座り込み、ぼんやりと道の先を眺めていた。何日、何も食べていないのか。もう覚えていない。何千年も生きていれば、そんなことをいちいち数えなくなる。だが、空腹だけは何千年経っても慣れなかった。腹が減れば苦しい。力も出ない。身体が動かなくなる。死なないというだけで、身体そのものが特別丈夫なわけではない。ノームは地面に手をついた。


「……参ったな」


指先に力が入らない。立ち上がろうとしても、膝が笑う。あと少し歩けば街がある。そこまで行けば、何か食べられる。頭では分かっているのに、身体が言うことを聞かなかった。ノームは長い銀髪を肩から払い、痩せた身体を引きずるように立ち上がろうとした。見た目だけなら、せいぜい30歳ほどの男にしか見えない。だが、その実年齢は何千年なのか、本人にも正確には分からない。老いることもない。


不老不死。


それがノームにかけられた呪いだった。

何千年も生きてきた。世界で最も強い魔物を素手で殺したこともある。国を滅ぼせるほどの力を持つ存在と戦い、生き残ったこともある。ノームが本気になれば、この世界で彼に勝てる者はほとんどいない。世界最強と言っても過言ではなかった。


だが、様々な事情により今のノームは違う。長い旅の途中で食事を取れず、魔力もほとんど残っていない。空腹で立つことすらできない。今の彼は、世界最弱と言ってもいいほどに弱っていた。


そんなノームの前を、女と少女が通りかかった。女は30歳くらいに見えた。栗色の髪を後ろで束ね、質素な服を着ている。頬は少しこけていた。

少女は8歳ほどで、母親の服の裾を握って歩いていた。


2人はノームの前を通り過ぎようとした。だが、女が足を止めた。ノームは顔を上げる。


「……なんだ?」


女は答えなかった。代わりに、持っていた籠を開いた。中からパンを1つ取り出す。


「これ、どうぞ」


ノームはパンを見つめた。次に女を見る。


「いいのか?」


女はうなずいた。ノームはパンを受け取った。


「助かる」


かじる。硬いパンだった。冷めている。それでも、今のノームにはごちそうだった。腹の中に食べ物が入っていく。少しずつ身体に力が戻ってくる。


「……うまい」


女が小さく笑った。


「よかった」


少女も笑っている。ノームはパンを半分ほど食べ終えると、立ち上がろうとした。まだ足元はふらついている。それを見た女が言った。


「よかったら、家に来ませんか?」


ノームは女を見る。


「家?」


女はうなずいた。


「スープがあります。パンだけでは足りないでしょうから」


ノームは少し迷った。だが、腹は正直だった。


「……いいのか?」


女は笑った。


「はい」





ノームは女と少女についていった。

家は街の外れにある小さな家だった。壁は古く、屋根もところどころ補修されている。中へ入ると、少女が椅子を引いてくれた。


「どうぞ」


ノームは椅子に座った。


「ありがとな」


少女は照れたように笑った。しばらくすると、女がスープを運んできた。湯気が立っている。ノームは器を受け取った。


「いただきます」


口に入れる。温かい。野菜と豆が入っているだけの簡単なスープだった。それでも、身体の奥に染みるようだった。


「うまいな」

「おかわりもありますよ」

「いいのか?」


女はうなずいた。


「もちろんです」


ノームは2杯目のスープをもらった。少女はその様子を嬉しそうに見ている。久しぶりだった。こんなふうに誰かと食事をするのは。


ノームは何千年も生きてきた。国ができて、滅びるところを見た。友人が生まれて、老いて、死んでいくところも見た。自分だけが変わらない。いつだって最後に残るのは自分だった。だから、こういう小さな時間は嫌いではなかった。


ノームがスープを飲み終えたとき、扉が叩かれた。女の手が止まった。少女の笑顔も消えた。もう一度、扉が叩かれる。ドン、ドン、と乱暴な音だった。少女が母親の服を握る。ノームは2人の様子を見た。


「出ないのか?」


女は答えない。扉が乱暴に開いた。男が入ってきた。30代半ばほどの大柄な男だった。酒の匂いがする。男はノームを見ると、眉をひそめた。女が慌てて言った。


「この人は……」


女はノームを見た。そして、少し震えながら続けた。


「この人と結婚したの。だからもう関わらないで」


ノームは目を丸くした。


「……は?」


少女まで駆け寄ってきた。


「お父さん!」


少女がノームに抱き着く。ノームは固まった。


「お、お父さん?」


何千年も生きてきたが、こんなことを言われたのは初めてだった。男はノームと親子を見比べる。舌打ちした。


「チッ」


男は何も言わず、外へ出ていった。扉が閉まる。しばらく、誰も動かなかった。ノームが少女を見る。


「……今のは?」


女が頭を下げた。


「すみません。勝手なことを……」


ノームは女を見る。


「あの男は?」


女は少女を抱き寄せた。


「元夫です」


ノームは黙った。すると、少女が小さな声で言った。


「お父さんは、いつも怒ってるの」


女が娘の頭を撫でる。

そのとき、また扉が開いた。男が戻ってきた。手には酒瓶がある。


「やっぱ金を貸してくれ。倍にして返すからよ」


女の身体が固まった。それから財布を取り出し、中の金を全部渡した。男は金を数える。


「……これでもう、本当に最後にして」

「少ねえな」


女は何も言わない。男はノームを見る。


「お前は?」


ノームは首を傾げた。


「俺?」


男が手を差し出す。


「金を貸してくれないか。必ず返す」


ノームは自分の服を探った。もちろん、何もない。


「持ってない」


男は鼻で笑った。


「ヒモかよ」


ノームは何も言わなかった。


「女の家に転がり込んで、飯まで食わせてもらってるのか。いい身分だな」


男は吐き捨てるように言った。そして、少女を見る。


「メル、お前も早く金を稼げ」


少女が身体を震わせる。男は娘を見下ろした。


「その身体を使えば高く売れる」


女が娘を抱きしめた。


「やめて! もう二度と関わらないで!」


男は舌打ちした。


「使えねえ母娘だな」


男は金を握りしめ、そのまま出ていった。扉が閉まる。





少女が泣き出した。女もその場に座り込み、娘を抱いたまま肩を震わせている。ノームは2人を見た。さっきまで温かかった家が、急に寒く感じた。


「……あの男、よく来るのか?」


女は頷いた。少女は母親の胸に顔を埋めている。ノームは立ち上がった。


「神父に相談したことは?」


女が顔を上げた。


「あります」


女は唇を噛んだ。


「何度も教会へ行きました。でも……夫婦のことだから、互いに話し合いなさいと言われて」


ノームは眉を寄せた。


「神父は何もしてくれなかったのか?」


女は小さく首を振った。


「夫の実家は多額の寄付をしているので、騒ぎを大きくしたくないんだと思います」


ノームは黙った。神に祈れば救われる。そんな言葉を、ノームは何千回も聞いてきた。だが、祈るだけで救われない人間も、何千年という時間の中で嫌というほど見てきた。


「……そうか」


ノームは扉へ向かった。


「どこへ?」


女が尋ねる。


「警備兵を呼んでくる」


女の顔が強張った。


「でも……」


ノームは振り返った。


「あいつはまた来るんだろ。この先一生、搾り取られるぞ」


女は娘を抱く腕に力を込めた。ノームは家を出た。街の中心へ向かって歩く。本来の彼なら、あの男に痛い目を見せて脅かすことくらい簡単だった。本気を出せば、ノームは誰にも止められない。だが今の身体は限界まで弱っている。魔力もほとんど残っていない。それに彼には、誰にも言えない大きな枷があった。


今のノームが男と殴り合えば、勝てる保証すらない。だから警備兵を呼ぶ。ノームは自分が弱っていることを恥じなかった。強さだけではどうにもならないことがあるのも知っている。




警備所へ向かう途中、ノームは立ち止まった。教会が見えた。大きな白い建物だった。屋根には、この世界で広く信仰されている女神の像が掲げられている。ノームは足を止めた。さっきの女の言葉が頭に残っていた。神父に相談したけれど、何も変わらなかった。


ノームは教会を見上げたあと、歩き出した。今は神に頼るより、動いたほうが早い。だが、そのときにはもう遅かった。警備兵をつれて家へ戻ると、外に人が集まっていた。ノームは足を止めた。


「……なんだ?」


嫌な予感がした。人だかりを抜けて家の中へ入る。そこには、女と少女がいた。2人とも血まみれで泣いている。そして、床にはさっきの男が倒れていた。動かない。女の手には刃物が握られている。少女も震えながら立っていた。ノームの後ろから警備兵が入ってくる。


「何があった!」


女は何も答えられない。少女も泣いたままだ。警備兵が男へ駆け寄る。そして、首を振った。


「死んでいる」


外から集まってきた人々がざわめいた。


「人が死んだのか?」

「あの奥さんが人を殺したのか?」


誰も信じられないという顔をしていた。昼間まで普通に暮らしていた親子が、人を殺した。その事実に街の人々は驚いている。


「私がやりました」


警備兵は女の腕をつかんだ。


「殺人の現行犯だ。連行する」


少女が母親にしがみつく。女も娘を抱きしめる。


「お母さん!」


ノームはその姿を見つめた。女はパンをくれた。スープもくれた。少女もノームに優しく接してくれた。そんな善良な親子が、人殺しとして連れていかれる。似たような場面を、何度か見てきた。だから分かる。世間は人殺しの理由なんて聞いてくれない。どんな正当な理由があろうとも、それだけで罪になり裁かれる。




母は、娘が男を刺したところを目の前で見ていた。男が母に手を上げようとしたとき、娘は台所から包丁を持ち出し、母を守るために男へ刃を突き立てた。母は、そのすべてを見ていた。だからこそ、自分が殺したのだと警備兵に嘘をついた。娘を守るためだった。


けれど、娘も牢へ入れられた。母には、その理由が分からなかった。


「どうして……、この子まで……」


看守は淡々と答えた。


「クスーシス正教会の教えは知っているだろう。人殺しの血は、また人を殺す。親が人を殺したなら、その子も同じ罪を背負うのは当たり前だ」


母は言葉を失った。




夜の牢獄は静まり返っていた。昼間は聞こえていた警備兵の足音も途絶え、石造りの廊下には小さな明かりがいくつか残っているだけだった。母は壁にもたれ、娘はその隣の牢で膝を抱えていた。2人の牢は隣り合っている。それでも、間には分厚い壁がある。声は届くのに、顔は見えない。


「お母さん……」


娘の声がした。母は壁に手を当てた。


「ここにいるわ」


娘は小さく泣いた。


「ごめんなさい……。私のせいで……」


母は首を振った。


「違うわ。メルは私を守ってくれた。そうでしょ」


そのとき、廊下の奥から足音が聞こえた。こんな時間に誰かが来るとは思わず、母は顔を上げた。足音はゆっくりと近づいてくる。カツ、カツ、と石の床を踏む音だけが牢獄の中に響いた。母は格子の向こうへ目を向けた。薄暗い廊下の奥に、人影が見える。警備兵だろうか。そう思ったが、歩き方が違った。鎧の音もしない。ただ、一定の間隔で足音だけが近づいてくる。


やがて男の顔が明かりに照らされた。次の瞬間、母の目が大きく見開かれた。


「……ノームさん?」


娘も壁の向こうから声を上げた。


「ノームさん……?」


母は格子へ駆け寄った。


「どうしてここに……?」


ノームは答えず、牢の中にいる母と、その向こう側にいる娘を見た。2人とも泣き腫らした顔をしている。母はノームの姿を見たことで、余計に不安になった。


「ノームさん、早く帰ってください。ここにいたら、あなたまで……」


ノームは首を横に振った。


「俺がお前たちの罪を食う」

「……え?」


壁の向こうでも、娘が戸惑っているのが分かる。


「何を……言ってるんですか?」


ノームは格子へ近づいた。


「2人とも、俺と握手しろ」


母は意味が分からず、差し出された手を見つめた。


「握手……?」


ノームは頷いた。


「そうだ」


母は迷った。けれど、ゆっくりと手を伸ばした。ノームの手を握る。


「これでいいんですか……?」


ノームは「ああ」と短く答えた。そして、壁の向こうにいる娘へも促した。


「お前も」


娘も戸惑いながら手を伸ばした。壁があるため、母の牢から直接娘を見ることはできない。それでも、ノームが娘の手を握ったことだけは分かった。


3人の手が触れた、そのときだった。


《罪喰い》が発動する。


母が背負っていた罪も、娘が背負っていた罪も、ノームの中へ流れ込んでくる。男を殺したという罪。自分が殺したのだと嘘をついた罪。2人が抱えていた恐怖も、後悔も、すべてノームの中へ入っていく。ノームは、そのすべてを喰った。


母は何が起きているのか分からず、ただノームの手を握っていた。娘も同じだった。体に何かが起きたわけではない。痛みもない。ただ、胸の奥に重く残っていた何かが、少しずつ自分から離れていくような感覚だけがあった。


罪が消えたのではない。罪を背負う人間が変わったのだ。母と娘の記憶は変わらない。2人だけは、ノームに罪がないことを知っている。けれど、それ以外の人間の認識は変わる。ノームが男を殺したという認識に入れ替わる。娘が男を刺したことも、母がその罪をかぶったことも、もう誰も覚えていない。


ノームは手を離した。


「これでいい」


母は握られていた手を見つめた。娘も壁の向こうで黙り込んでいる。2人とも、何が起きたのか分からない。ただ、ノームだけが何かを終えたような顔をしていた。


「助けてもらった礼だ」


母は何か言おうとした。けれど、言葉が出てこない。娘も壁の向こうで黙ったままだった。





ノームは有罪となった。処刑方法は火刑だった。


処刑の日、ノームは火刑台に立った。両手を縛られ、足元には乾いた薪が積まれている。周囲には大勢の人間が集まっていた。その中に、あの女と少女の姿があった。女は泣き崩れ、少女は母親の腕の中で震えている。なぜこんな状況になっているのか、全く理解できなかった。


2人はただノームを見つめていた。何度も何度も首を横に振りながら、それでも何もできない。ノームはそんな2人を静かに見つめた。


あの日、腹を空かせて道端に倒れていた自分に、パンをくれた。家に招き、温かいスープまで飲ませてくれた。あのときの味を、ノームは覚えている。これまで数え切れないほどの食事をしてきた。それでも、あの日のパンとスープは忘れられなかった。だから、今ここにいるのも悪くないと思った。


やがて火が放たれた。炎が薪を包み、熱が足元から這い上がってくる。


熱い。痛い。


何千年生きても、焼かれる痛みに慣れることはない。皮膚が焼ける。肉が焼ける。髪が燃え、息を吸うたびに熱い空気が肺へ入ってくる。やがて皮膚がなくなり、肉がなくなり、それでも炎は止まらない。ノームは不死だ。だがそれは死なないことを意味しない。死ぬという行為を含めた上で不死なのである。


身体は少しずつ焼け落ちていき、最後には骨だけが残った。


それが2人にとってのノームの最後だった。女は声を上げて泣いていた。少女も母親にしがみつきながら泣いている。


女と少女は知らない。ノームが生き返ることを知らない。


だから、2人はノームのために小さな墓を作った。女と少女で墓の前に立ち、毎朝、そこへパンを1つ置いた。あの日、ノームに渡したものと同じパンだった。焼かれて死んだ男へ、もう食べることのできないパンを毎日供える。


「ごめんなさい。ノームさん」


女が手を合わせる。少女も母親の隣で手を合わせる。返事はない。だが墓の下には、ノームの骨が埋まっている。2人は毎朝そこへ通った。パンを置き、手を合わせ、名前を呼ぶ。感謝の言葉を述べる。それが2人にできる唯一のことだった。






80年余りが過ぎた。焼けた骨から肉が生えた。失われた指が形を取り戻し、腕が戻り、胴体が戻っていく。焼けた皮膚も少しずつ再生し、最後には元の姿へ戻った。


ノームは目を開けた。


いつものことだった。不老不死の呪いを受けているノームにとって、死は終わりではない。どれだけ身体を壊されても、灰になっても、時間が経てば生き返る。だが、今回は時間がかかりすぎた。80年以上もかかった。それでも、ノームにとっては長い眠りから目を覚ましたようなものだった。


ノームは墓の中から出ると、何も言わずに歩き始めた。自分が埋められていた場所に、誰かが毎朝パンを置いていたことを、ノームは知らない。自分の名前を呼び続けていたことも知らない。少女が90歳近くになっていることも知らない。


かつてノームに『お父さん』と抱きついた少女は、白い髪をした小さな老婆になっていた。それでも、墓参りだけは続けていた。身体が思うように動かなくなっても、杖をつきながら毎朝墓へ向かった。墓の前にパンを1つ置き、80年前と同じように手を合わせる。それが老婆の日課になっていた。


ある日のことだった。老婆は杖をつきながら街道を歩いていた。ゆっくりと前を向いて歩いていると、向こうから1人の男が歩いてくる。長い銀髪。若い顔。痩せた身体。老婆は、その姿を見た途端に足を止めた。


男が近づいてくる。顔が見える。胸の奥が大きく跳ねた。80年前の記憶が、一気によみがえる。道端で倒れていた男。パンを食べる姿。温かいスープを飲んでいた姿。そして、最後に火の中へ消えていった姿。目の前を歩いている男は、そのときと何も変わっていなかった。


老婆の足が震えた。息が詰まる。目を見開いたまま、男を見つめる。


「ノーム……さん?」


声が震えた。男も老婆の視線に気づいたが、足を止めることはなかった。ノームはその老婆がかつての少女だとは思わなかった。


老婆には分からなかった。そんなはずがない。80年前に死んだ。自分の目の前で焼かれた。自分たちの代わりに罪を背負って、火の中で死んだ。だから、目の前にいる男がノームであるはずがない。似た人なのだ。きっとそうだ。そうでなければ、おかしい。死んだ人間が生きているはずがない。まして、80年前と何も変わらない姿で歩いているなんて、ありえない。


老婆は震える手で口元を押さえた。男は何も言わず老婆の横を通り過ぎていく。その背中を見ているだけで、老婆は涙が止まらなくなった。銀色の髪も、細い背中も、歩き方も、記憶の中にあるノームと重なっている。


老婆はその場に立ったまま、遠ざかっていく背中を見つめ続けた。

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