第1話 世界を脅かす病、幻惑の黒死灰(ペスト・アッシュ)
秋の柔らかな陽光が注ぐ、ヴァルボート公爵邸のテラス。
咲き誇る白バラの花壇を臨むテーブルで、エルネはお気に入りのクッキーを嬉しそうに口へ運んでいた。
「ふふ、やっぱりジュリアンさんが淹れてくれたアッサムティーと、この特製焼きたてサブレの組み合わせは最高ですね!」
「お気に召していただけて光栄にございます、エルネ様」
洗練された動作で紅茶を注ぎ足すのは、完璧な燕尾服を身に纏う執事ジュリアンだ。
彼の立ち振る舞いには一切の隙がなく、まさに一流の執事そのもの。
だが、彼には人知れぬ過去があった。
「……たく、相変わらず手際だけは無駄に良いな、ドブネズミ」
「お褒めにあずかり光栄です。アルディス様。ですが、その名を持ち出されるのは少々風情に欠けますよ? 私は今、お嬢様の唯一無二の執事として、影からお護りすることだけに命を懸けておりますので」
ジュリアンは冷ややかな、しかしどこか晴れやかな瞳でさらりと微笑んだ。
そうなのだ。
ジュリアンはもともと、闇の組織『血天秤の蛇』から送り込まれた極悪非道の刺客、その名も最惨の烏だった。
しかし、標的であったエルネのどこまでも無垢で温かな光と優しさに触れ、魂を救われた彼は、今や彼女のためにすべてを捧げる忠実な従者となっていた。
「もーっ! アルディス様、またジュリアンさんをいじわるして! ジュリアンさんは大切なご家族なんですからダメです!」
「エルネがそう言うなら……」
エルネにぷくっと頬を膨らませて怒られると、絶対零度の公爵と全土から畏怖されるアルディスは、一瞬で目元を緩めた。
「だがエルネ、私への言葉が後回しなのは納得がいかんな。ほら、こちらへ来なさい」
「ふえっ? あ、アルディス様!?」
抵抗する隙もなく、エルネの華奢な腰がひょいと持ち上げられる。気がつけばエルネは、アルディスの広く頑丈な膝の上へすっぽりと収まっていた。
「あ……アルディス様っ! お茶の最中です! 自分で座れますから……っ!」
「ダメだ。王都を救った愛しい私の調合官には、無限の栄養と私の愛補給が必要だ。君の体温をこうして腕の中で感じていなければ、私の心が落ち着かん」
「もう……理由になっていません……っ」
エルネの顔は熟したイチゴのように真っ赤だ。
アルディスは王国最強の騎士であり、エルネの愛する婚約者。冷徹無比な氷結魔法の使い手として知られるが、エルネに対してだけは歯が浮くような甘い言葉を連発する、超がつくほどの過保護で溺愛気質であった。
「やあやあ、相変わらず激しい愛妻家ぶりね、アルディス殿」
眼鏡をあげながら、長杖を手にした凛とした佇まいの美女が、呆れたような苦笑いを浮かべながら歩み寄ってきた。
「シリル様!」
やってきたのは、宮廷魔導士として変装しているギルド連合のマスター・シリルだ。
彼女は王国の裏と表に通じる巨大組織の長でありながら、エルネの類まれなる才能に惚れ込み、姉のように温かく見守ってきた頼れる協力者である。
彼女はアルディスがエルネを膝の上で抱きすくめている光景に、苦笑しつつも空いた席へ腰掛けた。
「まったく……可愛いエルネを抱き枕扱いするのは感心しないわね。いくら王都を救った英雄同士だからといって」
「英雄……だなんて、シリル様、大げさですよ。私なんて、ただ皆さんが繋いでくれた道でポーションを投げただけです」
「ふふ、相変わらず謙虚ね。でも、あなたの『特級万能鑑定調合』の才能がなければ、あの天空要塞黒蛇の砦から撒き散らされた毒は浄化できなかったわ。万物の性質を見抜き、奇跡の薬を創り出す……あなたは間違いなく、我がギルド連合の誇りであり、この国の救世主よ」
シリルは優しくエルネに言葉を投げた。
二週間前、暗殺組織が王都の上空に浮かべた巨大要塞との決戦。
アルディスが絶対零度の氷で世界を凍らせ、ジュリアンが影の鋼糸で道を切り拓き、エルネが特効薬『聖蒼の雫』で毒のコアを打ち砕いた。
さらに落下の危機に瀕した要塞をアルディスの氷で固定し、シリル率いる魔導士たちの総力結界で消し去ったのだ。
あの激闘を経て、三人の絆、そして王国の結束はより一層固く結ばれていた。
「……ふん。エルネの才能を世界が知るのは誇らしいが、これ以上害虫が群がるのは鬱陶しいな」
アルディスはエルネの首元に顔をうずめ、ふわりと漂う凛とした髪の香りを吸い込んだ。
「大丈夫ですよ、アルディス様。私には、世界で一番強くて格好いいアルディス様と、頼もしいジュリアンさんがついていてくださいますから!」
「……まったく、君という人は……そういう可愛いことを不意打ちで言うのは反則だ」
「おや、閣下が照れていらっしゃる。珍しい光景ですね」
「黙れ、ドブネズミ! 喉元を凍らせるぞ!」
「おっと、これは失礼いたしました」
ジュリアンが涼しい顔で頭を下げ、シリルが楽しそうに紅茶を啜る。アルディスの腕の中で幸せそうに微笑むエルネ。
青空の下で繰り広げられる、いつも通りの甘くて温かな日常の一コマ。
だが、この時の彼らはまだ知らなかった。
この平穏のすぐ裏側で、隣国ガルディア帝国を恐怖に陥れる新たな惨劇、人間が黒い灰となって崩れ落ちる奇病の影が、すぐそこまで迫っていることを。
◇◇◇
ヴァルボート公爵邸の庭園には、眩しいほどの陽光が降り注いでいた。
白バラが咲きこぼれる東屋のテラスで、エルネは小さな溜息をひとつ吐き、手元に置かれた硝子小瓶の蒼い液体を見つめていた。
ポーションの透明な揺らめきに、澄み切った秋空の青が映り込んでいる。
「……よかった。本当に、みんなが無事で……」
あの日、生死を賭けた激闘の末に取り戻した平和。街を包む人々の笑い声や、青空の下で吸い込む澄んだ空気の愛おしさを、エルネは今でも胸の奥で確かめるように噛み締めていた。
「お嬢様、お茶の準備が整いました」
洗練された美しい動作で、磁器のカップに黄金色の液体を注ぎ入れたのは、完璧な燕尾服を纏った執事ジュリアンであった。
湯気とともに昇り立つのは、アッサムの茶葉に微量のダマスクローズをブレンドした、エルネのお気に入りの香りだ。
「ジュリアンさん、ありがとうございます。……ふふ、やっぱりジュリアンさんの淹れてくれるお茶が世界で一番好きです」
「もったいないお言葉にございます、エルネ様。あなた様がこうして笑顔でお茶を口にできる日常こそが、私どもにとって最大の報酬でございます」
ジュリアンはどこまでも品格に満ちた笑みを浮かべ、薄い手袋をはめた手で綺麗に頭を下げた。あの日、己の過去と向き合い、エルネの温かな包容によってトラウマを乗り越えた彼の赤い瞳には、以前のような深い陰りは一切ない。
「……ふん。ジュリアンばかり褒めて、私への言葉はないのか、エルネ」
低い、けれど甘く滑らかな声が耳元に響いた。
「あっ……ア、アルディス様!?」
一瞬で顔を真っ赤にしたエルネが、パタパタと小さな手でアルディスの袖を引っ張る。
「——アルディス! エルネ!」
庭園の静寂を破り、軽快だが緊張を孕んだ足音が響いた。
現れたのは、宮廷魔導士として変装したシリルであった。
普段は飄々として美しい彼女の瞳が、今は切迫した色を帯びて揺れている。
その手には、王室の赤い蝋で封印された一枚の書簡が握られていた。
「シリル様? どうなさったのですか、そんなに慌てて……」
アルディスの膝の上から慌てて降りようとするエルネだったが、アルディスは「そのまま座っていなさい」とばかりに腰を抱く腕の力を少しも緩めない。
シリルも今はそれを咎める余裕すらないようだった。
「……国王陛下からの緊急招集よ。至急、王宮の執務室へ向かってほしいの。……ただ事ではないわ」
「オズワルド陛下から……? シリル、内容は何だ」
アルディスが急に冷徹な公爵の顔に戻り、眉をひそめる。
シリルは一度唇を噛み締め、声を低めて言った。
「隣国……ガルディア帝国の国境都市ベルツで、異常事態が起きているの。……人間が、何の前触れもなく黒い灰となって崩れ落ちて死亡する怪病が発生したわ。その名も『幻惑の黒死灰』」
「人間が……灰に……!?」
エルネは息を呑んだ。
「ええ。ギルドで集めた情報も同じよ。すでにベルツの街は完全封鎖され、感染者は数千人に達しているそうよ。ガルディア帝国軍の軍医たちも手を尽くしたけれど、原因すら特定できず、ただ街ごと焼却する案すら出ているらしいわ。……帝国から我が国へ、緊急の救護要請と、ひとりの人物の派遣要請が届いたの。王宮はまだこの前の王都襲撃事件の片付けや処理で慌てているし、ギルドとしても依頼が来ている。……一緒に来てくれるかしら?」
シリルの視線が、アルディスの胸の中にいるエルネへと向けられる。
「……行きます! もちろんです!」
◇◇◇
王宮、国王の執務室。
重厚なマホガニーの机を挟んで、国王オズワルドが苦重な表情で窓の外を見つめていた。
部屋の中には、オズワルド、騎士団副団長ギルバート。
そしてギルド連合マスターシリル、騎士団長アルディス、王国特級万能鑑定調合官エルネ、その執事ジュリアンが集まっていた。
「……来てくれたか、エルネ、アルディス」
オズワルドが振り返り、手元の羊皮紙を叩いた。
「ガルディア帝国からの親書だ。惨状は悲惨を極めている。感染した者は、皮膚に紫黒色の斑点が浮かび上がり、高熱と恐ろしい幻覚に苛まれた末、わずか三日で全身が黒い灰となって崩れ去るという。治療法はおろか、病の正体すら不明……まさに『黒死灰』の災厄だ」
「病ではない……と、私は踏んでいます」
静かに口を開いたのはエルネだった。その表情からは、先ほどまでの可憐な甘さは消え去り、ひとりの特級調合官としての鋭い光が宿っていた。
「身体が灰化するほどの劇的な変化が病原体によるものだとすれば、感染速度と致死率が不自然すぎます。……それは病ではなく、何者かが人為的に作り出し、撒き散らした『魔導毒素』の可能性が高いです」
「人為的な毒……!?」
ギルバートが思わず声を上げた。
「ええ。人体の魔力循環を強制的に暴走させ、体内から元素レベルで燃やし尽くす……そんな悪魔のような毒素が存在するとすれば、一般的な薬品や治癒魔法では絶対に治せません。毒の構造を解析し、専用の構成陣を持つ薬を調合しなければ……」
「……エルネ」
アルディスが低く静かな声で彼女の名を呼んだ。
その氷碧色の瞳には、懸念と焦燥が混ざり合っている。
「行かせるわけにはいかん。隣国ベルツは現在、死の毒気が充満する地獄絵図だ。君をそのような危険な場所へ晒すなど、私が絶対に許さない」
「アルディス様……」
「どうしても行くというのなら、私が帝国へ赴き、その『黒死灰』とやらを吐き出す元凶ごと、都市ごと凍らせて滅ぼしてこよう」
「アルディス、エルネのこととなると途端に阿保になって……」
シリルが呆れて言うが、アルディスの眼光は本気だった。エルネの身に万が一のことがあれば、世界ごと凍りつかせかねない男なのだ。
しかし、エルネは逃げなかった。
彼女はアルディスの大きな手に自分の両手を重ね、その直視を真っ向から受け止めた。
「アルディス様。……私を心配してくださるお気持ちは、とっても嬉しいです。でも……私、行かなきゃいけないんです」
「なぜだ。君が命を懸ける義理など、隣国にはないはずだ」
「義理じゃありません。……私、知っているんです。大好きな人たちが傷つく苦しみも、大切な街が毒に侵される恐怖も。あの日、アルディス様やシリル様、ジュリアンさんが私を守ってくれたから、私は今こうして生きています。……だから今度は、私がその手で誰かの青空を守りたいんです」
エルネの瞳には、微かな揺らぎすら存在しなかった。幼く華奢な少女の体から溢れ出すのは、何物にも折れぬ真の強さと、至高の調合官としての誇り。
「私の調合で……『聖蒼の雫』を超える奇跡の薬で、苦しんでいる人たちを救ってみせます! だから……私を信じて、一緒に行かせてください、アルディス様!」
「……っ」
その凛とした覚悟に、アルディスは言葉を詰まらせた。
息をのむような静寂が執務室を包む。
やがて、アルディスは深く、長く溜息を吐き、自らの額をエルネのおでこにそっと押し当てた。
「……本当に、君には勝てないな」
「アルディス様……?」
「分かった。君の意思を尊重しよう。……ただし、条件がある」
アルディスはエルネの瞳をじっと見つめ、逆らえぬ絶対的な威厳を込めて命じた。
「一瞬たりとも、私の視界から外れるな。食事も、睡眠も、移動も……すべての瞬間において、私がお前を護る。一筋の埃すら、君に触れさせはしない。……それでいいな?」
「ふふ、はい! ありがとうございます、アルディス様!」
エルネがパッと花が咲くような笑みを浮かべると、アルディスの表情もわずかに緩んだ。
「……よし。決まりだな」
オズワルド国王が頷き、表情を引き締めた。
「ヴァルボート公爵こと、王国騎士団長アルディス、そして婚約者であり、特級万能鑑定調合官エルネ。両名に隣国ガルディア帝国・国境都市ベルツへの救護使節団としての派遣を命じる。……ジュリアン」
「ハッ」
背後から滑り出るように、ジュリアンが深く首を垂れた。
「主たるエルネ様、そしてアルディス殿の身辺警護および補佐を任せる。影となりて二人を支えよ」
「謹んでお引き受けいたします、陛下。我が命と誇りに代えましても、お二人には指一本触れさせはいたしません」
ジュリアンの赤い瞳が、暗い使命感に燃え上がる。
こうして、王都に束の間訪れていた平和は終わりを告げ、三人は新たなる試練の地——灰の降る街ベルツへ向けて旅立つことが決定したのだった。




