第一話 選ばれた女
逃げればいい。
そう思ったことは、何度もある。
けれど——逃げた先に、私の居場所はない。
この世界では、女は一人では生きていけない。
誰に愛されるかで、すべてが決まる。
だから私は、あの日、震えた。
宮中でもっとも美しい男。
誰もが憧れ、誰もが恐れる存在。
光源氏
その人が、私を見たからだ。
「……あなたの名は?」
優しい声だった。
それだけで、胸が締めつけられる。
周囲の空気が変わる。
さっきまで笑っていた女たちが、黙る。
そして、ゆっくりと私を見る。
その視線の意味を、私は知っている。
——羨望。
——嫉妬。
——そして、敵意。
それでも私は、嬉しかった。
選ばれたのだから。
あの人に。
その瞬間、私の人生は決まった。
もう、元には戻れない。
「こちらへ」
差し出された手は、あまりにも自然で、あまりにも残酷だった。
私は、その手を取った。
取ってしまった。
その時、背後から声がした。
「おめでとうございます」
振り返ると、一人の女が微笑んでいた。
美しい人だった。
けれど、その目は少しも笑っていない。
「……ありがとうございます」
そう答えると、彼女はゆっくりと近づいてきた。
そして、私の耳元で囁く。
「でも、お気をつけて」
心臓が、嫌な音を立てる。
「ここでは——」
一瞬だけ、彼女の笑みが消えた。
「愛された女から、壊れていくのです」
言葉の意味が、分からなかった。
いや、分かりたくなかった。
そんなはずはない、と。
だって、愛されるのだ。
選ばれたのだ。
それが、不幸なはずがない。
そう思いながら、私は歩き出す。
光源氏の隣へ。
その距離は、ほんの数歩だった。
なのに——
もう二度と、元の場所には戻れない気がした。
彼は、優しく笑う。
その笑顔を見た瞬間、私は確信した。
ああ、この人に愛されれば、私は幸せになれる。
——そう、信じてしまった。
その夜。
一人になった私は、静かな部屋で息を吐いた。
夢のような一日だった。
けれど、胸の奥に、何かが残っている。
あの女の言葉。
愛された女から、壊れていく。
あり得ない。
そう思うのに——
なぜか、頭から離れない。
ふと、気づく。
部屋の外に、人の気配がある。
小さく、ひそやかな声。
「新しい女らしいわ」
「どれくらい持つかしらね」
「すぐに飽きられるでしょう」
笑い声が、かすかに響く。
その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。
どうして——
どうして、こんなにも怖いのだろう。
愛されているはずなのに。
その夜、私は眠れなかった。




