表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

103/190

第90話 英雄の最後

今回は武田信玄の視点でのお話です

彼が最後にこの世に遺したものとは?


 陽の光もほとんど差し込むことのない城の裏手側にある一室。


 今年に入ってから何度目か、政務の最中に血を吐いて倒れたワシは恐らく意識が無いままで運び込まれ、このような場所に寝かされていた。記憶がある中では確か、足利義昭軍が朝倉攻めを行うのに対し、義輝将軍から朝倉方へ援軍要請の書状が来ていたのに目を通して快諾の返事を書いている最中での体調不良だったと記憶している。あの書状は無事に義輝将軍に届いただろうか?


 

「全く、余計な事をしてくれたな」

「まあ実際には兵を送らねば良い事。それにあの『厄介者』も戦地へ向かわせることが出来よう」


 障子戸を通して部屋の廊下から誰かがひそひそと話している声が聞こえる。そのうちの一人は四男の勝頼で間違いないだろう。確か奴は美濃攻めでの失態の後、母型の実家・信濃の諏訪領にて大人しくしているようにきつく命じて秋山虎繁あきやまとらしげを監視に付けておいた筈だ。それがどうして?


「あとは御屋形様亡き後、勝頼様が当主となられれば……」

信豊のぶとよ。今更、御屋形様などと呼ぶ必要はない。あの男など放っておけば数日以内に死ぬ」


 身体の自由が利くなら立ち上がって障子を開け、全て聞こえていると怒鳴って2人をその場で斬り捨てることも出来た。だが実際は勝頼の読み通り、今のワシの身体では指先ひとつ動かすことは出来ない。このままであれば恐らく、数日のうちにワシの命は尽きるだろう。


 このような状況で天命が尽きてしまう事への不安が一気に押し寄せる。長らく同盟を組んできた北条殿は亡くなる間際、息子たちに自分にはない才を見出し「我が生涯に一片の悔い無し」と右腕を高く天に付き上げて満足そうな表情で息を引き取ったという。それに比べてワシは……此処に来て後悔ばかりだ。


 

 まだ若かった頃のワシは力に任せ、欲する者は全て力でもぎ取る事が正しいと信じて疑わぬ若造だった。当主となったワシを頭から押さえつけようとする父を追放し、信濃・諏訪の土地やその姫も家を滅ぼして奪い、海を得るがために越後の龍と恐れられる輝虎とも幾度となく刃を交えた。その中で唯一、そんなワシのやり方を止めようとしてくれる弟の信繁のぶしげを失って初めて、力で押し進めるだけのやり方では上手くはいかないと思い知ったのだ。


 亡くなった長男の義信は思えば信繁に似て、若いうちから思慮深く力に任せるやり方を好まない賢い息子だった。奴が生きていたのなら武に逸る勝頼を上手くなだめ、ワシと信繁のように上手く家臣たちをまとめ上げていけたのではないかと思っていたのだが……皮肉な事に義信は戦で死に、生き残って家督の継承権を得るに一番近い位置へ陣取ったのは勝頼の方だ。


 

 アイツは昔のワシの悪い部分ばかりを煮詰めた様な、どれかと言ったら横柄で苛烈であった追放した父・信虎によく似ていた。さらには「力でねじ伏せる事こそ全て」と言って憚らない尾張の織田なんぞに心酔していると聞いている。

 

 もし奴が当主として力を持ち、誰も奴に厳しい意見を述べられるものが残らなかったとしたら……その先に待っているのは、これまでの10年でやってきた「民が平和で穏やかに暮らせる甲斐」ではなく「奪い合いと戦に明け暮れ、民も兵も貧しく瘦せ衰えた争いごとの絶えぬ甲斐」に逆戻りだ。


 そうならぬように、ワシもワシの考え方・やり方も信じて愛してくれた高坂昌信こうさかまさのぶら重臣たちに遺言を遺せればと思うのだが、この状況下ではそれも無理そうだ。せめて北条家の氏政殿のように自分よりは頼りなくとも家臣たちを正しき方向へとまとめ上げてくれる、そんな息子がワシにも居てくれれば良かったのじゃが……


 そう思った時、頭に浮かんだのは信繁を亡くしたあの『川中島の戦い』から帰った時に出会った、うだつの上がらない風貌の割に妙に説得力のある大口を叩きおった一人の小僧だった。奴はあの後、幾つもの苦難を乗り越えて今では駿河の国主にまで上り詰めている。あの男がワシの息子であったならどれだけ良かったか。



 そこまで考えたところで、これまでずっと忘れていた存在の事を思い出す。すぐに筆を取ろうと思い立ってみるのだがやはり身体は全く動かせず、起き上がる事さえままならない。


「誰か……誰かおらぬか?」

「……はっ。御屋形様」


 廊下に陣取る勝頼たちには聞こえぬよう一か八か小声で誰かを呼んでみると、それに反応して聞き覚えのある声が枕元から返ってきた。この局面でちょうどこの者が現れるとは……ワシの強運も捨てたものでは無いようだ。


「これから話す事を一文一句違わずワシの文字で書き残せ。恐らくこれがワシの遺言となろう」

「承知いたしました。天地神明に誓って、必ず」

「それと……」


 神妙な面持ちでワシの言葉に耳を傾けるその者に向かって、ワシは甲斐武田の当主として最後の言葉を話し出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ